22. 選択の末(下)
一方、少女の方はというと、アデールに連れられて再び厨房にまで戻って来ていた。そこで、一通り給仕に関することを教わっている。
「アデールさんは何でも知ってるんですね……!」
「いえ、これくらいは当然のことです」
すごい、と尊敬の目を向けるも、アデールの冷たい声に叩き落される。その当たり前ができていなかった自分はなんと情けないことかと少女は肩を落とした。だが、すぐにへこたれるわけにはいかないと自分を奮い起こす。
メモを取りながら頭の中で反芻していると、隣から強い視線を感じた。ちらりと隣を盗み見ると、アデールがじっと少女を見つめている。その銀色と目が合うと途端に気まずさが増し、少女は何か話題がないものかと頭を働かせた。
「あっ、そういえば! アデールさんも私と同じって」
「それは敢えて口に出すものでもないでしょう」
共通の話題があったと口に出したものの、すぐにアデールに話を切られる。確かに、他の誰かの耳に入ろうものなら大変なことになる。
すると、丁度廊下ですれ違った侍女が厨房に顔を出した。
「あ、いたいた! 探したわよ!」
侍女は顔を見せるなり、少女の手を掴んだ。
「えっ、えっ?」
「じゃあ、この子借りて行くから! アデール、貴女も自分の仕事をしなさいよ!」
そう言うなり、侍女は少女を引っ張って何処かへと連れて行く。侍女に釘を刺された手前、アデールが少女たちに着いて来る気配もない。
少女が足を縺れさせながら着いて行くと、厨房の裏手にある人気の少ない庭園で侍女の足が止まった。突然現れた人の気配に驚いたのか、瑠璃色の鳥が飛び立つ。その鳥を一瞥し、侍女はその場に少女をしゃがませた。
この庭園は垣根に囲まれており、しゃがんでしまえば上からでないと人がいるかどうかも分からない。少女はこれから起こることを想定して身を固めた。
「……ここまで来れば誰もいないわね。それじゃあ、どんな客人だったか報告して」
侍女が周囲を見渡し、人がいないことを確認する。人影がないことがわかると、ほっと息を吐いて少女に意識を戻した。
「報告……」
「愚図愚図しないでちょうだい。何のために私が貴女にお茶出しを頼んだと思っているのよ」
侍女の言う通り、少女が執務室にお茶を持って行ったのは侍女に持っていくようにと頼まれたからである。それも、少しのお願いと一緒に。
「何のためにって、旦那様に頼まれたからでは……?」
「頼まれてなんかないわよ」
「そんなの……」
「いけないって? 旦那様のためを思ってのことよ? ……旦那様からの御咎めもなかったじゃない」
新入りの身では、それが正しいことかも判別がつかない。困ったように眉尻を下げる少女に対し、侍女は畳み掛けるように言葉を重ねた。
「貴女に頼んだことは旦那様のためになる立派な仕事よ。ほら、もしかしたら旦那様の弱みに付け込んで甘い汁を啜ろうとする悪い女かもしれないじゃない」
私たちが見極めなくちゃ、と少女の目を覗き込む侍女の言葉が少女の脳を痺れさせる。
「……部屋には、旦那様と家令と執事しかいませんでした」
「嘘よ! そんなはずないわ!」
「この目で確認したもの……そもそも本当に御客様なんていらっしゃるんですか?」
「私は侍女なのよ? ここ最近の家令の動きを見ていればわかるわ!」
一週間以上ほど前からこそこそと客間を整えたり、夜中まで何かを見張るように起きていたり。だが、マルクの後をこっそりと追ってみても何の証拠も見つけることができなかった。それと同時に侍女はある仮説に辿り着いた。
「絶対、旦那様にとって大事な客人が来ているのよ……それも、御友人ではないわ。そうよ、女よ。婚約者候補でもなければこんなに厳重に隠すことないもの……」
侍女がぶつぶつと独り言を呟き、整えられた爪を口に含む。ストレスのままに傷付けられた爪はぼろぼろになるが、侍女は構うことなく噛み続ける。
侍女のその異常な状態に少女は怖気立った。あまりの恐怖に腰を抜かし、立ち上がることもできない。
「あ、あの……」
「私が、私が旦那様に見初めてもらうんだから……そんな何処の誰かもわからない女に渡すわけない……」
「聞き捨てなりませんね」
頭上から降って来る呪いのような言葉に少女がうずくまって耳を塞ごうとしたとき、その耳にアデールの声が飛び込んできた。のろのろと視線を上げると、アデールがグリフを連れて二人を見下ろしている。
「使用人は主のためにある。それがわかっていてなぁんで自分の感情で一線を越えちまうかね……」
「グリフ、無駄口を叩かずに連行しなさい。彼女は私が連れて行きます」
そう言うや否や、アデールが少女を抱きかかえた。
「え、私重いですから……!」
「構いません。その様子では日が暮れます」
少女が下りようとするも、アデールはそのまま歩き出す。グリフも錯乱した侍女を担ぎ上げ、アデールとは別の方向へと足を向けていた。
「何処に連れて行かれるんでしょうか……?」
「厨房に戻るだけです」
その言葉の通り、少女が漸く腰を下ろした場所は厨房であった。
突然入って来た侍女の姿に厨房にいた人々は一瞬視線を向け、またすぐに手元に視線を戻す。それに気を取られることなく、身動きのできない少女を椅子に下ろし、アデールは湯を沸かしてお茶を入れはじめた。
「いい香り……」
「心を解すには十分でしょう」
アデールに言われて、少女は自身の身体の緊張がゆっくりと解れていくことに気が付く。そして、目の前に出されたお茶を飲んでほっと息を吐いた。
「私、なんだか何をやっても問題起こしてばかりですね……」
「そういう日もあります。一先ずはお休みなさい」
「でも、仕事が……」
「この状況では沙汰が下るまで謹慎でしょうね」
がっくりと少女が肩を落とす。視線をカップに向けると、揺らいだ表面に映る顔が何処か悲し気に見える。身の内に渦巻く感情を整理するように、少女は自然と口を噤んだ。
***
お茶もすっかり冷めた頃、グリフが厨房にやって来た。
「旦那様がお呼びです」
思いの他早く沙汰が下ったようだ。少女は紅茶で潤したはずの喉が酷く乾くのを感じた。
「もう十分回復したでしょう。行きますよ」
グリフに急かされ、少女とアデールがグリフの後に続く。長いと感じていた執務室までの道のりはあっという間に感じられるほど早く辿り着いてしまった。
そして、心の準備をする間もなく扉が開かれる。少女は思わず目を閉じた。
「待っていたよ」
穏やかな声に恐る恐る瞼を開けると、中にはカシェの姿のみがあった。変わったところといえば、椅子が一脚だけ置かれているぐらいだ。てっきり侍女が部屋の中にいるものだと思っていた少女は、気が抜けてぼんやりとカシェを見つめる。
「さあ、入るといい」
その様子に気が付いたカシェが少女に椅子を勧めた。その椅子の後ろにアデールが立つ。
少女が椅子に座ると、グリフが口を開いた。
「それではまず侍女の話から……彼女は以前から旦那様に思いを寄せていたようですね。婚約者候補が滞在しているという幻覚に囚われ、現在は錯乱しております」
「そうか。以前からという割には急に錯乱したようだが?」
「どうやら薬を服用していたようです」
「なるほど。それで、我々に盛られた薬剤との関連性は?」
「大いにあるかと」
盛られた薬剤という単語をカシェが口にした瞬間、少女の肩が小さく揺れた。その僅かな動作にカシェは目を細め、少女に水を向ける。
「君は何か知っているか?」
「ぁ……いえ……」
急に向けられた視線に少女は喉の奥が引き攣り、擦れた音が漏れ出る。カシェの後ろに立つグリフが片眉を上げた。その訝しんだ様子に、少女は口を魚のように開閉させることしかできない。
これでは知っていると言わんばかりではないか、と少女は焦りを滲ませた目を泳がせた。
「何も君を疑っているわけじゃない。安心して話してくれないか」
少女を落ち着かせるようにカシェが声を和らげる。その言葉に少女はほんの少し身体の力を抜いた。そして、まだ震える唇で言葉を紡ぎ出す。
「……私、彼女に言われてお茶を運んだんです。旦那様に頼まれたからって……」
少女が一呼吸置き、続きを話すべきか逡巡した様子を見せる。侍女を内部告発することに罪悪感を抱いているらしい。
「心苦しければ言わなくても構わない。仲のよかった人を売れない気持ちは重々承知している」
カシェの優しい言葉に、少女は一瞬沈痛な表情を浮かべた後、首を振った。
「全部、話します。……私、お茶を運ぶ際にどんなお客様なのか探るように頼まれていたんです。そのときは、彼女が侍女だからお客様が快適に過ごせるように手配するためかと思って了承したんですが……」
「それで貴女は何て答えたんです?」
「勿論、お客様がいらっしゃらないことはこの目で確認しましたので、いないと答えました。そしたら、発作を起こしたように急に取り乱して……」
少女の証言に、グリフは顎に手を当てて考え込む。
「ふむ……これはもう黒で確定ではないでしょうか」
「私もそうだとは思うが、まだ薬剤の説明が付かないな」
カシェとグリフが考えあぐねていると、少女がおずおずと手を上げた。
「あの、茶葉の用意をしたのは彼女なんです……もしかしたらそのときにこっそり入れたんじゃないかなって」
「ほう? 何故そう思うんだ?」
「彼女、まるで旦那様を自分の思い通りにできるかのように言ってたんです。見初められるのは私だって……薬剤の効果で自分を旦那様の婚約者にさせようとしたのかと」
少女がそのときの状況を思い出し、ふるりと震える。その震えを両腕で抱きしめ、恐怖を逃がそうとしている。
「思い通りにできる、か」
睫毛が碧色に影を落とした。使用人にそう思われていたとは露知らず、御しきれなかった不甲斐なさでも感じているのか。その憂いが儚さを際立たせ、見る者を魅了する。
やがて、感情を隠したヴェールが上がり、形の良い相貌が少女を見つめて嬉しそうに弧を描いた。
「できたらよかっただろうにな。教えてくれて助かったよ。……アデール、捕らえろ」
カシェに命じられた途端、少女の腕が強く掴まれる。そのまま後ろに捻られ、思わず椅子から滑り落ちて膝をついた。
「な、何故ですか……?」
何が起きたのかわからないと混乱を抱えたまま、少女が顔を上げる。その瞳に映った碧色は、弧を描いたまま冷たい色を浮かべていた。
「何故? 君が教えてくれただろう」
「何を……」
「私は薬剤と言っただけだが、君はまるでそれが誘導剤であると知った口振りで思い通りにできるなどと口にしたな」
少女がはっと息を呑む。
「その他にも、犯人でなければ知らないことをいくつか話していましたね。侍女に罪を擦り付けようとなさったようですが……」
「で、でも……それは可能性の一つで……!」
「でしたら、他の薬剤や方法も考えられますよね。最初から貴女の頭の中にはそれしかなかったんですよ。……答えを知っていたんですから」
「ち、違う……違います、私は……」
「厨房を調べているマルクが戻ってくれば自ずと答えは見えてくるのではないか?」
畳み掛けられ、混乱と緊張で上手く回らない頭では言い逃れする考えも思い浮かばない。茶葉に入れたのではないかと言った手前、それが発見されれば言い逃れはできないだろう。
そもそもどうしてそんなことを口走ったのか。まるで、自分から自白するかのようではないか。
反抗する様子もなく座り込んだ少女をアデールが引っ張り起こす。為されるままであった少女は、ちらりとアデールに目を向けた。
「まさか、アデールさん……?」
「お茶、口に合いましたか?」
アデールの銀の瞳が感情もなく少女に突き刺さる。自身も同じ手に引っ掛かったのだと少女は悟った。




