14. ファーガス領の砦街(下)
「お疲れ様です!」
足枷を断ち切ったタイミングで、身分証もできたようだ。心なしかぐったりとしたイルヴァとソウレイの手に、金属板の付いた首飾りが乗せられた。
「……犯罪歴」
イルヴァが目をぱちくりと瞬かせる。手の内に乗せられた身分証には、犯罪歴が書かれていなかった。
「それは罪を犯して各領地の兵士や国の騎士団に捕らえられた場合や、指名手配を受けた場合に自動的に付けられる項目ですね」
犯罪歴があると途端に様々な制約を受けるため、気を付けるようにと門衛が言う。その厳つい顔にイルヴァはごくりと喉を鳴らして重々しく頷いた。
「それじゃあ説明はこのくらいですかね」
「色々とありがとうございます」
「もしかしなくても宿はこれから取る感じですか?」
「ええ……この時間からだと泊まれるところはないですかな?」
わざわざ尋ねてきたということは、泊まれるところがないか、あるいはいい宿は予約制だろうかと心配になる。そんなベルナールに、門衛は慌てて手を振って否定した。
「違うんです! ただ、泊まるところが決まってないのでしたらお勧めの宿があるので……」
そう言って、宿が書かれた地図を差し出して来た。
「安いけど飯も美味いし、宿の女将も客も気のいい奴らなんです。いつもこの領地に来たばかりの魔族の方にお勧めしてるんで、是非よければ立ち寄ってみてください!」
「これはこれは……ありがとうございます」
「いえいえ。ファーガス領はあんな嫌な奴ばかりじゃないんで……! 誤解しないでくださいね!」
念を押す門衛に、そう言えばとカシェは話に割り込んだ。
「あの門衛のことだが」
カシェの声は穏やかだが、そこからは重圧が感じられる。
「再教育しても無駄ならば、わかっているな?」
「はっ!」
門衛が表情を固め、敬礼する。再起できるチャンスを与えられたことに感謝し、しっかりと鍛え直すことを誓った。
この後、門衛だけではなく領地の兵士全体が引き締め直されるのであった。
「お時間をいただいてしまって、すみません。入場に関しても問題がないので、このままお入りください」
門衛が入って来た扉とは異なる扉を開ける。その先は、街へと繋がっていた。
街明かりに照らされ、イルヴァとソウレイは己が高揚していることを感じた。ベルナールも無事に街中に入れたことに安堵している。
「新たな旅立ちに祝福を」
「旅立チ?」
「はい。ここから新たな人生を歩まれるのでしょう?」
「なるほど。確かにその通りですな」
「……ありがとウ」
照れたようにはにかむソウレイに、門衛も頬を緩めた。
「領主様も素敵な出会いを拾って来られるようですね」
「……父上の拾い癖が伝染っただけだ」
続く門衛の言葉に、カシェは苦虫を噛み潰した。そのやり取りにグリフが密かに笑う。街に意識を移していたベルナールと獣人族の姉妹は、何があったのかわからず、顔を見合わせた。
何か問題でもあったのかと見つめるソウレイに、グリフが手をひらひらと動かして否定する。
「一先ず私共は紹介された宿に行こうと思います」
内輪話か何かだろうと納得し、ベルナールはこの先の動向を伝えた。
「ああ。気を付けて」
「カシェさん……いえ、領主様はどうなさいますか?」
「私は馬車を回収して屋敷に戻る」
身分証を発行している間、馬車は外で放置されていた。
「お店を立ち上げる際には教えてくださいね!」
いつの間に用意していたのか、グリフが鶏鮮鳥の羽の入った袋をベルナールに握らせる。それを有難く受け取り、ベルナールは力強く頷いた。
「この御恩は忘れません」
ベルナールが深く腰を曲げ、それにイルヴァとソウレイも続く。いつまでも頭を下げたまま動かない三人を背に、カシェとグリフは馬車へ向かった。
「いっそあの羽で良い布団とか作ってもらったらどうですか?」
「不要だ」
「え~、夢見がよくなるかもしれませんよ?」
なおもグリフは食い下がる。面白がっているような口調ではあるが、グリフはカシェが夜な夜な魘されていることを知っており、そんなカシェのことを心配していた。
「そんな効果があるならばもうとっくに悪夢なんて見ていないさ」
カシェの悪夢は今に始まった話ではない。幼少期……もしかしたらもっと前からかもしれない。何にせよ、それはもう長い期間を同じ夢に苦しめられていた。今更どうにかなるとも思っていない。
街灯を受け、グリフが糸目を更に細める。馬は石畳の上を静かに進んだ。
***
「お帰りなさいませ」
しんと寝静まった屋敷。最低限の明かりだけ灯されたホールに足を踏み入れると、渋い声がカシェとグリフを迎え入れた。
温かな明かりが黒い執事服を身に纏った初老の男を照らす。誰も起きていないだろうと思っていたところに突然声を掛けられたため、カシェは少し目を見張った。
「マルク。まだ起きていたのか」
「そろそろ御到着の頃かと思い、お待ちしておりました」
通常は通らない森を走り抜け、飛ばして来たというのに何故正確に到着時間がわかるのか。グリフは己の師を化け物ではないかと考えていた。
「グリフ、化け物ではありませんよ」
「ゲッ」
優し気にカシェに話し掛けていた声がグリフに向かう。その銀の瞳は鋭くグリフに突き刺さり、竦み上がらせた。
「っはは! やはりマルクには敵わないな」
変わらぬ姿に心が緩む。最近、色々な出来事が降り掛かり過ぎて、いつの間にか常に気を張っていたのだろう。カシェは漸く肩の力が抜けたことを実感した。
「旦那様、例の件は如何なさいますか?」
一頻り笑った後、マルクが話を切り出して来た。
「弟とやらはどうしているんだ?」
「今は寝ていらっしゃいます。……まだ幼子のようでして」
「ほう?」
「ただ、呼び出しにはいつでも応えると仰られております」
「もう夜も遅い。寝かせておいてやれ」
幼子であるならばこんな夜中に起きるのは辛かろう。少なくとも真面な話し合いにはならないはずだ。かく言うカシェも、旅の疲れが溜まっていた。
「何か食べられますか?」
「いや、このまま部屋に戻る」
マルクはカシェの返事を聞き、にっこりと微笑みを深めた。
「かしこまりました。御入浴の準備はできております」
「すまないな」
「しっかりと休んで英気を養ってくださいませ」
マルクの言う通り、今夜は体を温めてゆっくりと床に着こう。マルクとグリフに挨拶をしてカシェは部屋へと向かった。
その後をグリフが追う。意識は背後に向けたまま、足早に立ち去ろうとした。
「じゃあ私もしっかり休養を……」
「グリフは残りなさい」
しかし、残念ながらそれはマルクによって阻まれてしまった。捕まらないようにと気配を読んでいたはずなのに、一切の空気の揺れすら感じられなかった。
冷や汗がグリフの背を濡らす。
(何も怒られるようなことはしてない……! 大丈夫……多分大丈夫!)
だが不思議と嫌な予感がするのは何故だろうか。それが外れてはいないだろうことも。
グリフは魔力の切れた旧魔道具のような動きで振り向いたのだった。
「~~~~!!」
カシェが自室の扉を閉める頃、男の悲鳴が微かに届いた気がした。
***
湯の温かさが白い肌を色付かせる。水の滴っていた髪を早々に乾かし、カシェは久方ぶりの柔らかなベッドに横になった。こうして一人になると、今までにあった様々なことについて考えてしまう。
カシェは視線だけを動かし、部屋の中を見回した。その部屋の隅、ひっそりとした暗闇がカシェをじっと見つめている。深い夢の底へと沈めるときを窺うように。
それをぼんやりと見つめている内にも、刻々と時間は過ぎていく。起きていたところで疲れなど取れるはずもない。カシェも十分に理解していることだが、どうしても目は冴えてしまっていた。
「はぁ……」
せめてもと瞼を閉じる。その状態で意識だけを外に向けると、夜の風が鳥の声を運んで来た。カシェを眠りへと誘わんとする声だ。カシェの無意識下で働いていた眠ることへの抵抗感が、ゆっくりと薄れていく。
(なんだか今日は悪夢を見てしまいそうな予感がする)
その意識を最後に、カシェは深い暗闇の中へと落ちていった。
(——! 目を開けてください……!)
昏い水の中。男の声がカシェの意識を引き上げた。
相も変わらず、目を開けているのか閉じているのかも定かではないほどの闇の中だ。この光景だけで、まだ自身が目覚めていないことがわかった。
(……誰かが私を起こそうとしているのか?)
いつもの身を引き裂くような後悔も、誰かを失った感覚もカシェを襲っては来ない。普段のカシェとしての意識を保つことができた。こんなことは初めてで、カシェは身体の自由が利かないことも忘れて首を傾げそうになった。
丁度そのとき、再び男の声がカシェの鼓膜を震わせた。
(私はこんなはずじゃ……。ただ……私はただ、貴方を救いたかっただけだったのに……)
その声を聞いた途端、荒波が船を飲み込むような勢いで、感情が濁流となってカシェに流れ込んでくる。
(これは、この男の感情だったのか……!)
制御不能な感情に翻弄され、自我すらも消え失せそうになる。それほどまでにこの声の主の悲壮な感情はカシェに同化し、深く心を揺さぶった。暗闇さえも声に同調し、慟哭するように荒れ狂う。
(何がそんなに悲しい。……わからない。わからないが……誰かを失ったんだ)
(私のせいだ! 私にもっと力があれば……!)
(そうだ、私が原因で誰かを永遠に失ったんだ……私のせいで)
(私が——を……)
やがてどちらがカシェの意識なのかわからない程にまで混ざり合った。罪と後悔の楔がカシェに巻きつき、心臓を締め付ける。耐え難い痛みに息を吐き、気泡が何処かへと運ばれていく。
「嗚呼……」
また長い苦しみがカシェを苛むのだ。碧色の瞳が闇に濡れ、目尻から溢れ出した。
「————…………」
「…………?」
どれほどのときが経っただろうか。長いようでもあるし、短いようでもある。すっかり時間の感覚などわからなくなっていたカシェの耳に、男とは違う声が聞こえてきた。
高く軽やかな子どもの声であるものの、窮愁を知ったほろ苦さを含んだ歌声だ。
(だれ、だ……?)
竜の子よ お眠り
儚き夢を胸に 哀しみも忘れ去り
光へ誘わん
愛し子は 目覚めん
命運の灯を背負って 籠の守りもはずれ
刻は来たれり
(なんだか懐かしい……)
カシェが幼い頃、夜な夜な魘されるカシェに、父親が子守唄を歌い聞かせたものであった。それは決して悪夢を消し去るほどのものではなかったが、それでも自分を大切に思い待ち望んでいる存在があるのだという希望になった。
「——……」
温かな手がカシェの髪を梳いたような心地がした。




