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21. 選択の末(上)

 女の軽やかな鼻歌が宙に掻き消える。刺繡をする姿はたおやかで、まるで一枚の絵画のような美しさがあった。穏やかな風に女の柔らかな金の髪が靡く。


「あら、遅かったわね」


 女が手を止め、髪を耳に掛けた。まだ大人になる途中の、愛らしさと艶めかしい色気を持つ顔が露わになる。その薄く色付いた唇から、玉を転がすような声が発された。


「こちらへ」


 その視線の先には、瑠璃色の鳥がいた。鳥は女の声に誘われるように、招く手に近寄る。女は鳥の首元に括られた筒に手を伸ばした。


「結局わたくしが赴くしかないのね」


 女は窓の外を見てその愛らしい口元を歪めていた。


***


 長い廊下を連れ立って歩く。少女は足早に歩く侍女服の女を見上げ、自身も遅れないようにと慌てて後を追っていた。

 絨毯の毛がパタパタと忙しない足音を飲み込む。しかし、少女の息は既にぜいぜいと荒く、限界を迎えていることが窺い知れる。


「あの、あの……! どこに連れて行かれるんでしょうか……!」


 少女が息も絶え絶えといった様子でアデールに尋ねるが、アデールはその問いに答えることなく歩を進めていく。

 これは着くまで教える気はなさそうだ、と少女は顔を落として痛む脇腹を抑えた。最早声を振り絞る気力もなく、絨毯に躓く度に足が限界を訴える。少女が喉越しに血の味を感じたところで、突然アデールが足を止めた。


「う~~……!」


 急にそびえ立った壁に勢いを殺しきれず、アデールの背にぶつかる。少女は鼻を手で押さえ、涙が滲む目で一体何事かと前方に視線を遣った。


「あ~ら、誰かと思ったらアデールじゃないの。最近見掛けないからお辞めになったのかと思っていたわ」


 小馬鹿にした声が少女の耳に届く。どうやら他の侍女が進路を塞いでいたようだ。

 少女は条件反射で思わず身を竦ませ、アデールの背に隠れようとする。だが、それは叶うことなく、却って視界に入ることになった。


「あら……? 貴女も一緒だったのね! お茶は上手く入れられたかしら?」

「御存じなのですか」


 侍女が少女に気安げに声を掛ける。その声に、少女は増々身を縮こまらせた。

 何やら繋がりがありそうだと思い、アデールが尋ねる。すると、侍女は前半は得意げに、そして後半は小馬鹿にしたような口調で喋り出した。


「勿論よ! 貴女は知らないかもしれないけど、この子とっても有名なんだもの。貧乏男爵の一人娘……出稼ぎのためとは言え、ファーガス家に雇ってもらえるなんて運がよくて羨ましいわ」


 にこやかに告げられた棘のある言葉に少女が視線を落とす。


「私は……」

「そう言えば二人してどちらに向かうのかしら?」

「お答えしかねます」


 そう、と侍女は呟き、アデールと少女を見比べた。ほとんど姿を見かけることの無い、愛想の悪いアデールと、入ったばかりで何をさせても容量の悪いメイドの少女。そんな二人が連れ立っていく理由など、碌なことがないだろうとでも考えたらしい。侍女は眉尻を下げ、可哀想な子を見るような憐れみの視線を向けた。


「貴女、また失敗したのね……」

「え……?」

「領主様にお出しするお茶、上手く入れられなかったんでしょう?」


 どうして、と少女が目を見開く。それを言い当てられて驚嘆したと捉えたのか、侍女は意地悪気に笑みを浮かべた。


「やっぱりそうだったのね……ああ、どうしましょう」

「どうって……」

「貴女知らないの? 旦那様はとっても厳しい御方なの。失敗なんてしてしまってはすぐに追い出されてしまうわね……」

「そんな……!」


 侍女の言葉に少女は身を震わせた。

 実家の借金を返さなければいけないのに、折角手に入ったチャンスを棒に振るわけにはいかない。そんなことをしてしまえば、今度こそ——……。


「貴方のお茶、独特で美味しかったのに残念だわ。まあ、身の振り方を考えておいた方がいいかもしれないわね」


 それじゃあ、と侍女はその場を後にした。その背を追うこともできず、少女は唇を噛んで立ち竦んでいた。



「では、行きましょうか」


 アデールが再び歩き出す。今度はそれほど足早ではなく、少女でも余裕で付いてこられる歩調である。だが、少女の足は重く、動かせずにいた。


「やっぱり私、クビになっちゃうんでしょうか」

「全ては旦那様次第です」

「そ、そうですよね……」


 少女が顔色をより暗くする。アデールの正論は、今の少女にとっては地獄へと突き落とす沙汰のようであった。そんな少女の方を向き直り、アデールは言葉を続けた。


「しかし、これからどうするかを選ぶのは貴女自身です」


 どういう意味か、と視線を上げる。すると、アデールの力強い瞳がまるで心中を覗くかのように少女を見据えていた。


「あの」

「旦那様がお待ちです」


 いつの間にか目的地に着いていたようだ。そこは、つい先刻に訪れた執務室であった。

 アデールが入室の許可を得て扉を開ける。中には、来客用のソファではなく、執務用の椅子に腰掛けたカシェがいた。


「あ……」

「どうした?」


 少女の口から漏れ出た呟きにカシェが目を細めて聞き返す。少女は逡巡した後、おずおずと答えた。


「……いえ、他の方がいらっしゃらないようでしたので」

「ああ、グリフとマルクか。彼らには仕事を任せているんだ」


 少女が指摘した通り、執務室にはグリフとマルクの姿はなかった。カシェの言葉に納得したのか、なるほどと声を漏らす。その姿にカシェは満足気に頷いた。


「さて、君は何故ここに呼ばれたのかわかるか?」


 そうして、悠然とした笑みを浮かべ、本題を切り出す。カシェの麗しく作られた微笑みに圧力を感じたのか、少女は身を固めた。真っ直ぐと見つめる碧色から、少女の視線が自然と外される。


「それは、その……私が何か粗相を……」


 顔を背けると同時に、片付けられることなく放置されているカップが目に飛び込んできた。

 中身は飲まれたのか、内側の白い色が少女の目に焼き付く。少女は内心ほっと息を吐き、己の唇を潤わせるように幾度となく舌なめずりをした。


「いや。君はまだ何もしていないのだろう?」


 カシェの声に少女が顔を上げる。優しげな声で問われた内容に、ならば何故自分が呼ばれたのだろうと少女は混乱したまま頭を縦に振った。何を求められているのかもわからず、緊張感に瞳が揺れる。


「私、何も……失敗してない、ですか?」


 その上手く頭が回っていないような有り様に、カシェはさらに笑みを深めた。それはまるで、全てを許すと言っているかのように。


「失敗していないとも。君のせいではない」


 神聖さすらも感じられる慈愛に満ちた碧色に、少女は今度こそ目が離せなくなった。


「旦那様、よろしいのですか?」

「ああ。周りが教えなかったせいだからな。……もう一度チャンスを与えてもいいが、どうするかを選ぶのは君だ」


 アデールの質問に、カシェが一度アデールに視線を向ける。それからすぐに少女を流し見た。向けられた選択肢に、少女が唾を飲み込む。


「私は……チャンスが、欲しいです……」

「ならば、今度は間違えないことだ。アデールに色々と教わるといい」


 それだけを言うと、カシェはもう下がってもいいと告げた。アデールが速やかに退室し、少女も去り際に勢いよく頭を下げて扉を閉めた。



「選ぶのは君だ、かぁ……それって選択肢はあるのかな」


 扉が閉じられ、二人分の気配が去った頃。ゼノの声がカシェの鼓膜を震わせた。カシェがソファの方を見やると、ケープのフードを外して寛いでいるゼノの姿が目に飛び込んでくる。


「私は彼女の行く末を見守るだけだ。まあ、近い内に答えは出るだろうが」

「そっか……そうだよね」


 寸刻、沈黙が二人を包んだ後、カシェが徐に口を開いた。


「本当に姿を消せるんだな」


 この部屋にははじめからカシェとゼノが残っていた。

 というのも、メイドの少女がまるでゼノの姿を見えていないかのように振る舞っていたことを疑問に思っていると、ゼノがこともなげに答えたのだ。この襤褸布のようなケープには竜の鱗が使われている、と。


「言ったでしょ? このケープは認識を歪める効果があるって」


 そう言ってゼノが首元にあるケープの留め具を指の腹で撫でた。どうやらその留め具が竜の鱗で出来ているらしい。光に当たって薄く虹色に輝く鱗を一瞥し、カシェは溜息を吐いた。


「まさかそんなものを所持しているとは思わないだろう」

「でも事実だったでしょう?」


 確かに、とカシェが苦々しい顔で頷いた。そして、少し前のことを思い出して頭を抑える。

 カシェは、はじめからゼノをこの部屋に残しておく気はなかった。いくら竜の鱗が使われているからとはいえ、そんなものが何になるのか全く理解できなかったからだ。

 ゼノによると、竜は普段からその姿を人前に現すことがなく、それは体を覆う鱗に認識を歪める効果があるかららしい。それ故、問題はないからとカシェの傍にいることを強く望んだ。

 だが、たった一枚の鱗で何処までその効果が及ぶのか確証も持てない中で、どうしてそのような博打を打てようか。相手の目的がはっきりしない今、ゼノの存在を知られることでファーガス家にどんな危険が降り掛かるかもわからない。


(当主としてそのようなリスクのある選択を取るわけにはいかない……と思っていたんだがな)


 互いに主張を譲らないカシェとゼノの攻防に終止符を打ったのはマルクであった。


(今後のことを考えれば今の内に証明しておく方がいいというのも理解できる……)


 正直、ゼノの存在を公に明かせない状況では、どのようにその存在を隠しておくかは頭の痛い問題と言えた。その点を早々に解決できたのだから、いい選択ではあったのだろう。

 恐らく、目の前の幼子もそれを見越して提案したと考えられるが、竜の加護を過信しているのか危険に対して無頓着が過ぎる。


「ゼノ、そのケープがどこまで使えるかもわからない状態で、危険が少しでもあることに首を突っ込むのはあまり感心しないな」


 これは言っておかなければならないだろう、とカシェは厳しい眼差しを幼子に向けた。その視線の先では、ゼノがびくりと肩を揺らし、背を丸くする。ちょこんとソファの背もたれに手と顔を乗せ、恐る恐るといった様子でカシェを見上げていた。


「ごめんなさい……」


 肩を落とす様子は、幼子をさらに小さく見せる。反省はしているようだ。

 カシェは仕方がない、とその眦を和らげた。


「おかげで今後動きやすくはなるがな」

「僕、兄様にとって負担にしかならないよね……」

「誰の負担にもならない者など存在しない。たとえ自立した大人であってもな」


 カシェの言葉に、ゼノが首を傾げる。


「兄様も?」

「当たり前だ。グリフによく嘆かれている」


 カシェが真面目な顔をして答える。ゼノも、確かにグリフは苦労性っぽいな、と神妙に頷いた。双方ともに真面目な風貌を装っているが、どちらともなく笑いが込み上げてくる。

 この光景をグリフが見ていたら、頭を抱えたことだろう。グリフに用事を申し付けておいてよかったとカシェは笑いを噛み殺した。


「流石に喉が渇いてきたな」


 ここまでよく喋ったものだ。

 カシェがデスク上のベルを鳴らす。ちりんと僅かな音を一度鳴らしただけで、何かが起きるわけでもない。きょとんとするゼノに、フードをかぶり直すようにと言った。

 すると、程なくして扉が叩かれ、アデールと共に現れた少女と同じ服装を身に纏った女が姿を現した。


「紅茶を用意してくれ。他は——」


 カシェが考え込むようにゼノの方に視線だけ寄越す。それにゼノは首を振ったのか、空気の揺らぎを感じた。


「特には必要ない」


 メイドは畏まった様子で一礼をして部屋を後にした。


「今のってメイドさん?」

「そうだな」

「アデールさんは?」


 ゼノが扉を見つめながら尋ねる。アデールとメイドが別のお仕着せを着ていることを疑問に思ったのだろう。今まで乳母と二人で暮らしてきたのなら無理もない。


「アデールは侍女という(てい)だ」


 独特な言い回しにゼノがふうん、と頷く。こういうカシェのあからさまな言葉に深く突っ込もうとしないのは、尋ねても濁されると思っているからか。


(賢いこの子のことだからわかってはいるのだろうな)

「侍女とメイドはどう違うの?」


 代わりに聞いても問題のない質問を選んで聞いてくる。


「侍女は身の回りの世話を専門とするのに対して、メイドはそれぞれ雑務を担当している」

「なるほど、一人で全部担うとなると膨大な仕事量になっちゃうから担当が分かれてるんだね」

「まあ、何か頼みたいことがあればアデールかグリフに言うといい。彼らにできないことはないからな」


 こともなげに告げたカシェに、ゼノの視線が刺さる。それはグリフも嘆くだろう、とその視線が語っている。

 カシェはこほんと咳払いをした。


「ところで、本当に何も要らなかったのか?」

「うん。僕、変な味のお茶いっぱい飲んだし」


 カシェの露骨な話題転換に、ゼノは身を捻ってテーブル上のカップを見せながら答えた。

 実のところ、少女が運んで来た紅茶には誰一人として手を付けていなかった。というのも、例に漏れずグリフによって毒の検出が行われていたからだ。

 結果、紅茶には誘導剤と呼ばれる薬剤が使用されていた。それは自白剤に似た効果を有しており、質問者の望むように誘導するという特徴があった。その量によっては、真実すらも歪めてしまうこともある恐ろしい薬剤である。


(当然、誰も飲むまいと思っていたのだが……)


 まさか喉が渇いたからとゼノが飲み干すとは誰も予想だにしていなかった。副作用もなく、効果も一日ほどで消えるため、普通に生活している上では大した危険はないことが救いだ。


「もし私が君の秘密を暴こうとしていたらどうするつもりだったんだ」

「兄様に秘密にしてることなんてないからいいよ」


 カシェの呆れた声に、ゼノがにこやかに返す。その言葉は、本心からかカシェの願望によるものか。

 参ったな、とカシェも笑い返した。


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