第2話 ラルフ①
ラルフ・ヴィンターはその酒場の前で立ち止まると、軒にぶら下がっている看板の名前を確認した。
“カスタルド”
間違いない。ギルドの依頼書に記されていた名前がドーラ・カスタルドであることから、ここにその女はいるのだろう。
ラルフがギルドでの依頼を受けたのは今朝のことだった。仕事内容は書いていなかったが、期限が短いことと、そのわりには報酬が良かったことが選んだ理由だ。しかし、説明は全て依頼主がするとだけ依頼書にあり、その内容までは判らない。もしも酒場の用心棒だとしたら面倒だなとラルフは思った。とは言え、これ以外に単独でこなせそうな仕事はなく、底を尽きた懐を早急に潤すには、あまり贅沢を言っている状況ではなかった。
酒場は嫌いではない、むしろ大好きだ。けれど用心棒となると話は別だ。自分は非常に恵まれた容姿をしているとラルフ自身も自覚していた。碧い瞳をした切れ長の両目、通った鼻、そして薄めの唇がバランス良く顔に配置されている。そのせいで昔から嫌になるほど注目を浴びていた。この辺りでは珍しい、銀色に近いアッシュグレーの長髪 ――以前は短く切っていたが、結局目立つことに変わりはなく、最近では伸びるに任せている―― も目立つ要因らしい。
(柄の悪い客が多そうな店だったらイヤだな……)
その気になればそれなりの女は大抵堕ちてくれる。けれど男に反感を買われるらしく、言いがかりを付けられることも少なくはなかった。注目を浴びることが好きではないラルフにとって、それはかなりの苦痛だ。仮面でも付けて暮らしていきたいと思ったこともある。もちろんそれはそれで人目を引くことに変わりはないが。
覚悟を決め、オーク色の厚い扉を開く。中から女の歌声が流れ出てきた。
蒼き髪、蒼き瞳、蒼き愛 この手で誓いを立てましょう
蒼き風、蒼き泉、蒼き空 儚い希望を夢に見て
優しき君よ 永遠のこの時に
命を交差させましょう、いつか終わる未来の為に
まるで叙情詩を詠みあげているような歌が、忘れていた景色を一瞬で呼び覚ます。
冴えわたる浅葱の空、東風に流れる薄い片雲、芽吹いたばかりの若葉の光彩。安らぎに満ちた過去が、痛みとなって胸に蘇る。懐かしさよりも苦しさの方が強いのに、思い出さずにはいられない笑顔が、その中には常にあった。
歌声が消えると同時に拍手の音がして、ラルフはハッと我に返った。
心が流されていたようで、しばし立ち位置が判らない。歌声で過去を彷彿するとは不思議なことだ。きっと乙女の声が、あまりにも透きとおっていたせいかもしれない。
ややあって、ようやくなぜこの店を訪れたのかを思い出した。
忘れたい情念を振り払い、ラルフは視線だけで周囲を見渡した。
さして広くはない店は薄暗い。その一番奥、舞台とも呼べない小さな台に若い女が立っていた。歳は二十前だろう。柔らかなシルエットをした淡いブルーのドレスを身にまとっている。露出した肌は白く輝き、顎から首までのラインには仄かな色気が漂っている。赤みがかったその髪は、細かいウェーブをつけながら腰にまで達し、立ち姿を優艶に魅せていた。
彼女の歌っていた詩は、地方の公用語でもあるホルル語だ。鼻に抜ける鼻音が特徴的な言語で、古代ホスピーナ語が語源らしい。ホルル語の歌を聴いたことがないラルフには、その柔らかな発音のせいか、歌うと言うよりもメロディに乗せて詩を詠んでいるよう感じた。聞くには耳に優しい言語ではある。彼女の歌声に心が落ち着くような響きがあったのも、たぶんそのせいだろう。
大陸の南部をさまよい始めてからもう何年も経ち、ラルフも今はホルル語にもすっかり慣れた。大抵のことは聞き取れるし、歌詞の意味もちゃんと理解できる。しかし話すとなるとまだまだ流暢とは言いがたい。そのせいで少々ぶっきらぼうな物言いになることは自覚しているし、依頼主と愛想良く話せるかという懸念がある。
(とはいえ、愛想笑いなんてできないけどな……)
二曲目を女が歌い終わると、十人ほどいる客が再び拍手をした。客の質は悪くない。もっともあの厳かな歌声の前では、荒ぶれた雰囲気など作れないだけなのかもしれない。
幾つかのランプに灯が点され、途端に店内は別世界のように明るくなった。客の話し声が徐々に大きくなっていく。
ラルフはもう一度、視野が良くなった店内を眺め、そうであろうと予想を付けつつ、そばに来たウェーターらしき男に確認をすることにした。
「ドーラはあの歌姫だよ」
案の定、その答え。顎を使って女を指した店員に礼を言い、ラルフはカウンターで一息ついている女の方へと歩み寄る。注目を浴びていると言うことは、視線の端に映る客の表情で薄ら感じていた。
「ドーラ・カスタルドさん?」
彼女は軽く頷いてから、首を傾げることでラルフの正体を尋ねることに成功した。
「俺はラルフ・ヴィンター。ギルドで依頼書を見た者だ」
「あら、早いわね。でも良かった」
彼女のふっくらとした唇が控え目な笑みを作った。
「依頼というのは?」
「ここで話すのもなんなので、奥に来て下さる?」
言いながら、ドーラはカウンター横の扉を指で示した。
店の奥の控え部屋に通されたラルフは、改めてドーラを眺めた。
ハシバミ色の大きな瞳をした女性だ。花弁を思わせる豊かな髪は、彼女に華やかな印象を与えていた。大人びた雰囲気はおそらく口元のホクロが醸しだすものだろう。淡いランプの光を浴びて、金のペンダントが彼女の胸でキラリと輝いた。
この店は彼女のものかと尋ねると、ドーラは笑って「叔父のものよ」と教えてくれた。五年前に両親が他界したあと、彼女は叔父に引き取られたという。手伝いにと思って歌ってみたら評判が良くて、それからずっと歌っているとのことだった。
「早速だけど、仕事の話。『人探し』なの。簡単な仕事よ」
そう言いつつ、彼女の目が少し泳いだのをラルフは見逃さなかった。
「探す人間と、探す場所にもよる」
「ええっと、場所は森の一番奥にある『死竜の谷』。死んだ竜の遺骸があるらしいんだけど。そこに行って、サイナスって男を探して欲しいの。茶色い髪に薄い眼鏡をかけている人。歳はあなたと同じぐらいか、もっと下かもしれない。十八,九ってとこね。西南地方の出身だって聞いたわ。服装は薄茶のシャツに同色のハーフジャケット、それと……」
「ちょっと待て」
ラルフはドーラの言葉を遮った。彼女の言い方に引っかかるものがある。少なくても親しい間柄というわけではなさそうな予感がした。
「その男は、君の知り合いじゃないのか?」
「知り合いだけど一度しか会ったことがないし、話をしたのも一時間ほどだから詳しいことは判らないの」
「その程度の知り合いに金を出すわけか。つまりその男は君の仇か?」
「違うわ、それは絶対にない。ただ彼に用があるだけ、本当よ」
ドーラは強い口調で言った。それから困ったように唇を少し寄せて、
「なんて説明すればいいのかしら。たぶん説明しても納得しないと思うから、あえて言わないわよ。それにそれを知らなくても探せるでしょ? 彼は四日前にこの街に来て、次の日に谷に行ったらしいの」
どうも最初に思っていたことよりは、厄介な仕事になりそうだ。
「ではその男を捜して、ここに連れ戻せばいいんだな?」
「違うの。私と一緒にその人を捜して欲しいってことよ。どうしても会いたいから」
真剣な表情でドーラがそう言った瞬間、ラルフはある人物を思い浮かべていた。
どうしても会いたいという気持ちは理解できなくもない。
むしろその人物と別れて以来、心のどこかで会いたいと願っていたラルフには判りすぎるぐらい判ってしまう。
『お前と遊んでいる時が一番楽しいよ』
そう言って髪を撫でてくれた彼は、もうこの世の人ではないだろうけれど……。
そんな思い出を振り払い、まじまじとこちらを見るドーラを見返した。
「君が一緒に行く理由はなんだ?」
「それはつまり、その谷に行った人間は、ひとりも帰ってきたことがないって。あくまでも噂よ」
それを聞いて、ラルフは少々不快な気分になった。
「なるほど、簡単そうな仕事だ。で、俺も帰ってこないと思ったわけか?」
「そういうことではなくて、可能性を考えてただけ。それに、さっきも言った通り半刻しか話していないから、彼は私のことなど覚えてないかもしれない。彼、谷の調査が終わったら、雪で道が閉ざされる前に“冬蛍の森”に早く行きたいって言っていたの。だからあなたに会えたとして、一緒に戻ってきてくれないかもしれないでしょ?」
「へぇ、冬蛍の森ね……」
それは北の大地にある針葉樹の森。
一瞬にして故郷にあるその森が脳裏に浮かんでくる。それに同調するように、付けているブレスレットが左手首を締めつけたような気がした。
どうも今日は、奥の方に仕舞っている記憶が吹き出してきてしまう。最近では思い出すことも減ってきていたというのに……。
ラルフは強引に奥底へと記憶を沈め、妙な沈黙を咳払いで誤魔化した。
「要するに、君がその男と会える状況を作ればいいんだな?」
「引き受けてくれるの?」
「そうだな……」
ラルフはしばし考えた。
面倒な依頼である。とても簡単そうには思えない。依頼主同伴も納得がいかない。
断ってしまおうか?
その決断が出来ないまま、ラルフは流されるように女に再び問いかけた。
「君を守るというのは、報酬額に含まれているとは思えないが?」
「それなら倍にしてもいいわ」
「倍? 三倍だな」
駄目と言われればこの仕事に執着する気は更々なかった。急いで別の町に行き、別の仕事を探すのみ。浮き草稼業とはそんなものだと思い、ラルフは考え込むドーラをジッと見据えた。
相手が断ってくれるのなら面倒はない。そうしてくれないだろうかと黙って待っていると、彼女は肩をすくめて「いいわ」と返事をした。
「そうか、なら引き受けよう。だがもう一つだけ尋ねたいことがある」
「何?」
「君がもし死んだら、俺への報酬は?」
「もちろんないわ。じゃあ、出発は明日の朝でいいわね?」
穏やかに微笑んだ赤毛の女を、ラルフは目を細めて見返した。