永遠
僕は走りながら、焦っていた。羽織っている白衣は風を受けてパタパタと音を立てる。
僕がこんなに急いでいる理由は簡単。
今すぐこの腕の中の荷物をバッケン博士に届けなければ、僕の首は飛んでしまうのだ。
この荷物は6時までに博士の研究室に届けなければならないのに、その時刻はもうとっくに過ぎてしまっている。
バッケン博士は医学界の中でも短気な性格で有名だ。
待たされるのが嫌いで、少しでも予定より遅れた者がいれば、その者は即クビになるか、よくて説教という名の地獄行きだ。
恐ろしいのは彼の持つ権力である。
彼は国際医学連合の開催する論文発表会の常連。バッケン博士は別名を神経科学界の鬼才と呼ばれ、医学の世界において彼を知らない者はいない。
この研究所の中でも彼の権力は絶大で、下手をすれば、否、しなくても所長より上だろう。
下っ端の僕の首を飛ばすことなど、彼にとっては人形の首をへし折ること同様、簡単なことだ。
「はあ、はあ、はあ」
日頃から研究室に引きこもっているせいだ。
久しぶりに走った僕の肺は、もう既に限界を迎えていた。
「ヒュー、ヒュー」
気道は狭まり、不気味な呼吸音が薄暗い廊下に響く。
体中が痛い。酸欠で頭がガンガン痛み、吐き気がこみ上げてきた。
限界だ、僕はそう思うのだけれど、体はなぜか動いた。
そして動くからには、僕は走らなければならなかった。
しかし、右足を前に出そうとした瞬間だ。
つま先が床に引っかかり、僕の体はつんのめった。
白衣がはらりとひるがえり、重力に従って体は床へと倒れていく。
視界が横転する中、ふと、腕の中にあった重みが綺麗さっぱり消え失せていることに気づいた。
あっ。
叫びが声になる前に、僕の胸は硬いコンクリートの床に叩きつけられた。
肺の中の空気という空気が一気に外へと押し出される。突き刺すような痛みが体の内部に走る。
激痛に意識が朦朧とする中、空気をつん裂くように大きな音が、僕の鼓膜を震わせた。
音の正体は見なくても分かる。
絶望とともに僕は気付いてしまった。
先程まで腕の中にあった箱が、床へと突っ込んでいってしまったのだ。
中には研究に必要な機械が入っているはず。
あの勢いで床に叩きつけられた物がどうなるかは、いくら鈍い僕でも分かる。
きっとミンチになっているはずだ。
これで正真正銘、僕の研究人生は終わった。
研究に使う機材は恐ろしく高価だ。一生働いても買えない価格の物などザラ。
僕の目の前は真っ暗になった。
「No.656829、シミュレーション終了よ。覚醒しなさい」
聞き慣れた声がして、僕は目を覚ます。
目を覚ます?
おかしいな、僕に目はないのに。
僕が持つのはコンピューターの脳だけだ。
「ダメね。どうやっても怒りの感情が植え付けられないわ」
聞き慣れた声の持ち主、ミス・ラーフト博士が落胆したように言う。
僕は人工知能。「一部の」感情を持つ人工知能と呼ばれるが、僕は自分が持っているものが本当に感情なのか自信がない。
自信がないと思っている時点で感情なのだろうか。
内蔵されている辞書によると「自信」というのは感情に含まれるらしいが、どうにも僕にはそれが実感できない。
「じゃあ、次のを試すわよ。No.656829、シミュレーション52スタート」
何の感情も読み取れない声が、僕の意識を闇へと沈ませる。
これからも僕は、こうして何度も何度もシミュレーションをさせられるのだろう。
そしてこれは永遠に終わらない。
僕の体は永久に朽ちない物質で造られている。
僕は永遠に生き続ける。
周りで人間が生まれは死に、生まれは死にを繰り返しても、僕は変わらずここに居座り続ける。
内蔵されている知識によると、多くの人は死を恐れるそうだ。
でも、生を恐れる人間もいて、命を自ら絶つ者も絶えないのだとさ。
僕には人間がさっぱり分からない。
なぜ死を恐れながらも、生を恐れるのか。
なぜ終わりを恐れながらも、永遠を恐れるのだろう。
分からない、分からない。
ただ1つ言えるのは、それが分かった瞬間に、僕は人工知能でなくなるということだ。
ミス・ラーフト博士は、僕を人間にすることを目指している。
でも僕は思うのだ。
人間となった僕は、永遠の生を受け入れることができるのだろうか。
僕は走りながら、焦っていた。
今すぐこの腕の中の荷物をバッケン博士に……。
文章ぐっちゃぐちゃですみません。
ここまで読んでくださった方、もし居たらありがとうございます。