24. 良薬も口には劇物
風が木々の枝を揺らし、麦わら帽子に不規則な影を作る。穏やかな春の日差しとはいえ、陽に照らされたまま作業を行うのはなかなかに厳しい。老庭師は作業を止め、腰を叩きながら立ち上がった。
「あいたたた……」
「爺さん、何か手伝えることはないかい?」
不意にその背に声が掛けられた。振り向くと、厨房で昼食の準備をしているはずの男が立っている。
仕事着の真っ白なエプロンが日の光を受けて輝いていることからも、目の前の男が休暇を取っているわけではなさそうだ。
「おや? お前さん、持ち場はどうしたんだい?」
「侍女の服薬事件があっただろ? 今厨房を捜査するってんで、皆追い出されちまったのさ」
「おやまぁ」
仕方なしに何かできることはないかって皆探し回ってんのさ。そう言った男に、老庭師は己の隣を勧めてやった。
それに男も礼を言って腰掛ける。とはいえ、白いエプロンが土に汚れないように中腰なのだが。
全く庭作業をする様子のない男に老庭師は視線を向けることなく目の前の庭木を整えていく。大方、話でもしたかったのだろうと理解していた。
「……厨房は俺たち料理人の城だ。俺たちの城で起きたことなら俺たちにも教えて欲しいんだがなぁ」
「ふむ……しかし、お前さんに咎があるわけじゃないんだろう? こうして追い出されたということは、関与してはおらんと信じられておるということだ」
「まあなぁ……ただ、旦那様ももうちょっとくらい頼ってくれたっていいのになぁ」
男の言葉に老庭師も静かに頷く。その後も男たちはぽつぽつと話を続け、会話が途切れることはなかった。
彼らは気付かなかった。人気のない厨房から、微かに話声が聞こえてくることに。その声は誰にも拾われることなく、空気に溶けていった。
「マルクさん……これは何だい?」
「マルク、で結構でございます。……こちらは滋養強壮や不足分の栄養補給のために特別に拵えた薬膳ですよ」
ところ変わって厨房の中。ゼノはマルクによって生み出された謎の液体と対面していた。
液体は緑や赤、紫などの色味が混じり合い、凡そ口にできるものとは言い難い見た目をしている。その見るからに毒物と見紛う液体をスプーンで掬い、ゼノは口元を引き攣らせた。
「これは食べ物じゃないと思うんだ……」
掬われた液体が震えているのはゼノの手が震えているからか。
青々とした薬草の香りを何倍にも強め、何とか掻き集めた柔らかな表現ですら醜悪な臭いと言わざるを得ない程の強烈なそれがゼノの頭に襲い掛かる。ガツンと痛みを受けた頭を抑え、涙目でマルクを睨んだ。
「このマルク特製でございます。残さず召し上がってください」
「いや……うん……」
さあさあと勧められるがままにスプーンを口元へと持っていく。しかし、口は開かれることなく、直前で構えた状態で停止していた。
「これを食べないと大きくなれませんよ」
「むしろ食べたらこのまま僕の生終わらない?」
口答えをした瞬間、その開いた口に液体を入れられる。びりびりと雷が走るような衝撃を舌の上で感じながら、何とか早く嚥下しようと藻掻く。竜の加護がある以上は毒物に対する耐性はあるはずだが、そんなものは関係がない。
(なんっってものを作り出しちゃったの!)
途方もない不味さに涙が滲んできた。もう一層のこと、成長しなくてもいいのでは? とさえも思ってしまうほどだ。
「まだまだ沢山ございますから、遠慮なさらずどんどん召し上がってくださいね」
「遠慮とかしてない……」
飲み込めたものはスプーン一杯にも満たないほんの少量のみ。これをあと皿に入っている分全て食べなければならないとすると、一体どれだけ時間がかかるのだろうか。
だが、このまま何もせずに液体と睨み合っているわけにはいかない。
今は侍女の件を理由にして料理人を追い出しているが、その内昼食の準備をしに帰って来ることだろう。そうなってしまえば、ゼノのために鉢合わせしないようにと手配してくれたマルクやカシェの努力が無駄になってしまう。
(うぅ……美味しくない……)
震える手をもう片手で抑え、ちびちびとではあるが着実に飲み込んでいく。気力でどうにか食べ進めていくが、意識を液体に向けていると気が滅入って仕方がない。
それを感じ取ったのか、マルクが気を紛らわせようと口を開いた。
「ゼノ様は、先代様のことをどう思われますか?」
「どうって?」
質問の意図がわからずに聞き返す。すると、マルクはやけに歯切れ悪く切り出した。
「……少しでも、先代様の最期に近付きたいのです。ゼノ様は、何故旦那様が領地から離れた王都で生活していらっしゃるかご存じですか?」
「確か、兄様が騎士団に所属しているからでしょ? 呼び出しにすぐに応じるために王都から極力離れられない制約があるんだよね?」
それは、ゼノがこの屋敷に訪れ、カシェの帰りを待つ間に聞かされた話だ。
マルクは、その通りと首肯し、話を続けた。
「そういった制約もあるため、本来領地持ちの貴族……その中でも領主となった人間は、本来であれば退役させられるんです」
領主にとって重要なことは、領地を運営していくことだ。何か問題が発生した際には領民を守るためにも速やかに対処しなければならない。一々領地と王都を往復するのは効率が悪く、魔物討伐や戦に駆り出されていれば問題が発生してもすぐに領地に駆けつけることもできまい。
前者に関しては、季節によっては一時的に王都で暮らす貴族もおり、代理人を立てて領地を管理することもある。しかし、大きな問題が発生した際に最終決定権を持っているのは当主だ。まして、死と隣り合わせの場所にそんな人物を送り込むことなどリスクが高すぎる。
「あれ、じゃあどうして兄様は……?」
「旦那様は、あくまでも当主代理という御立場なのです」
「当主代理?」
首を傾げるゼノに、マルクは苦々しく笑みを浮かべた。
「もう既に薄々お気づきかもしれませんが……五年前、先代——クロヴィス様が行方不明になられました」
マルクが淡々と語り出す。その様子は、まだ抱え込んだ痛みが消え去っていないことを物語っていた。
その日は、朝から空模様が怪しかった。
きっと大雨が降る。そんな予感がして出かけようとするクロヴィスに外出を控えた方がいいと進言する。
「残念ながら、先代様は約束があると言って出て行かれました」
妙な胸騒ぎがした。今でも、思い返すだけで胸中を掻き毟られるような思いがする。これが、精霊の報せだったのだろうと気付いたのは何年も経った後だ。
「父様は帰って来なかったんだね」
「ええ。……必死で探しました。捜索願も出しましたが」
数日後。帰って来たのはクロヴィスではなく、推定の死亡を告げる捜査官であった。
「目の前が真っ暗になりましたよ。それと同時に腸が煮えかえるような怒りにも見舞われました」
あまりにも杜撰な捜査の結果に、誰が納得などするというのか。捜査官に詰め寄り、捜査のやり直しを求めようとした。
「ですが、私は見てしまったのです。……酷く傷つき、深く絶望した旦那様の姿を」
「…………」
決して、親の死が受け入れられないほど幼かったわけではない。ただ、罪の意識を抱えて怯えているあの瞳がマルクの脳裏に焼き付き、忘れられずにいる。
「それを見た瞬間、私は覚悟を決めました。旦那様を……クロヴィス様の生き写しを守らなくては、と」
それからは、カシェの足場を固めるために必死であった。
ファーガス家を守るため、そしてカシェ自身を守るためにもファーガス家の当主として立たなければならない。その一方で、カシェを当主とすることで、カシェがクロヴィスの死を感じてはならないと抜け道を探した。
「その結果が当主代理です。あくまでも先代様は生きており、先代様が帰られるまでの代理を旦那様が務められることになりました」
「そんなことが可能なのかい?」
「当主として認められるための儀式をまだ執り行っていないだけですからね」
なるほど、とゼノは頷いた。
しかし、当主代理という立場は、貴族の目には当主と認められない半端者として映った。そのせいで、今でもカシェは同じ貴族から軽んじられることがある。
一方で、幸か不幸かその半端者という認識によってカシェは退役を免れていた。
カシェが所属していた中隊の騎士たちは、カシェのことを理解し、温かく受け入れた。彼らにとっては、騎士であるカシェこそがカシェだったからだ。
やがて、死と隣り合わせの危険な場所がカシェにとっては安息の場所となっていた。また、クロヴィスの事件の謎を追う上でも、騎士という立場やその人脈は必要なものであった。
(兄様は今も父様の事件を追っているんだろうな……)
「ですが、本当に旦那様のことを思うのであれば、代理などと甘いことを言わずに儀式を行っておけばよかったのです」
はじめはマルクもカシェが望むならそれでいいと思っていた。もしかしたら領地にいるよりも有益な情報を得られるかもしれない、という淡い期待さえも抱いていた。
だが、それも昔の話だ。
「もう先代様が行方不明となってから五年です。……希望を持つには随分とときが経ってしまいました」
「……そうだね」
「先代様には生きていて欲しい……しかし、その望みも薄いと言うのならば、せめて旦那様が抱えていらっしゃる罪の意識を拭うような最期であって欲しいと思うのです」
そう言うと、マルクは瞼を閉じた。祈りを捧げているのか、静かな間が二人を包む。
先に沈黙を破ったのは、ゼノの方であった。
「父様の最期のことは僕にも言えることは何もないけれど、少なくとも……そうだな。父様のことはすっごくお人好しだなって思うよ」
ゼノの台詞にマルクの眉尻が微かに反応する。
「だって見ず知らずの全く関係のない子どもを拾って育てるんだよ? 時々様子も見に来てさ……本当の家族だったらどんなによかっただろうって」
本当に、そう思うんだ。
マルクからの返事がないのをいいことに、ゼノはわざとらしい明るさでクロヴィスとの思い出を語った。
「父様ったら何にもできないんだよ。料理に挑戦したら全部焦がしちゃうし、掃除したら余計に散らかしちゃうんだ」
「先代様はそんなこと経験されたこともありませんでしたから」
「そうだよね? でもね、止めようとする度にこう言うんだ。『カシェも騎士団に入ってやってるんだよ。僕もできるようになって、少しでもあの子の苦労をわかってやりたいんだ』って」
思い出すと、笑いが込み上げてくる。煤だらけの手で擦って真っ黒になった頬も、情けなく下がった眉尻も、ゼノにとっては初めての“父”の姿であった。
思い出話もひと段落したところで、ゼノはもう少しで底の見えそうな皿にスプーンを置いた。
「ねえ、マルク。今度は僕から聞いてもいいかな?」
「お答えできる範囲であれば何なりと」
「アデールさんとグリフさんだったら、アデールさんの方が強いよね?」
予想外の質問だったのか、マルクの銀の目がきょとんと丸みを帯びる。
「アデールでしょうな」
返って来たマルクの答えに、やはりと首肯した。そして、何故そんなことを聞くのかと不思議そうにしているマルクに質問の意図を説明する。
「マルクは兄様を守ることを第一に考えているよね」
「ええ……そうですが」
「でも、兄様がアデールさんを僕の護衛に付けたことには反対しなかった」
普通、どちらが強いのかはっきりとわかっているのであればより強い方をカシェに付けるのではないだろうか。
そう考えを述べると、マルクはバツが悪い表情を浮かべた。
「……お恥ずかしながら、アデールは情の深い娘なのです。反対に、グリフはカシェの敵のなる人間には容赦がない」
「なるほど。兄様を第一で考えられるのはグリフさんの方なんだね」
「ええ。アデールは旦那様が許せば敵を見逃すでしょう。グリフであれば、影で制裁を加えることも辞さない」
たとえそれがカシェの命令に逆らうことであったとしても、だ。
気分を害したかと問うマルクに、ゼノは首を横に振って微笑んだ。
「それが聞けてよかった」
「よかった……ですか?」
「兄様は優しすぎるからね。あんまり人を傷つけるようなことはしないでしょう?」
それはカシェの美点だ。敵味方関わりなく、情けを掛けてしまう。
そのおかげでゼノもこうしてファーガス家に迎え入れられた。
(でもそれは、いいことばかりじゃない)
カシェの優しさは、いつか彼自身を傷付けることになるだろう。恩を受けたからと言って人が裏切らないとも限らない。カシェがカシェである以上、起こり得るはずだ。
それでも、少しでもカシェを傷付けるものから遠ざけられるのであれば。
(僕は、それが僕を殺せる人間であっても喜んで受け入れよう)
「漸く食べ切れた……!」
あれから暫くして、ゼノは苦しみながらも液体を最後まで食した。未だに舌の上がぴりぴりと麻痺しているような感覚が残っている。
空の皿を持ち上げて謎の達成感に満ち溢れていると、張り詰めた空気が漂ってきた。
「マルク……?」
「……どうやら、鼠が逃げ出したようです」
執務室に紅茶を持って来たメイドならば、アデールと一緒にいるはずだ。非戦闘員らしきメイドがアデールに敵うとは思えない。
「もしかして、誘導剤を飲んでおかしくなった……?」
「ええ、その侍女です。今しがた、“風の境界”が破られました」
風の境界とは何か。そう尋ねようとしたとき、厨房の扉が軽く叩かれた。
「マルク、すまないな。ゼノ、いい子にしていたか?」
「兄様!」
開かれた扉から顔を出したのは、カシェであった。メイドとの対峙が終わったのであろう。
「旦那様、御報告したいことがございます」
「何だ」
「先程、風の境界が鼠によって破られました。屋敷の裏から街に向かって逃走を図っている模様です」
「やはり、彼女だったか」
ふむ、とカシェが顎に指を当てて何かを思案する。その様子をゼノが固唾を飲んで見守っていると、ふとカシェと目が合った。
「何故鼠が逃げたことがわかるのか、不思議か?」
「え? うん……」
素直に頷くと、一瞬だけカシェがマルクに視線を投げてから、ゼノの疑問に答えた。
「マルクは精霊の子孫なんだ」
「子孫と言っても遠い親戚のようなものです。先祖返りして少しだけ力が使える程度ですよ」
マルクによれば、彼は風の声が聴こえるらしい。聴こえる範囲はあらかじめ意識を張っているところだけで、万能に何でも聴こえるわけではない。
まるで、糸に取り付けた木片が触れた者に反応した瞬間にカランコロンと音を立てるのに似ているため、風によって侵入者を察知する境界線——風の境界と呼ばれていた。
この説明により、ゼノは自身が屋敷を訪れたときに追い出されることなく迎え入れられたことに得心したのであった。
***
月が雲の影に隠れる深夜。
街灯の影に潜るように、何者かが息を潜めて街を歩く。はぁ、はぁ……と静かな街の空を切るように、切羽詰まった息遣いが空気中に溶けた。
「こんなところで見つかるわけにはいかないのよ……!」
その声は、まだ若い女の声だった。何者かに追われているのか、酷く焦っている。
「動け……! 動いてよ!」
もう脚は腫れあがり、一歩も動けそうになかった。それでも早く逃げなければ。見つかれば殺される。
女は、大通りの脇にある小道に入って息を吐いた。そして、頭から被っていた外套の前を開き、少しでも脚の筋肉を和らげようと必死で叩く。外套の間から御仕着せがちらりと見えた。
「これさえ早く捨てられたら……」
だが、売れば足が着くだろう。そのため、この街で売ることはできない。
侍女は小さく舌を打ち、自身を落ち着かせるために大きく息を吸い込んだ。
「どうせ明日になれば……」
明日になれば、朝一番の馬車に乗ってこの街を出る。その頃には屋敷でも侍女の不在に気付いて騒ぎになっているだろうが、捜索隊が組まれたところでもうこの街にはいない。
侍女は逸る胸の内を抑えた。
その様子を銀の双眸が見ていた。その銀は雲に隠れることなく、三日月のように細められた。




