第6話 サイナス③
この男が竜?
それもあの伝説の竜ファーブニル?
前に立つ男は、明らかに人間である。その顔その手には竜鱗の一つも見当たらない。それとも化身という意味なのだろうか?
様々な疑問が沸き起こり、その答えを見つける為にサイナスは過去に読んだ様々な書物を、頭の中で片端から紐解いていた。
そんな悩めるサイナスを、男は悪ふざけをしている子供のような面持ちで眺めている。ほんの少しだが、その口元には笑みが浮かんでいた。
「悩んでいるようだな?」
「そ、それは、まあ」
「まあ、話してやってもいいが……」
男はサイナスを上から下まで、まるで舐めるように眺め始めた。どこから切り刻もうかと吟味されているようで、少々居心地が悪くなる。そんな雰囲気を和らげようと、サイナスは慌てて取り繕った。
「あ、そうだそうだ、自己紹介がまだでしたよね。僕はサイナス・クロウといいます。出身はアストラ地方で、学者の卵です。とは言っても、まだこうして探求の旅を始めてから二年とちょっとなんですけど」
「クロウ? どこかで聞いたことがある名前だな……」
男は考えるような素振りを見せて、やがておもむろに呟いた。
「ディアン・クロウ……」
「え!?」
それは紛れもなく先祖の名前である。
「知っているのか?」
「いえ、先祖に同じ名前の人がいるので。ただし二百年前の人物ですが」
「先祖? なるほど二百年前なら人間にすればそうなるか。俺はそのディアン・クロウと会ったことがある」
「二百年前にですか!?」
名前だけなら、同姓同名ということも考えられる。けれど二百年も前の人間と会ったというのは冗談か、それとも……。
「あいつとは火山のある島で会ったんだ」
「火山の島? ラセル島のことかな。ディアンの自叙伝には、その島に行ったと書いてありました。でも、近くまで行っただけと書いてあったような……」
「そうか、ではあの男は約束を守ったんだな」
ファーブニルは視線を左右に揺らし、複雑な表情を浮かべながらおもむろにサイナスのすぐ近くまで歩み寄った。
「どういうことですか、ファーブニルさん?」
「その名前は好きではない。人間が勝手に付けた名前だ。どうしてても呼びたいのなら、ギラと呼べ」
「ギラ……『壮麗たるもの』、古代語ですか。そちらの方が素敵な感じがしますね」
ファーブニル、いや、ギラは「お前も話せるのか?」と一瞬目を輝かせた。
「お前もって、他にだれか古代語が話せた人がいるんですか?」
「ディアン・クロウだ」
当然だろうというように、ギラは顔を上げた。
「ああ、確かにディアン・クロウは古代語、つまりホスピーナ語を話せたと本に書いてありました。でも残念ながら僕はほんの少し単語が読めるだけです。二百年前なら話せる人もいたでしょうが、最近はすっかり忘れられてしまっているので。文字は残りますが、発音は長い時が経つと忘れられてしまうものなんです」
「二百年程度で“長い時”とは、人間というやつはつまらないものだな」
ギラはなぜか寂しそうにため息をつく。そんな様子を見たサイナスのその胸の中で、再び“興味”という悪魔が頭をもたげ始めていた。
いったいどうやって人間になったのだろうか?
ディアンとはどんな出会いがあったのだろうか?
そして、彼はどうしてこの竜を護っているのだろうか?
次々と浮かぶ疑問にとうとう我慢ができず、気がつけば口から飛び出てギラへと投げかけていた。
「あなたのこと、どうか教えてくれませんか? 殺されても、僕はいっこうに構わないんです。だからどうか」
「……そうだな。あのディアンには多少の恩があるから、それを返すのも悪くはない」
まるで許可を得るかのように、ギラは後ろで眠る竜へと振り返り、しばらくその姿を眺めていた。
すぐにでも聞きたかったサイナスの期待は膨れるばかり。そんな気持ちを知ってか知らないでか、ギラは黙ったままゆるゆると腰を下ろして瞳を閉じた。
遠い昔を思い出しているのだろう。確かに二百年前のことを思い出すには、少々時間を有するものなのかもしれない。
けれどその沈黙があまりに長すぎて、サイナスは無意識に爪先を揺すっていた。
どのくらい経っただろうか。サイナスには数時間とも思えたが、せいぜいの数分だ。突然、色の薄いその瞳を開いたギラは、ややくぐもった声で「どこから始めようか?」と、サイナスを見ずに質問した。
長い話らしい。サイナスは軽い興奮を覚え、背筋がぞくぞくした。新しい何かを知る時はいつもこうだ。たとえ伝説の類いであろうとも、真実かどうかを確かめる術がなくても、その知識を得たいという欲求が胸の底からわき上がってくる。
「えっと、じゃあ、ディアン・クロウとの出会いから」
「判った」
そう返事をしたギラはもう一度瞳を閉じたが、今度は即座に開き、その鋭い眼光をサイナスへと浴びせてきた。
「ディアン・クロウとは島で会ったと言ったな?」
「ええ、火山の島ですよね」
「あの時、俺はちょっとした戦いのあとで疲れ切っていた。ただの下級魔族だったが数が多すぎた。百ほども倒すと、さすがの俺も体力的に限界に来て、ほんの小休止のつもりであの島の火山で休んでいたんだよ。だが運が悪いことに、その時は百年に一度の噴火の日だった。噴煙と溶岩に巻き込まれ、気がつけば、岩石に埋もれ身動きができない状態にいたってわけだ」
サイナスはギラの顔を穴のあくほど見つめていた。言っている意味が判らないわけではないが、彼の状況がどうにも理解できずにいた。
「ええと、なんだかまるで、あなたが人間じゃなかったような?」
「そう言っただろ、俺は竜だったと」
果たしてこれは真実なのだろうか。こんな壮大な嘘は聞いたことがない。それとも彼は史上まれに見るような夢想家なのだろうか。
そんな勘ぐるような気持ちがサイナスの顔に滲んだのを、ギラは察知したようだ。
「信じられなければ、別に信じなくてもいいさ。それにこの話も終わりにしても良い」
「いえ、続きをお願いします。真実かどうかは、この際、僕には関係ありません。それよりあなたの話にとても興味をそそられます」
サイナスは笑いかけた。そうなのだ。真実かどうかは聞き終わった時に考えればいい。今はただギラの物語を素直に耳の中に入れていくだけだ。
ギラは頷き続きを話し始めた。
「そんな状態の時に、ディアン・クロウが現れた。奴は俺を見つけると、驚くことに何も言わずに、俺が埋もれている灰やら岩やらを取り除き始めた。
三千年前、まだ竜と人間が頻繁に契約を交わし、互いに一緒にいる頃ならともかく、あの当時は既に、人間と竜が一緒にいることなどなかったからな。それにその頃には俺は、例の“ファーブニル”という汚名を人間どもに付けられていた。だから奴がそんな行動に出るなどと、思いもしなかった」
「ディアンはあなたが“ファーブニル”だと気づかなかったんじゃないでしょうか?」
「それはない。竜だった頃の俺の頭には、はっきりとした特徴があった」
「ああ……」
サイナスは視線を上げ記憶を手繰り寄せ、昔読んだ戯曲の有名な一説をそらんじた。
ファーブニル、ファーブニル
魔へと窶した醜き竜よ
お前の額に輝く星に、我が剣を
「最近出会った歌姫なら、もっと上手く唱えたんでしょうけど……」
「そうだ、その星。青い星がここに、な」
そう言って己の額に指を当てる。
「“青い恒星”ですね。まるでフィリアの……」
言いかけたサイナスはすぐに話を戻した。自分の知識をひけらかす場合ではない。
「あ、すみません、こっちのことです。それよりそれからどうしたんですか?」
「ディアンはひと月、不眠不休で俺を掘り起こそうとした。そんな男の行動が不思議でならなかったよ。しかもその間、奴は俺にずっと話しかけ、勝手に俺に“ギラ”と呼び始めた。俺自身は人間にどう呼ばれようと、全く気にしていなかったが、奴は“ファーブニル”は評判が悪いからとぬかしやがった」
「へぇ」
サイナスは、ディアンがいったいどういう人間だったのか、とても興味が湧いてきた。一ヶ月間、埋もれる竜 ――それも悪名高き“ファーブニル”を掘り起こすなど、尋常では考えられない。
「とにかく奴は色々な話をした。人間どもの下らぬ話だったが、俺も暇だったのでその話につき合ってやった。奴は俺が古代語しか理解しないと思ったらしく、ずっとそれを使っていたんだ」
「ああ、だから僕が古代語を話せるのかって、さっき尋ねてきたんですね。それからどうなったんです?」
「一ヶ月後、体は三分の一ほど地上に出た頃、俺はもがき出て、自由を取り戻した。その頃にはディアンはすっかりやつれ衰えていたけどな。言っておくが、俺はお前らが言うほど残忍ではない。それなりの謝意は持ち合わせている。もちろん、人間なんかに伝える気はさらさらないが」
口ではそう言っているが、ディアンの子孫と聞いて、こちらの質問に素直に答えてくれるギラには優しさが感じられる。殺すと脅されている相手を、そんなふうに思ってしまうは変だなと、サイナスは内心思っていた。
「代わりに俺はディアンに話しかけることにした。それに、物知りらしいあいつに聞きたいこともあったからな」
「なんて話しかけたんですか?」
「俺を掘り起こしていた理由をまず尋ねた」
「ああ、僕もそれがずっと気になっていました。ディアンはなんて答えました?」
ギラの視線が虚ろになる。きっとディアンを思い出しているのだろう。
やがて、口を開いた彼は、真顔のままこう言った。
「足が見たかったそうだ」
「え!?」
サイナスは、ギラが言った意味がすぐに飲み込めず、無意識に尋ね返していた。
「俺の足を見てみたかった、そうぬかしやがったよ、あの人間は」
「足? 足ですか!?」
一ヶ月間、必死に竜を掘り起こすその理由が、足を見たかったなど……。
サイナスは思いもよらない答えに、息を詰まらせた。
だが次の瞬間、笑いがこみ上げてくる。
楽しくて堪らない。そんな馬鹿な理由があるかと大抵の人間は思うだろう。けれどサイナスには、サイナスだからこそ判るのだ。知りたいと思えばどんな苦労も厭わないのは自分も一緒だと。ディアンが“足を見たい”というだけで、竜を掘り起こしていたことに、どこか共通するものを見つけ、サイナスは楽しくて仕方がなかった。
「笑うようなことか?」
「え、ええ、とても。もしかしたら僕もディアンと同じ立場にいたら、同じことをしていたかもしれません。普通の人間にはたぶん判らないと思いますが、僕には判るんです。だから面白いというより、嬉しいんです」
「そういえば、お前は奴と少し似た雰囲気がある。血が繋がっているのだから当然だと思っていたが……」
「本当ですか?」
サイナスは飛び上がるほど喜んだ。ディアン・クロウほど、有名な人物は一族にはいない。それはディアンが残した輝かしい功績以上に、彼の奇妙な言動が彼を奇人として有名にさせたのだ。だからその人物と似ていると言われて喜ぶのもサイナスぐらいだろう。
「ディアンも変な人間だったが、お前も奴と同じぐらい変だな」
ギラは呆れかえった様子でそう言ったが、別に怒っているわけでもなさそうだ。
「で、それからどうなったんですか?」
「俺はさらにもう一つ尋ね、それから俺のことはだれにも話すなと釘を刺した」
「もう一つって……?」
その質問に、ギラはグレーの瞳を曇らせる。きっと尋ねてはいけないことだと悟り、サイナスは慌てて話を逸らした。
「ああ、なるほど、だからディアンは約束を守ってだれにも言わず、書き残すこともせずにいたんですね。あ、それとも……」
「ん?」
「ディアンは自分だけの秘密を、こっそり楽しんでいたのかもしれませんよ。どちらにしても、とても興味深く楽しい話でした」
「俺もディアンのことを思い出したのは久しぶりだ。お前の名前を聞くまでは忘れていたからな」
ギラは再び遠い目をする。その色の薄い瞳で、ディアンの幻想を見ているのだろうか。サイナスはそれを眺めて、まだ残っている疑問をギラに尋ねてみることにした。
「ギラさん、なぜあなたは人間の姿をしてるんですか? ただの化身なんですか?」
グレーの瞳がじろりとサイナスを見据える。そこには再び鋭い光が蘇っていた。