1. 醒むる者(上)
「私の分も生きてくれ、——……」
男がこぽりと空気を吐き出した。暗く深い水の底に身体が沈んでいく。光の差さないどろりとした水の中では、吐き出した空気も見えない。
苦しみはなかった。ただ、何か大切なものを失った感覚だけが男を苛んでいた。
「何故……」
男は、自分を苛む苦しみの原因を思い出せずにいた。この暗闇に囚われている理由も。
深淵とも思える水の中では足掻くことすら叶わず、男は諦めて目を閉じた。暫く水に揺られていると、意識が引っ張られる感覚を覚える。
男はその感覚に逆らうことなく、意識を手放した。
「っ……。はぁ……」
先程までは感じていなかった眩しさが瞼の裏まで届く。窓から差し込む柔らかな光が男の肌を撫でていた。
どうやら息を詰めていたようだ。男——カシェ・ファーガスは、胸中の重い空気を吐き出すために深い溜息を吐いた。さらりと長い髪が彼の顔を隠し、鬱陶しいとばかりに払われる。その動きは繊細な見た目のわりに荒々しかった。
昔からよく見る夢だ。しかし、最近はその頻度を増しているようにさえ感じる。何かを伝えようとしているのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい。悪夢に振り回される前にやるべきことがあるだろうに」
近年は疫病や干ばつが各地で相次いでいる。未だ辺境地の話ではあるが、カシェが暮らす王都にも色濃く影響が出ているほどだ。野菜や肉などの商品は日を追うごとに数が減り、王都の一角にも辺境から流れてきた難民や仕事にあぶれた孤児が溢れている。
とはいえ、現段階で割を食っているのは下層の人間のみで、大多数は平穏に暮らしている。特にここ最近は、隣国との戦に勝利したために、国を挙げてのお祭り騒ぎだ。それこそ平民、貴族にかかわらず浮かれている。
それもいつまで保つかわからないが。
カシェは日夜この問題に頭を抱えていた。彼が治める領地もいつ辺境地と同じ状況に陥るかわからないからだ。
(そうだ、私にはやらなければならないことが山程あるんだ……が)
アルヒ王国に領地を持つ伯爵家の当主。古くから代々王国に仕えており、国王陛下の信頼も厚い。彼自身も騎士団に所属しており、先日の戦でも王国のために命を賭して戦い貢献した。
本来なら戦勝パーティーが終わって以降、休暇をもらい領地に戻る予定だったが、戦から帰って早2週間が経っていた。
(そもそも休めない理由が私の婚約者探しとは……)
若くして伯爵家の当主であり、現役の騎士という立場。さらに、貴族らしく、柔和で細身ながらも、訓練場で戦う姿は圧巻。
何故か日の下にいても焼けない肌は白磁のようであり、白鼠色の髪は光に当たるときらきらと煌めく。全体的に色素の薄い男であるが、碧色の瞳は力強く、周囲の目を惹いた。
そのため、訓練場に見学に来る御令嬢の中にはカシェに恋心を抱く者も少なくなく、やっかみを受けることもままあった。それも今となっては笑い話であるが。
(そんなことに現を抜かす暇などないというのに)
しかし、そんなカシェの思いは御令嬢方に届くことはなく、ファーガス家と懇意になりたい家が挙って婚約の申込みに関する手紙を送ってきていた。さらには、連日のように茶会にも誘われる。
それが嫌でここ最近はずっと騎士団の執務室に籠っていた。おかげで休むこともなく仕事に打ち込んでは、領地のことを思ってやきもきしているのだ。
今日の悪夢も領地への不安や焦りが影響したのだろう。約半年に及ぶ戦で領地のことを放っている。その間、何の報せもないことは良いことだが、逆に静かすぎても嵐の前の静けさではなかろうかという考えが過る。
(……悪夢を見た日はいつもこうだ)
胸がざわめくように騒ぎ出す。こんな日は碌なことがないのだ。
カシェは窓を開き、外の景色に目を向けた。雲一つなく晴れ渡った空を見ていると、ほんの少しだけ目の奥に痛みを感じる。
顔を顰め、手を顔の前に翳すことで光に慣れさせる。すると、不思議なほどに心が落ち着きを取り戻してきた。
夢など所詮は記憶の整理と定着のための処理に過ぎない。そう適当に理由を付けて片付ける。
暫くそうしていると、春を呼び込む風が微かに高い金属音を運んできた。
「そろそろ体を動かさねば」
カシェは執務室に併設された仮眠室のベッドから降りて、髪を後ろで結んだ。キュッと紐を絞めると、自然と気が引き締まる。
そして、思い出したようにベッド脇のテーブルの引き出しを開けた。中にはいくつか徽章が収納されている。その中でも一等綺麗な徽章を取り出し、黒いシャツの胸元に着けた。
王城で働く全ての者は原則として、この徽章を身に着けていなければならない。それは、徽章自身に偽造が不可能な高度の魔法が掛かっており、本人を証明するためであった。
一方で、敵国の人間に渡る危険を防ぐためにも、戦場へ向かう者は徽章を王城に返還しなければならない。カシェの徽章も戦前に返還し、先日支給し直されたものであった。その際、もう一つ見慣れない徽章を手渡されたのだが、一瞥だけして引き出しの奥へと仕舞われている。
(まあ別に要らないだろう)
それは今日も変わらず、そのままテーブルの中に仕舞われていった。
***
心持ちラフな格好のまま廊下に出る。王城とはいえ、カシェの執務室は滅多に人が来るような場所ではない。
それは、この塔自体が軍事機密を抱えた建物であり、各階に配属された騎士により、少々のことでは部屋に通されることがないからだ。当然、代わりとして応接室がいくつか存在するため、大抵の来訪者はそちらに通される。
しかし、この日は低い確率を引き当てたようだ。
「カシェ!」
男が騎士に付き添われることなく、真っ直ぐにカシェのいる方へと向かってくる。暗がりでもその人物の背が高く、よく鍛えているシルエットであることがわかる。
やがて、紅碧の髪に強い意志を宿した紅柑子の瞳が見えた。その頬には大きな傷があるものの、誰もが精悍と認める顔立ちをしている。その見るからに騎士然とした風貌の男——ヴァイスハイトが親し気に話し掛けてきた。
「漸く部屋から出てきたのか! まったく、折角の戦勝パーティーだったっていうのにお前ってやつは……!」
「……ヴァイス、少し落ち着いてくれ」
「これが落ち着いていられるか! 英雄様がパーティーに出ないなんて有り得ないだろう!」
「出てもいいことなどないだろう。……はぁ、とりあえず歩きながら話そう」
気を晴らすために外に出たが失敗だったか。そう思いつつも足は訓練場へと向かう。ヴァイスハイトも目的地は聞いていないものの、どこに向かうのかわかっているような足取りで隣を歩き始めた。
「それで? お前がパーティーにも出ず、2週間も引き籠っていた理由を聞こうじゃないか」
「理由なんてものはない」
「はぁ? あるだろ! 親友のこの俺に隠し通せると思ってんのか?」
「……婚約を申し込まれるのが面倒だった」
「あぁ……まぁ、お前今回異例の昇格だもんなぁ」
ヴァイスハイトの憐れみを含んだ視線が向けられる。
彼の言う通り、カシェは今回の戦での褒美として、昇格の話が出ていた。執務室もその一つで、階級持ちには塔の一室が与えられる。連隊に所属している小隊以上の各隊の副隊長、隊長、騎士団をまとめる副団長、団長、さらにその上層部である司令官、その他にも近衛騎士や王の影がその対象となる。
もちろん、近衛騎士や影は塔よりも王族の側に控えていることの方が多いが。
このように、その一人として名を連ねることは本来祝うべきことではあるが、カシェに至ってはその限りではない。ヴァイスハイトは、今まで以上に妬みや恨みが付き纏うであろう親友に心の底から同情した。
「ん? 待て、お前徽章はどうした?」
ふとカシェのシャツに目を向け、ヴァイスハイトが少し焦った声を出した。カシェの胸元には金色の徽章が輝いている。それはヴァイスハイトも同様だが、彼の胸元にはもう一つ赤い宝石が埋め込まれた徽章が煌めいていた。まるでヴァイスハイト自身のように強く輝き、存在を主張している。
「何か変だろうか? おかしいところはないと思うが」
「あるだろ! 階級を示す徽章はどうした!? お前、部下に示しが付かないだろ」
「部下か……。君も中隊長になるんだったな、昇格おめでとう」
「あぁ、ありがとう……って違う! 俺ではなく、お前の話だ!」
「いや、私の話ではないよ」
まだ説教は終わっていないと言いたげな顔に一瞬だけ視線を送り、ゆっくりと微笑む。
もうすぐ塔の扉に到達する頃だ。この先はもう訓練生や騎士の通りも少なくない。扉に手をかける直前、カシェは何でもないように言った。
「昇格の話を断ろうと思うんだ」
「カシェ……」
「執務室は少し捨てがたいが……私にはまだ早いだろう?」
そう言って扉の向こうに続く渡り廊下を歩いていく。
ヴァイスハイトはその背を見つめ、言葉に詰まっていた。それは何も、カシェが断るという決断をしたからではない。彼はその立場からいち早く聞かされていたことがあった。
「なあ、カシェ……」
「そもそもあんなまぐれで昇格など、可笑しな話じゃないか!」
ヴァイスハイトがカシェに声を掛けようとしたその瞬間、それを邪魔する声が二人の耳に届いた。思わずその声の方に視線を向けると、カシェやヴァイスハイトが所属している部隊では見かけたことのない男が話していた。
話をしていた男もやはり、カシェとヴァイスハイトを意識して話していたらしく、視線が合うや否や厭らしい笑みを浮かべて近付いて来た。
「これはこれは、ランゲ卿にファーガス卿ではありませんか!」
白々しくもまるで今気が付きましたと言わんばかりに大げさな挨拶をする。カシェも薄く微笑みながら応えた。
「サマン卿がこちらの訓練場にいらっしゃるとは、珍しいですね」
「ええ、本日は合同訓練ですから。……ファーガス卿こそ久々の訓練なのでは?」
「最近は一段と忙しくなりましたからね。漸く訓練に顔を出せたところですよ」
両者ともに表向きは非常に和やかに会話が進んでいる。ところで、とカシェは話を切ってサマンの後ろの人物や他にもちらほらと見える他の部隊の面々に視線を移し、再度サマンに目を向けた。
「サマン卿は……随分と精が出ているようですね」
(うわぁ……)
ヴァイスハイトは思わずぶるりと身体を震わせた。己も貴族の一員ではあるが、貴族を恐ろしいと感じてしまう。
サマンも眉を一瞬引き攣らせたものの、すぐに表情を整えてみせた。
「……王国騎士として当然のことです」
笑っていない目が、目ざとくヴァイスハイトの胸元に輝く徽章を見つけた。次に、カシェの胸元に視線を移し、そこに同様のものが存在していないことを確認し、口元の笑みを深める。
「ランゲ卿。中隊長への昇格、おめでとうございます」
「あぁ、ありがとう」
「そう言えば耳を疑う話を伺ったのですが……今回の報酬で、ファーガス卿が司令官に昇格するという話は真実でしょうか?」
そして、さも深刻そうな面持ちで問い掛けた。その声が訓練場で双方の会話に耳を傾けていた騎士や訓練生にまで届く。瞬間、音が静まり返り、やがて木々の葉が擦れるように音が拡がっていった。
ヴァイスハイトがにんまりと厭らしく笑う目の前の男を睨みつけるが、何の意味もなさない。誰もがカシェの言葉に全神経を傾けていた。
「……それは、不思議な話ですね」
「真実ではない、と仰るのですか?」
その問いには応えず、カシェはサマンに向いていた身体をヴァイスハイトへと向けた。
「騎士団では口の軽い者が多かったか?」
「いや、それはないな。何せ情報は統制しなければ大きな損害に繋がる」
「それならばよかった」
会話の意図が読めないのか、サマンが徐々に苛立ちを露わにしはじめる。
「ファーガス卿、騎士をはじめ貴族の中には貴方が司令官に相応しいのかと疑う声が出ているのですよ。……もちろん、私は卿が異例の出世を遂げることについては大変喜ばしいことであると思いますよ? ただ、卿が王族に厚かましくも願い出たのではという声も耳にしまして」
「ほう?」
「まさかそんなはずはないと思っておりますがね? 先代の急死もあって何かと苦労していらっしゃるでしょうし、心配で……もし私でよろしければなんでも仰ってくださいね」
「尊き御方が私如きの私欲に耳を傾けなさるとは思えませんが……」
「どうでしょう? そういうこともなければ、貴方がここにいることもないのでは?」
ヴァイスハイトは表情も隠すことなく、眉間に皺を寄せた。サマンが言っていることは一見心配の言葉のようであるが、その実父親が亡くなり急遽当主を任されるようになった半人前の身で調子に乗るなと伝えていた。よくもそのようなことが言えるなと怒りを通り越して厭きれすら湧いてくる。
そもそも、サマンがそのような妬みをカシェに向けるのは、伯爵家であるカシェよりも爵位が上の侯爵家である自身が劣っていることを認めたくないからだろう。現に、ヴァイスハイトもカシェと同じく中隊所属で率いられる立場から隊長職という異例の昇格だが、侯爵より高位の公爵家であるためか何も言ってこない。
「ところでサマン卿、その面白い話をしているのはうちの部隊ではないな?」
「と申しますと?」
「いや何、うちの部隊でカシェのことをそう評価する者はいない。いるとすれば、実力を知らない奴らだけさ」
「ほう……」
興味深そうにサマンは目を細めた。この男の細い腕で実力も何もないだろうに。
日に焼けていない姿からも訓練にそう打ち込んでいないのではないかと思わせる。ただ権力とコネで伸し上がっただけの分際だ、先の戦も本当に戦っていたのかすら怪しい。そんな感情がサマンの目から読み取れる。
(魔法に頼り切っているだけで、騎士としての能力はないに違いない……とでも思われていそうだな)
魔法とは、魂に刻まれたギフトのことで、その使用の可否や強さは個人の才能によるとされている。魔力を所持していても魔法を使える者は少なく、才能がある者はどんなに些細な魔法であれ国に報告される。
当然、魔法内容は個人情報に当たるため一般には公開されていないが、何か事件が起きた際に駆り出される騎士団には、登録者名簿が渡されていた。カシェもその登録者の一人であったため、サマンを含め、他の部隊の目からは魔法の才のみが認められているように映っていた。
「それならばいっそのこと、この場を借りて実力を示してみては如何でしょう?」
できるものならば。そう副音声が聞こえてくるようであった。