15. 春を連れる仔(上)
さらさら、さらさら。何かに髪を触られている。昨夜も誰かに頭を撫でられているような感覚があったが、今は温かさも感じない。
一体何が髪を擽っているのだろうかと、重たい瞼を抉じ開ける。視点も定まらない双眸に、白い影が揺らめいているのが映った。何度か瞬きをする内に視界が良好になり、その影がカーテンであることが分かる。
窓の隙間から入った風がカシェの髪を撫でていたのだろう。今も緩やかな風が、寝室に心地の良い空気を運んでいる。
(昨日は窓を開けたまま寝てしまったんだろうか)
生憎とカシェは昨夜の記憶がなかった。昨夜は珍しく熟睡することができたためか、目覚めてから何も覚えていないのだ。相当疲れていたのだろうと独り言ちる。
ベッド脇の水差しをコップに移し入れ、軽く口内を濯ぐ。いつも通り活動しようと起き上がったものの、柔らかな風に吹かれ、瞼の力がゆるゆると抜けた。このまま風に溶けてしまえたら、もう一度穏やかな眠りに付けるかもしれない。
しかし、それは許されなかった。コンコンと扉がノックされる。
「旦那様」
マルクの声がカシェを微睡みから引き上げた。
「御支度に参りました」
「自分でできると知っているだろうに……」
口では不満を言うが、マルクは構わずに入室して来た。
「ふふ、年寄りの偶の楽しみくらいは残しておいてください」
「マルク、君はいつも楽しんでいるだろう……」
カシェの呆れた目線は、惚けた笑いに弾かれてしまった。
「おや、まだ寝惚けてらっしゃいますか? どうぞ御顔を洗ってくださいませ」
そう言ってマルクが白い手袋を身に付けた手をポンと叩く。すると、扉の向こうで控えていたのか、グリフが姿を現した。艶やかな陶器を乗せたワゴンと真っ白なタオルをその手にしている。
その目元には隈が刻まれていた。マルクとの話し合いは夜通し続いたようだ。
「グリフ……」
「何も……何も聞かないでください……」
下手なことを言おうものなら再び話し合いが開催されることは身に染みて理解している。カシェは口を噤んだ。
沈黙が支配する空間で、グリフが手早く洗顔の手配を済ませる。自分から何も聞くなと言ったが、何の会話もないとそれはそれで落ち着かないといった感じだ。しかし、沈黙に気まずさを抱いているのはグリフのみで、マルクは特に気にすることもなく服をクローゼットから選び出している。また、カシェ自身も春告げ鳥の声に耳をすませていた。
「お待たせいたしました」
「あぁ……ありがとう」
少し湯気の立った湯に手を入れる。湯が陶器の中で小さく波を立て、冷たい指先をじんわりと温めた。それに心が解され、ほうと息が漏れる。
温もりを逃さぬようにと掬った手で、顔の表面を撫でる。濡れた顔は外気ですぐに冷め、一切の夜の気配を消し去った。
滴る雫がカシェの服を濡らさぬ内に、タオルを差し出される。それで顔を拭うと、静かに控えていたマルクが口を開いた。
「旦那様、朝食は何方で召し上がられますか?」
「ここで軽く済ませる」
「かしこまりました。……グリフ」
マルクに呼ばれ、陶器などの一切を片付けてグリフは速やかに部屋を出た。その姿を目に収めることもなく、マルクがカシェに向き直る。
「さて、朝食の用意が済む前に旦那様の身支度を整えましょうか」
「ああ」
「まずは……その朝髪を何とかいたしましょう」
そう言って風に乱された髪にそっと触れた。カシェの長い髪が持ち上げられ、ほんの少し首が軽くなる。
「宜しく頼む……」
「普段の旦那様からは全く想像できない御姿ですねぇ」
壊れ物を扱うような丁寧な手付きで、白鼠色の絹糸に櫛を入れられた。毛先の方からゆっくりと梳かされると、全身の筋肉が緩み、再び眠りへと誘われそうになる。カシェはいつの間にか開きかけていた唇に力を入れた。
「そう言えば例の者にはいつ頃お会いになりますか?」
「そうだな……朝食の後、私の執務室に来るように伝えてくれるか?」
「かしこまりました」
意識が溶け切らない内に、今日の予定について尋ねられる。カシェは閉じていた瞼をなんとか持ち上げて答えた。他の人間の前ではこのように情けのない姿を晒したりはしないのだが、相手は祖父が当主の頃から仕えている家令。生まれた頃からカシェを見守ってきた、カシェにとって祖父と等しい人間だ。そのせいか、どうしてもマルクの前では気を緩めてしまいがちであった。
「今度はこちらに腕を通してくださいませ」
絡まっていた髪は綺麗に解されていた。マルクは光を受けて輝く髪に満足気に頷き、既に選んでいた服を取り出した。
「ああ、わかった」
言われるがままに腕を差し出す。皺一つないように服を着付け、釦を留める頃には自然と背筋が伸びていた。
「……完璧だな」
最後に髪をサイドで緩く纏められる。まるで一張羅を着たかのような仕上がりに感嘆の声が出た。
「騎士の武器は剣かもしれませんが、貴族はこうした身だしなみですらも武器となるのですよ」
最近のだらしのない恰好を知っているかのような口振りだ。本当にうちの家臣は何故揃いも揃って知ることができないはずの情報まで知っているのか。カシェは耳と頭が同時に痛くなった。
「こうしていると、本当に先代様によく似ておられますね」
「……ああ」
「折角ですから、これからもしっかりと身だしなみを整えていただけますとよいのですが……」
「いや、それは……」
カシェはマルクから目を逸らし、言葉を濁す。騎士服の練習着は非常に楽であるため、できれば堅苦しい服は着たくはない。特に、父親と同じような格好をすることで、カシェを通して父親の面影を見ているかのような目を向けられると、胸中に苦い思いが広がる。
似ていると言われること自体には何も思わないが、父親を過去の人物として扱われたくはなかった。
指先で髪を弄るカシェにマルクがもう一言何かを言おうと口を開く。しかし、そのタイミングで扉が叩かれ、マルクは口を噤んだ。
「どうぞ」
カシェが許可を出すと、グリフが軽食の乗ったワゴンを運んで来た。
「旦那様、食事の用意ができました……あれ?タイミング悪かったですか?」
頭に手を押し当てている主人の様子に、グリフが足を止める。
「いや。丁度よかった」
カシェの言葉を受け、グリフはテーブルに軽食を並べた。マルクも紅茶を入れ、部屋の隅に控える。
「マルク、聞きたいことがあるんだが」
「はい」
「何故今回は私を呼び戻したんだ?」
言外に、大抵の人間であれば君は握り潰すだろうにと伝える。すると、マルクが懐から少し褪せた封筒を取り出した。
「こちらがその理由でございます」
封筒を受け取り、宛名を見る。そこには、クロヴィス・ド・ファーガスと書かれていた。
(……父上の名だ)
もしかしたら何か事件の手がかりが書かれているかもしれないと思い、急いで中身に目を通す。
それは、子どもに向けられた手紙のようであった。特筆すべきことは何もないが、“もしも僕が君に会いに行くことができなくなるときが来たら、君の義兄であるカシェ・ファーガスを訪ねるといい”と書かれている。その字は、父親の筆跡とよく似ていた。
「……これを持って来たわけか」
「左様でございます。宛名の字が先代様の字の癖とよく似ておりましたので、もしやと」
「だが、父上が行方不明になったのは五年前だぞ……何故今更になって……」
最後まで読み終えた手紙を見て顔を顰める。死亡報告を受けてすぐの頃に来るならまだしも、五年の年月を空けて訪ねてくるのは怪しい。
しかし、もしこれが本当にクロヴィスのものであったならば、彼は子どもを自分の養子同然に扱っていたと考えられる。今までにもよく人を拾ってくる人物ではあったが、身内に迎え入れることはなかった。一体どうしてこの幼子のことは養子扱いしていたのだろうか。
(何か特別な理由でもあるのか……?)
考え事をしながら、何気なく指先で撫でる。すると、ふとインクのあたりから弱々しい魔力の気配を感じた。保全魔術かもしれないが、妙に引っ掛かりを覚える。カシェは、その手紙がよく見えるようにと光に翳した。
突然手紙を透かし始めたカシェをグリフが怪訝そうに見やる。
「旦那様? 何かありました?」
「いや……」
何度か角度を変えて透かす。しかし、これといって魔術の痕跡がわかるわけでもない。
気のせいだったかと手紙を下ろそうとしたとき、光がインクに当たり、きらりと輝いた。
(これは)
ただの黒インクだと思っていた文字が、ほんの少しだけ色を変える。ほんのりと赤みを帯びた黒。最近嫌になるほど見た色だ。
「……血だ」
「まさかクロヴィス様の……」
血で手紙を書く。それは、古くからある魔術の一種だ。魔力を通すことで本当の文章に組み替える。血縁の中でも親子や兄弟ほどの血の繋がりを持つ人物でなければ読むことができず、非常に重要な秘密を隠し伝えるための方法であった。
カシェは指先が震えそうになるのを抑え、魔力をその手紙に流した。
「……本物でございましょうか?」
心臓が早鐘のように鳴り響く。逸る心音に促されて瞳は忙しなく動くものの、その視野はいつもより狭い。マルクの言葉も脳で上手く処理できず、ぐわんぐわんと頭の中で谺する。
吐き気がするほどの情報量が脳内を何度も廻り、カシェは瞳を閉じた。目を閉じても依然として頭の中を情報が駆け巡る。
漸く脳の処理が落ち着きを取り戻した頃、浅い呼吸音が耳に入って来た。それが自分のものであるとわかり、呼吸を整える。自身の呼吸が整うと、マルクの呼吸音も普段より浅く聞こえてきた。グリフも落ち着かないのか、頻繁に衣擦れの音がする。二人ともカシェの答えを待ちかねているのだろう。
カシェは閉じていた瞼を開いた。その目元は少し赤らみ、口角が自然と引き上がっていく。笑いが堪えられないという表情でマルクとグリフを見つめ、答えた。
「ぁぁ……ああ! 本物だ……!」
「なんと……!」
簡素な言葉のみだが、喉が引き攣り上手く音にならない。
擦れた声が二人の耳にしっかりと届いた。その声を聞くや否や、マルクの膝の力がふっと抜ける。それでも座り込むことなく、すぐに居住まいを正す。グリフも口元を抑え、訳も分からず口走ってしまいそうな衝動を堪えた。
「それはいつ頃の手紙でしょうか……?」
「わからない。だが、これが行方不明以降のものであれば、父上は生きている可能性が高い」
もしも、五年間カシェの元に来なかった理由が、来る必要がなかったからであれば……? 即ち、この五年間、クロヴィスは息を潜めつつも、幼子の元には通っていたのではないかとカシェは考えた。
「……彼に会って確かめねばならないことが増えたな」
「ええ、そのようでございますね。……今すぐに呼んで参ります」
「宜しく頼む。我々もすぐに執務室に向かおう」
マルクが静かに礼を取り、足音も立てずに立ち去った。
マルクにはすぐに向かうと伝えたものの、カシェは腰掛けているソファに身体を沈めた。ほんの少し希望が見え、ほっとしたのだ。
グリフが口元から手を外し、カシェを見やる。外された手が反対の手を強く掴み、皺を作っているのがカシェの目に映った。
「グリフ、何か言いたいことでもあるのか?」
寸刻の逡巡の後、グリフはぽつりと言葉を落とした。
「……旦那様は弟君を受け入れるおつもりですか?」
何かが変わるとき、人は大きな不安に飲まれる。それは、カシェとて変わらない。
「それは……彼次第だ」
その波に攫われないように、しっかりと腰に力を入れる。カシェは緩慢とした動きで立ち上がった。




