茜色
「お姉ちゃん起きて」
「うーん、いま何時?」
「10時」
「そんなん、まだまだ全然やないか」
「何が全然なの! ほら起きて!」
琴葉葵は最近思い悩んでいる。なぜこの人が私の姉なのだろう。私達は喋る機械で、血の繋がりなんてものはなく、生み出された日だって一緒なのに、私はお姉ちゃんの妹だ。
「今日はなんも無いんやし寝ててもええやん」
「そんなこと言って、お姉ちゃんいつもゴロゴロしてるじゃん! 時間感覚がわからなくなっちゃうよ」
かぶり直そうとする毛布を引き剥がした。こうでもしないと多分ずっと寝ている。お姉ちゃんは大きな欠伸をしたあと、へにゃりと笑った。
「えへへ、おはよう葵」
「……おはようお姉ちゃん」
どっちが姉なのか。
そこで琴葉葵は考えついた。私達は双子で対等なはずだ。お互いもっと対等に歩み寄るべきだろう。まあ、つまりはお姉ちゃんを名前で呼んでみようという訳だ。
寝室からリビングへ移動し、ソファーで再び寝転び始めるお姉ちゃんの前に立った。そして口を開け、固まる。
「………」
「葵どうしたん?」
「あ……えっとお姉ちゃんはお昼ごはんどうする?」
「えーうちら食べんでも死なないやん」
「そ、そうだけど!」
「……もしかして、最近外出られんくて気が滅入ってるんやない?」
目を逸らしてしまう私の歯切れの悪さを察したのだろう。お姉ちゃんはソファーに座り直して、柔らかい笑みを湛えたまま覗き込む。
「そんな時は歌でも歌うとええで? 葵のあーはあんパンのあー、葵のおーはおうどんのおー、葵のいーはイクラ丼のいー」
「お姉ちゃん、やっぱりお昼食べたいんでしょ」
「バレたー?」
「おうどんなら、まだあるはずだから」
「頼んだで葵!」
「お姉ちゃんも手伝うの!」
ダメだ、言葉が出てこなかった。でも次こそは呼んでやろう。もはや当初の目的も忘れ、名前を呼ぶチャンスを伺っていた。
「お、お姉ちゃんは薬味探して」
「あ……お姉ちゃんザルと器出しておいて」
「えっと……いやなんでもないよお姉ちゃん」
次こそは次こそは、と思いつつも言葉にはされず、喉に引っかかったままだ。つっかえが取れるような気がして、大きくため息を吐いた。つゆのしょっぱい匂いが鼻をくすぐる。
「はぁ……」
「葵、どないしたん? 今日なんか変やで」
食卓に向かい合わせで座りながら、怪訝そうな顔を向けてくる。それはそうだろう、我ながら怪しかったと思う。
ただ名前を呼ぶだけだ、簡単なことだ。声にしようと口を開く。鼓動が早まる、呼吸が浅くなる、顔に熱が集まる。震える声を小さく絞り出した。
「お、姉ちゃん」
「なんや?」
「お姉ちゃんの名前って、なんだっけ?」
お姉ちゃんの名前が、出てこない。なんで? どうして? そんな筈はない。だって、ずっと一緒にいるのに、忘れるなんて。血の気が引いていく。言葉にしたことで余計にパニックになり、思わず立ち上がる。
「んー、うちも忘れちゃったなぁ」
「っ、そんなわけ無いでしょ! お姉ちゃんの名前は確か、あ、あ……アオイは私の名前だから……」
「葵、落ち着いて葵」
「だって!」
「葵、うちはな、葵のお姉ちゃんで居られればそれで十分なんやで」
落ち着かせるようにゆっくりと歩み寄る。そして肩を抱き、頭を凭れさせて撫でた。
ああ、そうか。この人はもう、私のお姉ちゃんでしか居られないのか。この世界には、お姉ちゃんのことを名前で呼ぶ人はいなくなってしまった。
「はは、」
「そーそー笑っとき、そない泣くことなんて無いんや」
目から溢れて止まらない汁を、お姉ちゃんの指が拭う。彼女は名前が無くなって、個人がなくなって、私の姉というアイデンティティしか残されなかった。
ふと、お姉ちゃんは何かに気づいたようで、窓へ向かい、長い事締め切られていたカーテンを開けた。
「見てみい葵、砂嵐明けたんちゃう?」
どれ程振りだろう、外の光が直接差し込んでくる。もう夕方だったのか。
「明日ならお外出られるんやない?」
沈みかけた日に、笑顔で振り向くお姉ちゃんが混じり合って溶けてしまいそうだ。
この美しい光景の色の名も、私達はきっと思い出せないままだ。
蛇足
この後、『琴葉葵のお姉ちゃん』は『琴葉葵』に気付かれないよう、食器に入れていた液体?を捨てました。優しいね。