16. 春を連れる仔(下)
「失礼いたします」
グリフが執務室の扉を開ける。そう大層な時間は待たせていないはずだが、既に幼子とマルクが揃っていた。マルクが幼子だとは伝えていたが、思っていたよりも小さい。恐らく五歳前後といったところの体型に、カシェは首を傾げた。
「すまない、お待たせした」
カシェが声を掛けると、ふんわりと柔らかそうな亜麻色の髪を揺らしながら幼子が振り返った。肉付きはあまり良くないものの、その頬はふくふくとしている。その片側を隠すように、右耳近くの一房だけ長い髪が三つ編みで束ねられている。左側は髪が短く、若干尖り気味の耳がよく見えた。その耳朶には華奢な耳飾りが付けられている。
「っ……ク、ィス……?」
じっと顔を見つめていると、釣り目気味の藤黄色と目が合った。その目は大きく見開かれており、何処か信じられないものを見ているかのような色が見える。
その幼子の口から漏れ出た言葉に、カシェは合点がいった。
「父上と似ているだろう」
「……は、ぃ」
幼子が驚くのも無理はない。カシェとクロヴィスは同じ色を持っている。違いがあるとすれば、年齢による見た目の差と線の細さくらいだろうか。特に今日はクロヴィスと同様の髪型に仕上げられているため、幼子が見間違うのも仕方がなかった。
「私はカシェ・ファーガスと言う。宜しく頼む」
「あっ! 申し、遅れました……私は」
「待て」
慌てて頭を下げようとする幼子を制止する。幼子は何か失態を犯しただろうかと不安げにカシェを見上げた。
「立ったままでは長話などできないだろう。まずはそこのソファにでも座ってくれ」
「は、はい……」
「それと、普段の喋り方で構わない」
幼子が本当にいいのかと窺う。カシェの背後に控えているグリフや、自身の後ろに立つマルクにも視線を移した。
「…………」
「さぁさ、旦那様もこう仰っておられますので、お座りください」
無表情で黙ったままのグリフとは異なり、マルクは微笑みを浮かべながら幼子に座るように勧めた。それに促され、恐る恐る座る。カシェもそのすぐ正面に腰を下ろした。
「さて……まず手始めに、先程私が遮ってしまった君の名を伺っても?」
名を聞かれ、居心地悪そうにしていた幼子は、はっと顔を上げた。
「僕はゼノ。こちらこそ宜しく頼むよ」
「…………!」
幼子が名乗った途端、カシェは酷く物懐かしさを抱いた。何故か、胸の奥を掻き毟られたかのような気持ちに苛まれる。
「おや、話し方がクロヴィス様そっくりですね」
「……っああ」
幼子——ゼノの名乗りに、グリフが少し目を見張って言った。その言葉に同意する。こんな幼子の口から出て来るとは思わなかった父親とそっくりな話し方に、懐旧の情が胸を騒がせたのだろう。
マルクはこの喋り方を知っていたようで、とても楽し気にカシェたちを見ていた。
「……もしかして師匠がこの子を置いておいた理由って、これだったりしません?」
「さぁ?」
グリフの言葉にマルクが口元に孤を描く。その表情を見て、グリフはやっぱりそうだったかと頭を抱えた。そのやり取りに、ゼノが目を丸くする。
「マルクさんはこの糸目さんの師匠なのかい?」
「ふっ……糸目さん」
グリフの呼び名にカシェが堪え切れず笑い声を上げた。
「なっ……!」
カシェだけではなくこんな幼子まで糸目と呼ぶのか。第一、カシェもマルクもこの得体の知れない幼子を相手に気を抜きすぎではなかろうか。グリフは自分だけ気を張っているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「素直になれグリフ。……どうやらこの子とは感性が合いそうだ」
「あ~~~~もう! アンタら今日会ったとこなんですよね!? 実は血ぃ繋がってたりしません!?」
突然話し方が崩れたグリフを、ゼノが目を白黒させて見つめる。そして、おかしそうにくすくすと笑った。弓形になった目からは涙が滲んでいる。
「グリフさんって言うんだね。父様から話は伺っていたけど、本当に当主様の腹心って感じだね」
「ああ、いい部下を持ったと思う。……君も欲しいか?」
「……僕はいいかなぁ」
カシェがゼノを探るように尋ねると、先程まで楽し気にカシェたちを見ていた瞳に影が掛かった。雲が太陽を隠し、日差しを妨げてしまったようだ。
陽が陰ってしまったせいで、ゼノの言葉が心なしか寂しげな色を纏う。カシェは何か別の話題はないかと目を彷徨わせた。
「……そう言えば、ゼノは私たちのことを父上から聞いていたんだな」
「そうだよ。僕は普通の育ちじゃないからって色々教わったんだ」
「普通の育ちじゃない?」
カシェの疑問にゼノは一つ頷いて語り始めた。
「僕が父様と血が繋がっていないっていうのはもう知っているよね?」
ゼノがカシェに確認する。それに首肯すると、ゼノはほっとしたような少し残念そうな顔をした。
「……やっぱり、僕に家族はいないんだね」
その言葉にカシェは眉を顰めた。まるで、本当の親を知らないようだ。あるいは、自分がクロヴィスの実の息子だと信じていたのか。前者であればよくあることだが、どちらにせよ、クロヴィスが何も教えていないことはないはずだとカシェは疑問を抱いた。
そんな訝し気な目に、ゼノは視線を落とした。
「僕も覚えていないことなんだけど、僕は精霊の森に捨てられていたらしいんだ」
「せ、精霊の森ぃ!?」
「なんと……」
グリフがギョッと目を見開いて叫んだ。マルクも少し目を見開き、銀の瞳がゼノを見つめる。二人が驚くのも無理はない。カシェ自身も手紙の内容を読んでいなければ同じように息を呑んだことだろう。
精霊の森とは、ファーガス領と代々共にあった森だ。ここに来る前に通って来た森とは違い、暮らしている生物は極端に少ない。それは、精霊の森自体が途方もない魔力を生み出す土地であるためだ。過ぎたる魔力は生物の身体を蝕む。そのため、自身の身を守れるほどの魔力量を持つ者でなければその森に立ち入ることすらできなかった。
そんな森に幼子が捨てられる。それは、実質的な殺害の意図があったと考えられた。
「そんな……それじゃぁ坊ちゃんは親に殺されかけたってことじゃ……」
「……生みの親が僕を殺したかったのか、それとも僕の魔力量に気が付いて何とか生き延びる方に賭けたのかはわからない。ただ」
ゼノの言う通り、魔力量が高ければ後者の可能性もあるが、森に入れたとしても森の守護者が居を構えている。その守護者に気に入られなければ、食い殺されるだけである。
(だが、こうして生きているということは無事に気に入られたか)
守護者に気に入られれば、多かれ少なかれその加護を与えられる。クロヴィスがゼノを養子に迎え入れようとしたのは、その加護持ちの保護と同時に、ファーガス領の発展に使えるかもと考えたからかもしれない。
カシェは頭の中に掛かっていた靄が晴れていくのを感じた。
「僕は竜に育てられた」
しかし、それはすぐにゼノによって新たな悩みの種に変わってしまった。
「……ぇ?」
グリフが喉の奥を鳴らす。上手く開ききらない内に声を出したようだ。喉を片手で撫でながらも、その開眼した双眸はゼノから離れずにいる。
「あ、とは言っても僕はあんまり信じてないんだけどね。何なら父様が実の父親だって言われた方が信じられるくらい……」
確かにそれが自分の身に起こったことだと言われても、些か信じ難いことだろう。カシェも今の話には耳を疑ったくらいだ。手紙には精霊の森に捨てられていたことと魔力量のことは書かれていたが、竜に育てられたなどとは書かれていなかった。
「まあその後、父様が竜に呼ばれて僕を引き取りに来たらしいんだ」
「父上が竜に呼ばれて……?」
「うん。ある夜、突然脳裏に竜の声が聞こえたんだって。“竜の愛し子を迎えに来い”って」
そんなことがあり得るのだろうか。ずきりと頭が痛む。カシェは思わず手を頭に当て、珍しく動揺を露わにした。
「……そう言えば、いつだったでしょうか。旦那様……いえ、先代様が夜明けに突然、お告げだなんだと大慌てで出て行ったことがございましたね」
ここまで言葉を呑み、顎に手を当てて思案していたマルクが口を開いた。その内容に、カシェも朧気ながらそんなこともあったと思い出す。
「竜はどうして父上に君を預けたんだ?」
「“この仔は何も知らない。人の温もりを感じる場で、普通の幸せを与えよ”」
「……そう、竜が願ったのか」
「うん。僕は竜の加護が強いらしくて、人の世に出るにしてもある程度の地位がある人間でなければならなかったんだって。ほら」
幼子が少し尖った耳を見せる。人とは違う形は目を惹いたが、これが何に関係しているのか。一同は首を傾げた。
「加護が強いと、生き物はその加護を与えた者に姿を歪められるんだ」
「なるほど……とすると、君は魔力も多く加護も強いわけか」
カシェの視線が耳先の飾りに移る。ゼノは頷き、指先が耳朶を挟むようにして装着されている飾りに触れた。
「これは魔力制御装置だよ」
「あぁ……よく知っている」
「当主様も父様から貰ったのかい?」
「貰ったとも。昔は魔力を制御できず、感情の起伏のままに魔法を発動してしまったからな」
「あ~~……俺もよく魔法の餌食になりましたねぇ」
カシェの言葉にグリフが遠い目をする。まだほんの少年の頃、グリフと言い争っては魔法を暴発させた。そのことを思い出しているのであろう。
「坊ちゃんも魔法を暴発させるのかぁ……」
ゼノは力なく首を振った。
「ううん。僕は魔力は多いけど、魔法を発動させたことはないんだ。……ただ、純粋な魔力が暴走するだけ」
カシェははっと息を呑んだ。魔法に変換されない純粋な魔力の暴走。それは、魂から外部に発動されることはなく、己の内側を傷付けるものだ。魔力を持つ者には時折現れる症状だが、魔力量が多い者が患っているのは滅多にない。何故なら、途方もない魔力に魂が先に消滅してしまうからであった。
「それは……」
カシェは何かを言おうとするも、喉が詰まったように何も言葉が出てこない。だが、ゼノを想って気を揉む様子に、ゼノは口元を緩めた。
「大丈夫だよ。僕の魂は竜の加護に守られているからね」
「……そうか」
ゼノの言葉を受け、静かに息を吐いた。もう余命幾何もないだとか、もうすぐ事切れるというわけでもないことに安心する。
空気が緩んだのを感じ取り、マルクが口を開いた。
「一つ宜しいでしょうか」
カシェが目線で促す。ゼノも表情を引き締め直し、頷いた。
「先程の内容から察しますところ、ゼノ様は人の保護が必要な御年齢ですよね?」
「そうだね。僕は……正確には何歳かわからないんだけど、少なくとも父様と暮らしたのは三年くらい……かな?」
「先代様と暮らした、とは……」
ゼノの見た目から察するに、クロヴィスが死亡したと言われてからもゼノと共に暮らしていたと考えられる。しかし、銀の瞳に光が宿ったのを見て、ゼノは申し訳なさそうに眉を八の字にした。
「あ、語弊があったかな……暮らしたとは言っても、引き取られてからは乳母と一緒に暮らしてたんだ。父様はたまに様子を見に来てくれていたんだよ」
「それは、どうして……」
生きていたのなら、カシェに報せを出してくれてもよかったのに。あるいは、この幼子を屋敷に連れて来てこちらで暮らしてもよかったのではないか。
(何故父上はそんな回りくどいことを……?)
何かがおかしい。何かが引っ掛かる。もう少しでピースがはまりそうなのに、あと一歩というところで言いようのないざわめきに襲われる。
「当主様が騎士になったばかりで忙しい時期だからって」
「……旦那様が騎士になったのって、結構前でしたよね?」
「あぁ……今から八年程前だな」
全員が自然と声の調子を抑え、視線が下がっていった。幼子がクロヴィスと交流があったのは、クロヴィスが行方不明になる前。行方不明になって以降、クロヴィスがゼノに会いに来たことはなかった。
(……希望は潰えた、か)
「ですが、手紙……あの手紙は……」
マルクが食い下がる。その声は力がなく、希望はなくても縋りつくしかないといった様子だ。
「あれは、ずっと昔に乳母が渡されたものらしいんだ」
覚悟はしていたが、実際に聞かされると堪えるものがある。年老いてからも真っ直ぐ芯が通ったように伸びていた背筋が、少し丸まり、その姿を小さく見せる。マルクの見たことのない姿に、カシェは手を握り締めた。
「ってことは、坊ちゃんはクロヴィス様と暮らして三年。その後、今日に至るまでに五年の空きがあるはずですけど、なんですぐにファーガス家に来なかったんですか?」
気落ちした師に代わり、グリフがゼノに問う。すっかり父親のことに気を取られていたが、カシェも疑問に抱いていたことだ。
「……つい最近までは乳母と暮らしていたんだ。でも、乳母は歳を取っていたから流行り病には勝てなかった。あの手紙は乳母が亡くなる直前に渡してくれたんだ」
「……そうだったのか」
「でも、そうだな……。多分だけど、乳母が五年前に手紙を渡してくれていても、僕はすぐにはここに来なかったと思うよ」
「何故です? ここに来れば何の苦労もなく、贅沢に暮らせるとは思わなかったんですか?」
ゼノはグリフに苦く笑い返した。
「僕はもうずっと、贅沢者だったよ」
そして、懐かしさを含んだ瞳が揺れ、儚く笑った。風口の蠟燭の如く今にも消えてしまいそうな様子に、何を想えば幼子がそのような表情を浮かべるのかと思いを馳せる。
しかし、ゼノが瞬きをした次の瞬間にはそのような雰囲気は霧散していた。
「本当は、ここに来たことも悩んでた。孤児院に行こうかとも思っていたんだ」
でも、と続ける。伏し目がちであった藤黄色と碧色が交わった。
「父様と約束したんだ。兄様を……当主様を守るって」
「私を?」
「そう。……今は、その約束を果たそうと思ってる」
勿論許可を得たらだけど、とゼノはカシェの顔色を窺った。その藤黄色には覚悟が滲み出ている。強い想いと、感情によって高められた魔力の揺らぎがゼノの瞳を輝かせた。
「……ふ、ふふ。私が弟に迎え入れなかったらどうしたんだ?」
「……え?」
力強い目が軽く見開かれた。
「いいだろう。君は今日からゼノ・ファーガスだ」
兄と呼ぶことを許可しよう。カシェがそう言うと、グリフは一瞬顔を強張らせた後、仕方なさそうな表情を浮かべた。こうなると思った、とでも言うように肩を竦めているが、その口元は弧を描いている。マルクも鋭い目元が細められ、その眦がいつもよりも下がっていた。
(まさか私が守るなどと言われる日が来ようとは)
それもこんな幼子に。それがとてもおかしく、心が温かくなった。ゼノもはじめは何を言われたのかわからないといった風だったが、徐々にその柔らかい頬が赤く染まっていく。
この日、ファーガス領の屋敷には美しい花が綻んだ。




