第4話 ノエル①
ノエル・ベイカードはぷりぷりと腹を立て、夕闇に染まる町中を歩いていた。その左手には羊皮紙製の地図が握られている。腹を立てている原因は全てこの地図にあった。
(どうしてこんな時間まで、わたしはここにいるのかしら?)
そう思うとますます怒りが込み上げ、ノエルは羊皮紙を手のひらでグシャリと握り潰した。
ノエルがこの町に足を踏み入れたのは、人気もまばらな早朝だった。
いわくありげな男女が通り過ぎるのを横目で見て、少々どきりとした。男が北の大地を思わせる容姿をしていたせいかもしれない。追っ手なのかとやや警戒したが、ノエルのことなど気にする素振りもなく通り過ぎたふたりに胸を撫で下ろした。
(気のせいか……)
よくよく見れば女の方はやけに色っぽく、とても戦いなどできそうもない。要するに朝帰りのカップルなのだと思い直し、逆にイラッとした。
(朝っぱらから、みっともない)
ここ数ヶ月、戦の準備が進められている自国では、緊迫した状態が続いている。そのせいかこの町の平和すぎる雰囲気が、ノエルの神経を逆撫でした。たぶん丸一日を費やした原因は、それが始まりだったのかもしれない。
目的地である『死竜の谷』についての情報はすぐに手に入った。尋ねた相手が強面のハンター。少女を小馬鹿にしている態度が鼻についた。
その男の話によると、谷には凶悪な魔物が棲みついていて、行った者は二度と帰ってこないという。からかい半分に脅かしてきた相手の鳩尾にナイフを突きつけると、道具屋に森の地図が売っていると優しく教えてくれた。
そんなものがあるなら、手に入れるのも悪くはない。初めはそんな軽い気持ちで道具屋へ向かったのだが……。
「森の地図を下さらないかしら?」
店に入るなり言ったノエルのその要求に、店主は屈強なる体格とは反比例するような、穏やかな笑顔を浮かべてみせた。
「おやおや、ずいぶんと珍しいものを欲しがるんだね、お嬢ちゃん」
この台詞にノエルはカチンときた。
確かに十六歳と言う年齢は“お嬢ちゃん”という表現が正しいかもしれない。しかしノエルにしてみれば今日は暗殺者風の装いだ。黒のボレロ、黒のシャツ、黒のスカート、黒の長靴下、そして黒のブーツの黒一色の姿は、まさに凶服と呼ぶに相応しい。この自慢の長い黒髪も、冷たい印象を醸し出していると自負していた。
にもかかわらず、店主が選んだ代名詞は“お嬢ちゃん”
「お嬢ちゃん……?」
片眉を引きつらせて反応したノエルだったが、あっけらかんとした店主はその気色を感じ取れず、いよいよ神経を逆撫でした。
「この地図は大人用なんだよ。可愛いお嬢ちゃんにはこっちの飴の方がいいぞ」
小馬鹿にされたのだ。そう一瞬で判断したノエルは、もちろん激怒した。別な言葉を使えば“またやってしまった”である。そもそもホルル語の響きはどこか軽々しくて、ノエルは好きにはなれなかった。朝方見たカップルへの苛つきもまだ残っていた。そのせいで、ついつい怒りにまかせて文句を言うと、逆に店主を怒らせてしまった。そうなるとノエルも意地になり、どうしても地図を手に入れなければ気が収まらなくなってしまった。
それからは持久戦のように店に居座り続け、こんな時間になってやっと根負けした主人が売ってくれたのだった。
(お嬢ちゃんだなんて失礼すぎるのよ)
凶服に身を包んだ冷たい暗殺者に飴玉を薦めた筋肉バカ店主を思い出し、ノエルは眉間に皺を寄せる。けれど一部の言葉は満更でもないので、口角が少し上がってしまった。
(可愛いのは間違いないですけどね!)
そんな自己満足を否定するかのように、露出度の高い赤のドレスを着た女が横を通り過ぎる。胸の谷間を見せつけられている気がして、ノエルの機嫌はますます悪くなった。
(あれではまるで牛だから、わたしはあんなに腫れたくないから。それに十六歳にしてはある方だと思うわ)
胸元に視線を落とし、僅かなその膨らみに納得をした。
(そんなことより、早く本物の谷に行かなくちゃ……)
“あいつ”がそこにいる。必ずや仕留めなければと思っている相手だ。
左手にある地図にちらり目を遣る。
「必ず殺して差し上げますから、待ってなさいね!」
思わずそう言ったノエルを見て、前方より歩いてきた老婆が、恐ろしい魔物でも見るような顔つきで立ち止まった。