25. 女神の抱擁は斯くも力強く
「坊ちゃん、そんなんじゃ何も守れないですよ!」
明くる日の早朝。カシェは自室の窓から聞こえる言い争う声に目を覚ました。
窓から外の景色を見やる。どうやら、ゼノとグリフが早速訓練を行っていたようだ。
「わかってるよ……!」
訓練に必死なのか、双方ともに声を荒げている。
幸いなことにゼノとグリフが訓練を行っている場所は屋敷の離れにある訓練場だ。ここは、かつてカシェが魔力を制御するために使用していた場所であり、カシェの魔力でも揺らがない頑強な防御魔術が掛けられている。
そのため、訓練場から声が聞こえるのは、同様に離れに設けられたカシェの自室やその近辺くらいである。念のため、カシェが訓練を行うので近付かないようにと使用人には言い聞かせており、大層な音でもなければ誰にも聞き咎められることはなかった。
「わかっているならやってみせてください!」
どうやら白熱しているようで、窓から下を覗き見るカシェの姿には二人とも気付いていないようだ。
「だからやってるでしょ!」
(魔力操作か……私も随分練習したものだな)
カシェの位置から何を動かそうとしているかは窺い知れないが、ゼノは何か物質を浮かせるために必死に魔力を動かしていた。しかし、思い通りにはいっていないらしい。魔術式を描こうと動かされた魔力は、まるで利き手ではない方の手か足で描いたように取り留めのない形をしている。
魔力が安定していないため、身体に溜まる分を放出するだけでもインクが滴った水面のように魔力が滲んでいた。
「そろそろ限界っぽいですね。一旦休憩にしましょう」
魔力は使い慣れるまでは相当な気力が必要となる。いくら魔力が多いとは言え、ゼノも例外ではなく、地面にへたり込んでしまった。
それをグリフが助け起こそうとするのを、手を振って断り、地面に寝転がる。そのままぽつぽつと何かを話し始めたが、閉め切った窓に遮られてカシェの耳には入ってこない。
窓を開けようか。いつもなら人の話を盗み聞きするような教養のない真似などしないのだが、この日は妙に聞いておかなければという気持ちが働く。その欲に後押しされた手が窓の鍵に手を掛け、窓を開けようと軽く力を込めた。
(いや、そんなことをすれば気付かれてしまうな……)
瞬間、腕に入れた力を抜いて手の甲に額を当てる。何となく、気付かれてしまえば話を止めてしまいそうで、カシェは大人しく耳を欹てた。
「……は、どうして旦那様を助……?」
「僕が……を深く傷付け……」
話は途切れ途切れであるが、自身の話をしているのであろうと理解した。
(傷付けた? 私を?)
全く覚えのない言葉に首を傾げる。クロヴィスとの時間を奪ってしまったことを言っているのだろうか。
考えてもわからない問いに、身体は増々前に押し出される。遂に、窓の方が先に耐え切れなくなり、生み出された小さな隙間から幼子の声をカシェの元に届けた。
「兄様も知らない。この先も知ることはない……ただ、僕だけの、許されざる罪だよ」
(あの言葉は一体どういう意味だったんだろうか……)
ぐるぐると頭の中をゼノの言葉が駆け巡る。硬質な声音で語られる随分な物言いに、頭が支配されて思考を追いやれない。
「あっ、兄様!」
そんなカシェの心の揺らぎなど露知らず、カシェを見つけたゼノが身を起こして手を振った。屈託なく笑う顔は、己の罪を告白した人物と同一であるとは到底思えない。
その後ろで控えているグリフもまた、何事もなかったかのように一礼する。
「ああ。調子はどうだ?」
カシェもまた、心の内を表に出さずに手を振り返した。
「まだまだ全然ですね」
たった一日でそう上手くいくものでもあるまい。それはゼノにもわかっているようで、肩を竦めている。
「見た限りでは、魔力を操作しようにも魔力量が多すぎて絞り切れていないのだろうな」
「やはりそうですか。私は魔力も少ない方なので……こういうときにどうすればいいものか」
今のゼノは文字を書こうとすればペン先から無限にインクが滴り、紙に染みを作っていくばかり。文字の書き方を教えようとしたら道具が壊れていたといった状況なのだから、頼まれたグリフとしても手の施しようがない。
暗に操作以前の問題だと言われ、流石のゼノも落ち込んでいるようだ。俯いてしまった亜麻色に一つ、提案をした。
「ゼノ、街へ行こうか」
***
石畳の上を、二人を乗せた馬車が小石を跳ねながら進んでいる。馬車のカーテンの隙間から賑やかな声が聞こえてくる。
ゼノはそれに目を向けることなく、カシェに尋ねた。
「兄様、どうして突然街に行こうなんて言ったの?」
恐らく今まで街へ遊びに行くことなど一度もなかっただろう。屋敷に来るときでさえ、目立つことを極力避けてきたはずだ。そうでもなければ、カシェが帰って来たときに町中で噂になるか、誰かに止められていたに違いない。
だが、ゼノは外の楽し気な笑い声に意識すら向けず、ただカシェを見ている。この年頃の子どもならば、まず気になるであろうに。それこそ、ソウレイのように。
「君に必要なものを見繕いに行こうと思ってな」
「必要なもの?」
「後でのお楽しみだ」
ゼノは目をくりくりと丸くした。
「本当に行くんですか~? せめて、教会にいる間は俺だけでも置いて行ってくれません?」
そのとき、御者台からグリフが情けない声で話しかけてきた。よっぽど行きたくないらしい。
「グリフ先生は教会の人が嫌いなのかい?」
「嫌いというか、苦手なんだ。優秀な司教なんだがな……少々変わり者なだけで」
「少々なもんですか!」
グリフの大声に馬が不機嫌そうな声を上げた。
「ま、悪い奴ではないさ」
少し不安そうに眉を寄せたゼノの頭を撫でる。その手が小さな手に取られ、指の腹を優しく撫でられた。
くすぐったくて思わず目を細めるも、手を振り払うことはない。
急速に変化した暮らし、頼りの大人が自分を置いて消えてしまった寂しさ。迎え入れられたからよかった、ではないのだ。どんな変化も心には大きな負担を与えてくる。恐らく、ゼノの口から直接語られることはないであろう気持ちが何気ない仕草に隠されているような気がする。
カシェには寄る辺ない不安に攫われそうな幼子の手を振り払うことなどできなかった。そんなことを思っていると、カシェの耳が馬車の中に落ちた音を拾った。
「……厚いね」
「鍛えているからな」
カシェの手の皮のことを言いたいのだろう。柔らかかった皮は何度も破れ、すっかり硬くなっていた。
「兄様も随分と頑張ったんだね」
「そうだな……それなりに苦労もした」
「兄様はどうして騎士になったの?」
今までにも何度も聞いた質問だ。騎士に向いていないのにどうして騎士になったんだ。もっと向いているものがあるだろう。人を心配するようで見下すような視線に曝されてきた。
しかし、ゼノの目は真剣だった。透き通るその目はどこか既視感すら覚える。
(今まで真剣にそう聞いて来たのは父上だけだったな)
瞼を閉じると、その裏に今でも鮮明に思い浮かべることができる。「カシェ、どうして騎士なんだい?」と聞いて来た柔らかい声の主は、決してカシェを否定することはなかった。
「だれかを守りたいと……思ったからだろうか」
「そっか。僕と一緒だね」
「ああ……今は、その限りではないがな」
失ったものを取り戻す——クロヴィスが死んだ真相を掴むためにも、騎士としての立場を捨てて領地だけを守ることはできない。
(何と最低な領主か)
吐き出した息は空に溶け、静寂に閉ざされた。
「旦那様、坊ちゃん。着きましたよ」
息を潜め、静かに二人の話を聞いていたグリフが御者台の小窓を軽く叩く。その音でカシェは深い思考の海から意識を浮上させた。
「ゼノ、部屋に着くまではフードを被っているように」
「わかったよ」
カシェの言う通りフードを被ったのか、ゼノの存在を認識し難くなる。馬車の扉を開けたグリフにはすっかり認識できなくなっているようで、そわそわと視線を彷徨わせていた。
馬車から降りると、乳白色の石で造られた壮麗な建物がカシェたちを出迎えた。白一色の建物には所々に色鮮やかな小花が咲き乱れ、寂寥感を拭い去っている。
万人を迎え入れんと大きく開かれた扉を挟むように、老若男女の不明な像が重々しく佇んでいた。
「首がない……」
カシェの隣、下の方から感嘆と唖然が入り交じった声が漏れ聞こえた。ゼノの言う通り、美しい像は首から上がない。だが、それでも石造とは思えない柔らかな肌の質感や軽やかな布を再現しており、純粋な美しさがそこにあった。
「神々の顔を描ける者などいないからな。……ここからは静かにしているように」
扉の前まで行くと、黒衣を身に纏った司祭がカシェを迎え入れた。
「ファーガス様、ようこそおいでくださいました」
「突然来てすまないな。……グリフ」
カシェがグリフに声を掛けると、すかさず斜め後ろを歩いていたグリフが前に出る。そして、司祭の手に何やら袋を乗せた。
「心ばかりですが」
「……これはこれは。貴方がたに神の御加護があらんことを」
いつものやり取りだ。神殿に来る際に寄付金を渡すことはよくあることだが、カシェはとある事情でいつも多めに寄付を行っている。
「すまないがジョゼ司教に会いたいのだが」
「かしこまりました。こちらにお越しください」
司祭の後について大聖堂の中に足を踏み入れると、楽しそうな子どもの話し声が聞こえてきた。
「あっ! 領主様だ!」
「どうしたの? 何か困りごと?」
子どもの方もカシェたち一行に気が付いたようで、わらわらと近寄って来る。頭上の耳や尻尾を揺らし、親し気に話し掛ける。それを司祭が困ったように止めていた。
「こら、お前たち……すみません、ファーガス様」
「気にすることはない。元気そうで何よりだ」
その事情というのが、この子どもたちであった。
この神殿は王都や他の領地にあるものと同様に国教であるが、他の神殿からは忌み嫌われている。それは、ファーガス領の特色——種族問わず万人を受け入れ、助け合う色が強く引き継がれているからである。その考えは他の神殿からは受け入れがたいものであった。
曰く、神々の敵たる魔族をその御身の内に迎え入れるのは、最早神々を冒涜する行為である、と。これは、神々がこの世に降り立ったとされる始まりを書き記した創世記の内容だそうだが、生憎カシェはあまり詳しくはなかった。
そんな宗教の軸があるにもかかわらず、魔族も神々の救いを求める敬虔な信者足り得ると説き伏せたのが、グリフの苦手とする司教だ。彼は王都の神殿での地位を投げ捨て、ファーガス領に来た。それに付き従うようにして、彼を慕う司祭らもやってきたため、変わり者の集いとして認識されている。
「この子達がこうして元気に過ごせるのはファーガス様のおかげでございます」
「いや。君たちがここに来てくれたからだよ」
そう言って子どもたちの頭を少し荒めに撫でると、きゃっきゃと笑い声が零れる。気に入ったのか、もっともっととせがまれるままに腕を伸ばそうとすると、上着の裾が軽く引かれた。
「ちょっと~~! 騒がしいわよ~~!」
丁度そのタイミングで賑やかさに誘われた者が一人、カシェたちのいる方へと向かって来た。眉目秀麗なその人物は、案内の司祭とは異なる色の服を身に纏っている。その人物が司祭とは異なる階級であることが見て取れた。
「ジョゼ司教」
「ん? あらやだ! カシェじゃないの」
カシェが軽く手を上げると、ジョゼと呼ばれた司教も非常に気安い態度で挨拶を返す。
「どうしたのよ……まぁ! グリフもいるじゃない!」
「げっ……」
ジョゼがグリフに気付いた途端、顔を輝かせて抱き着こうと両腕を拡げる。それを真っ青な顔で避け、グリフはカシェの背に回った。
「相変わらずなんだから……」
「ジョゼ司教、少し相談したいことがあるんだが」
残念そうに唇を尖らせるジョゼが次の行動に出るより早く、話を切り出す。ジョゼも瞬時に切り替えて頷いた。
***
「それで、一体どんな秘密が飛び出てくるのかしら?」
場所を変え、カシェたちはジョゼに連れられて彼の私室に連れてこられていた。普通、司教の私室に入ることなど在り得ないのだが、カシェとグリフ、ジョゼの三人は十年来の付き合いであることから定期的に訪れている。本来はここにヴァイスハイトも加わり、四人の秘密を共有する部屋として扱われていた。
「ゼノ」
部屋の扉がしっかりと閉められたことを確認し、声が外へと聴こえないようにグリフが魔道具を起動するのを待ってからゼノに声を掛けた。その声の意味を理解したゼノがフードを脱ぐ。
「何この子……隠し子?」
「あると思うか?」
「貴方に限ってそれはないとは思うけど……」
突然現れた幼子の姿にジョゼが唖然としながらもなんとか言葉を紡いだ。
「貴方のことだからとんでもない極秘話でも持って来たんだろうと思ってはいたけれど、これは流石に想定外よ」
「はじめまして、ジョゼさん。僕はゼノ、この度兄様の義弟になったんだ」
ゼノの挨拶も目を瞬かせて聞いていたジョゼの肩がふるふると震えだす。ゼノが何事だろうと首を傾げると、遂に耐え切れなくなったジョゼがゼノに抱き着いた。
「何この子可愛い~~~~!!」
「ジョゼフ!」
カシェが止めるより先にグリフから非難の声が上がる。ジョゼの抱擁を一番受けてきた被害者だからこそ、それが如何に凶器であるかを深く理解していた。
しかし、思わず口をついた言葉が悪かったようだ。グリフの制止に間髪入れずジョゼの蹴りが飛んで来た。
「ジョゼフと呼ぶな!」
ジョゼが蹴りを入れると同時に解放されたゼノがけほけほと咳き込む。見た目のわりに力強い抱擁を受けたのだから、仕方ない。
「ジョゼ、手加減を覚えろと前にも言ったはずだが? ゼノはグリフ程、頑丈ではないんだ」
「旦那様……俺も頑丈じゃないんですけど……」
グリフの嘆きはひと蹴りされた。




