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17. 竜の加護(上)

 カシェの後ろに控えていたグリフがゼノの隣に移動する。


「でもこんな細っこい腕で何が守れるって言うんですかね~」


 グリフの手がゼノの眼前に差し出され、ゼノは首を傾げながらその手に自身の手を重ねた。その手を握られたまま、グリフの反対の手によってゼノの腕が掴まれる。その腕はグリフの言う通り、棒のように細い。


「背だってこんなにちっさいし、これじゃあ坊ちゃんの方が守られる存在ですね」


 そして、ゼノの手頸に回っていた手が解かれ、歳の割りに小さすぎる背を揶揄うように亜麻色の髪に手を乗せられた。

 ゼノがぐりぐりと撫でまわすグリフの手を邪魔そうに振り払う。唇が尖り、不機嫌さを露わにした。


「僕だって……」


 思いの他気にしていたようだ。もしかしたら周囲にいた人間にも揶揄われたことがあるのかもしれない。


「グリフ、その辺にしておけ」

「……はーい」


 あまりコンプレックスを笑うのは品のよい行動ではない。カシェがグリフに注意すると、渋々という声が返って来た。少し不貞腐れているのか、視線を斜め下に落としている。


(まずはしっかり食べて肉を付けろと伝えたかったのだろうな)


 しかし、それならばそう言えば済んだ話。特に幼い頃に負った傷は後を引く。

 ゼノが傷ついていなければいいが、とグリフからゼノに視線を移す。すると、藤黄の瞳はグリフの首元をじっと見つめていた。


「ゼノ?」


 何かあったのかとカシェが声を掛ける。


「グリフさんの首元……」


 ゼノの口から零れた呟きに、グリフが首の左側を手で覆った。グリフが下を向いたときに、いつもは服の影によって隠されている部分が見えたようだ。


「それ、どうしたんだい……?」


 ゼノの問いかけにグリフが苦々しそうに口元を歪めた。そして覆っていた手を退け、首元のボタンを外す。


「…………っ」


 小さく息を呑む音が下方から聞こえる。それもそのはず。グリフの首元には、酷い火傷痕が刻まれていた。

 何年経っても消えることはない。瞼を閉じると、未だに当時の赤く熱を帯びた傷を思い出す。着の身着のまま駆け込んできた少年の、復讐の炎に燃えた瞳と共に。


「昔、少々問題に巻き込まれまして」

「……そっか」


 光に照らされた傷はかつての痛みを思い出して疼く。首から腕に向かって炎が肌の上を這うように。

 この傷がある限り、グリフは過去の悲惨な事件から抜け出せずにいた。あの日の赤い光景も、涙を蒸発させるような熱も、家族を置いて逃げた自分も。忘れるなと言うように、じくじくと熱を帯び、グリフを苛む。


(くそ……っ)


 カシェがグリフの様子に気が付き、大丈夫かと目で問う。その視線に気付いたグリフは、首から腕にかけて刻まれた忌々しい傷から意識を外し、カシェに微笑みを向けた。主君を心配させるなど、従者失格だと考えているのだろう。その笑みは固く、妙に口角が引き攣っているのが見て取れた。


「グリフ……」


 カシェが思わずグリフに手を伸ばす。その手を遮るように、強い視線がカシェとグリフに突き刺さった。


「グリフさん、その傷消し去りたいかい?」

「……は?」

「消してあげようか」


 カシェはゼノが何を言っているのか理解できなかった。それはグリフも同様で、間の抜けた声を出している。


「ゼノ、火傷痕は治療ではどうにもならないんだ」

「わかってるよ、兄様」


 もしかしたら治療すれば治ると思っているのかもしれないと思うも、早々に否定されてしまう。カシェもグリフも眉を顰めてゼノの出方を窺っていると、マルクがもしやと言葉を紡いだ。


「ゼノ様は治癒魔術を使われるのですか?」


 治癒魔術は、魔力を相手の身体に通すことにより、壊死した部位さえも疑似的に活性化させて治すことのできる非常に稀な魔術だ。魔術式も教会内で秘匿されており、自作しようにも命に関わることは禁忌とされる。そのためか使い手は少なく、神に仕える者のみが授かる御業とも言われている。当然、カシェにも使うことはできなかった。


(ゼノほどの魔力量の持ち主であればグリフの傷痕も治すことができるかもしれない……だが)

「ううん、使えないよ」

「そうか……」


 ゼノの否定に当然だと思う反面、非常に残念だとも思う。とはいえ、恐らく教会に身を置いたことなどないであろう生い立ちを想えば当たり前のことであった。


「でもね、その傷を僕が貰い受けることはできるんだ」


 ゼノの言葉を受け、長いまつげによって影の掛かっていた碧色が再度光を受ける。

 傷を貰い受けるとはどういうことだろうか。カシェとマルクの疑問に満ちた顔を見て、ゼノは骨張った指で頬を掻いた。


「竜の加護の力なんだけどね。他人の傷を……その身体に刻まれた記憶から引き剥がして代わりに自分の身体に埋め込むことで、肩代わりすることができるんだ」

「本当にそのようなことが……?」


 この中でも一番の年嵩で物知りなマルクさえも聞いたことがないようだ。疑うような鋭い目を藤黄色が真っ直ぐに見つめる。その瞳は凪いだ海のように感情を揺らすことなく、どこまでも静かだ。ゼノの様子からも、嘘を言っていないことが窺い知れる。

 だが、あまりにも信じがたい話だ。


「それは、グリフの身にもゼノの身にも問題はないのか?」

「グリフさんの身体から僕の身体に傷の記憶を移すだけで、出来事の記憶とかは消し去れないけどね」

「それではゼノの身体に傷が残ってしまうだろう」


 グリフから痛々しいこの傷を消し去れたら——それは幾度となくカシェが願ったことではあるが、その結果として幼子の身に刻まれるのは望んだことではない。恐らくそれはグリフとて望んでいないだろうと、カシェは先程から一切会話に参加していない男に視線を向けた。


「…………」


 グリフは口を閉ざし、足元を見つめていた。いつも綺麗に梳り、撫で付けられた髪が一房頬に落ちている。

 その様子からは何を思っているのか全くと言っていいほどわからない。


「加護のおかげか、僕が負った傷はたとえ痕だったとしてもすぐに治るんだ」


 だから大丈夫、とゼノが何の気負いもなく明るく言い放った。まるで葛藤するグリフの背を押すように。

 無垢な瞳がどうする? と問い掛ける。


「…………」


 グリフは無言で手に力を込めた。その手がぶるぶると痙攣し、激情がそのまま力となって込められているように思える。


「グリフさん?」


 再度促すように発せられた言葉に、グリフは歯を食いしばり、その隙間から何とか言葉を口にした。


「……消せない。消せるわけが、ないだろ……! 俺がこの傷から逃げたら、俺は二人の無念を晴らせない!」

「グリフ……」

「いや……そんなのは綺麗事だ。ほんとは、俺自身が二人を見捨てた罪を忘れてしまうかもしれない……俺は、弱いから……逃げてしまうかもしれない」


 グリフがずっと胸中に抱えていた思いが、苦しみが、漸く吐き出される。カシェすらもはじめて聞く、グリフの本音であった。

 カシェが呆然とグリフを見つめている間にも、グリフは思いつめたように顔を覆い、息を震わせた。


「じゃあ、復讐が終わったら消しちゃおうか」


 なんて返そうかと返事を考えあぐねていると、あっけらかんとした言葉がカシェの鼓膜を震わせた。思わず目を見開き、声の主を見つめる。

 何の気負いもないごく自然に放たれた言葉は、横暴なもののようではあるが、グリフの心にストンと落ちた。


「復讐、ですか……」

「きっと今その傷を消してしまっても、グリフさんは心に傷を負ったままでしょ?」


 ゼノの言う通り、ここまで思い詰めていたグリフが、傷痕を消したぐらいで過去を忘れて穏やかに過ごせるとは思えない。グリフは自身が弱くて忘れてしまうのではと怯えていたが、きっと彼はいつまでもその思いに苦しむことだろう。

 それこそ、夢の中のあの男のように。


「一区切り付ければ、少しはグリフの心も軽くなるか……?」

「そうそう。実際にどうなるかはやってみないとわからないんだし、無念を晴らせないって思うのは何処かでそうしたいって思ってるんじゃないかい?」

「はは、確かに……それは、あるかもしれないですね」


 復讐かぁと溜息混じりに吐く言葉は、先程までよりも遥かに晴れやかだ。


「よし、じゃあ旦那様に復讐を手伝ってもらって、さっさと坊ちゃんに治してもらいますかね!」


 グリフがいつも通りのように振る舞う。


「待て。私は手伝うとは一言も言っていないんだが」

「え、私がどれだけ旦那様に尽くしてるかご存じですよね?」


 それでも手伝ってくれないとか鬼! とグリフが騒ぐ。どうやら完全復活したようだ。


「……騒がしいぞ、グリフ」

「えぇ!? 急に冷たい!」

「いつでも治すことはできるから、無理はしないでね」


 ワァワァと一気に賑やかになる。カシェに詰め寄って泣き真似をするグリフに、それをうんざりとした顔で流すカシェ。その様子を見てくすくすと笑い声を上げるゼノ。


(よき縁を結ばれましたね)


 誰に話すわけでもなく、マルクは心中で独り言ちた。



 賑やかさも落ち着いた頃、マルクがこほんと咳払いをして三人の視線を集める。


「しかし……竜の加護とは、何とも強大な御力なのですね」


 マルクの感心した声にカシェも胸中で首肯した。もしもそんな力が自分にあったのなら、今まで敵の攻撃を受けて戦場で息絶えた者の痛みや酷い火傷に苦しんだ少年の苦しみも肩代わりできたのに。言っても栓無きことだが、そう思わずにはいられない。

 そのようなカシェの考えを読んだようにゼノが苦笑した。


「残念だけど、便利なわけではないよ。色々制約もあるんだから」

「制約?」

「そう。僕ができるのは、受けた傷の結果物を代わりに負うことだけ」

「つまり、傷痕にしか効果を発揮しないと」


 マルクの言う通りであれば、あまりにも限定的すぎる。だが、強大な力なのだ。そのくらいの制約があって然るべきだろう。


「ううん、生傷にも効果はあるよ」


 しかし、ゼノはマルクの言葉を否定した。生傷にも効くのならば何が制約と言うのか。


「制約らしき制約があるようには思えないが……」

「進行形で受けている傷や死を免れないようなものは代わることができないんだ」


 死を免れないようなものを代わることができないのは当然だろう。必ず死ぬとわかっていて代われる人間など多くない。そうでなくても、加護を授けた竜がその力によって愛し子を殺すような真似はしないはずだ。

 そう考えると後者は十分に理解できるのだが、もう一方の制約に引っ掛かりを覚える。


「進行形で受けている傷とは?」

「例えば、剣が刺さったままの傷とか、毒を受けているとか。一度失ってしまったものを蘇らせることもできないよ」


 進行形とは、傷を負った上で常にダメージが追加されるもののようだ。そして、部位欠損も治すことはできない。なるほど、ゼノがはじめに言ったようにあくまでも身体に負った傷という記憶を肩代わりする能力のようだ。


(教会や王族が囲いかねないな)


 治癒魔術は魔術である以上、回復の度合いはその使い手の力量によって左右される。教会に仕える敬虔な信者ですらも、魔力量によってはあまり大きな術は使えないこともしばしばある。一方で、ゼノはこの幼さで中級以上の実力に当てはめられると言っても過言ではない。

 庶民や下流貴族では凡そ守り切れないであろう。ファーガス家も上流ではないため力不足な気がしないでもないが、そこは精霊の森と共に暮らしてきた故の信頼か。


「想像以上に途方もない御力ですね……これならば王族の庇護下に入った方がよろしいのでは」

「だめだ」


 王族の庇護下に入れば、もっと自由に、贅沢な思いができる。その上、ファーガス家は絶対的に安全かと言われるとそうではない。国に揉み消された父の死の真相を追っている今、いつこの場にいる人間が消されるかわからないのだ。

 そんな場所で過ごすより、王家で安全に暮らした方が遥かにいいのではないか。そんなマルクの提案をゼノは食い気味に拒んだ。その瞬間、強烈な威圧感が部屋を満たした。


「っ…………!」

「……ゼ、ノ様」

「坊ちゃ、ん……?」


 まるで敵うはずなどないと、戦う前から戦意を喪失しそうなほどの圧迫感がゼノから放たれている。カシェは身体が硬直し、グリフとマルクもその場に立っているのがやっとであった。

 空気が振動し、窓を鳴らす。机が揺れ、天井からもかたりと音がした。


(一体、何なんだ……?)


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