第19話 サイナス⑨
「彼、大丈夫かしら……」
ラルフが去ってしばらく経った頃、不安げにドーラが呟いた。その手には小さなランプが握られている。蛍のように光っていた男が立ち去ったせいで洞窟内は真っ暗となり、彼女が慌てて持っていたそれに火を点けたのだ。
ランプの炎は、美しい女性の顔を赤く照らし、緩やかなウェーブのある長い赤毛と相まって、彼女を妖艶に魅せていた。
サイナスは先ほどからずっと、どうして彼女が追ってきてくれたのか、もう一度ちゃんと聞きたくてウズウズしていた。それなのにいざそれを口にしようとすると、言葉が上手く出てこない。ふくよかな胸にもつい目がいってしまう。サイナスにとっては、竜のことをギラに尋ねるよりも、気後れがしてしまう難しい質問だった。
「あ、あの人、強そうですよね……?」
毎度のことながら声が上擦っている。酒場で話した時は他に客がいたせいなのか、これほどまで緊張はしなかった。それなのに今はふたりでいることで、どこかソワソワしたような、落ち着かないようなそんな気分だ。
「本人は強くないって言ってたわ」
「あ、そうなんですか……」
その言い方に心が萎んでいく。たぶんふたりの近さを感じてしまったからだろう。
(そうだよなぁ、あの人、凄く格好いいし……)
ラルフのような容姿なら、どんな女性とも仲良くなれそうだ。それに、少なくても自分よりは強いだろう。
そう思うと寂しい気分にもなったりした。
「どうかしたの?」
なぜかドーラは心配そうに眉を寄せ、サイナスの顔を覗き込む。そんな表情をされて、サイナスはいっそう消え入りたい気分になっていった。
「ええと、なんでもありません、お気になさらずに。それよりも、まさかドーラさんがこの竜と関係のある人とは思わなかったので、驚きました」
「私も驚いてるわ、もしあなたの言うことが本当ならだけど……」
「そうですよね、なんか突拍子もない話ですし、信じられないのも判ります。僕も半信半疑な気持ちはありますから。あ、でも自信がないってわけじゃないんですよ。結論はあれしかないですし。そのペンダントもその証拠だって思います」
「だったら、私、呼ばれたのかしら?」
「呼ばれた? だれに?」
自分が呼んだという意味かと思い、サイナスは目を見開いて彼女を見た。そんな彼を見返して、ドーラが笑ってみせる。
「竜に」
「ああ、そういう意味ですか」
「どういう意味だと思ったの?」
黄色味がかった薄茶色の大きな瞳に見つめられ、心臓が大きく鳴る。女性とふたりきりで話をすることなど滅多にないので、いよいよサイナスの気持ちは高ぶっていた。
「いえ、別にどういう意味ということも考えてはなかったのですが……」
「死んだ父がね、このペンダントの謎が解けたら、父と私が背負った宿命みたいなものが判るんじゃないかって言っていたの」
「ドーラさんに宿命? そんな、まさか……」
ありふれた酒場の歌姫でしかない彼女に、宿命などという重たいものがあるとは、サイナスにはとても考えられなかった。
「あるのよ、それが。今は言いたくはないけれど。あ、でもね、あなたといるとちょっと軽くなるの。それが嬉しいわ」
それはどういう意味かと尋ねようとして、サイナスが口を開くと同時に、凄まじい轟音が洞窟の奥から響いてきた。
足元が激しく揺れる。空気が奥の方から流れてきた。
「な、なに!?」
「何かあったみたいですね」
「様子を見に行ってみる?」
歩き出したドーラの腕を、サイナスは咄嗟につかみ、それから慌てて放す。
「あ、す、すみません。でも、ほら、僕たちが行っても、今はあまり役に立たないというか、逆に邪魔しちゃうというか……」
しどろもどろになる僕は駄目だなぁと改めて思う。こういう場合、もっとさりげなくできないものだろうか。
「そうね、今は待つしかないわね」
優しく同意してくれたドーラの言葉にも、サイナスはなぜか傷ついていた。
それからどれくらい待っただろうか。奥では凄いことが起きているのではという不安はあるが、武力も魔力もないサイナスには何かを感じることなどできるわけもない。
ドーラは感じているだろうか。その横顔をちらり見ると、彼女はサイナスのいることを忘れたかのように奥ばかり気にしていた。
(やっぱりラルフさんが心配なんだろうな)
少し諦めにも似た気持ちで、そんなドーラの姿を見守った。
それにサイナス自身、ギラのことが心配なのは確かだ。丸一日とはいえ、一緒に過ごした時間は決して薄くはない。彼がこの場所から解放され、本当の人間として冒険の旅に出られる日が来るのを願わずにはいられなかった。その為にも今できることをする、それだけだと心に誓い、ギラがいるだろう方向を睨んでいると――。
「だれかが来るわ」
唐突にドーラが言った。その両眼は確かに何かを捉えている気配がある。まるで特殊な能力でもあるかのようだ。彼女の視線を追い、サイナスは訝しげな気持ちで奥を見やると、黒髪の男が闇の中から姿を現した。
「ギラさん!!」
思わず叫び、体が自然に前に出た。この懐きぶりは、まるで犬みたいだなと自分でも自覚していた。きっと尻尾があったらなら、千切れんばかりに振っているだろう。
「ギラさん、奥は……」
「話があるって聞いた。早く話せ」
断ち切るように遮って、ギラは慌てたような口調で言った。
「あ、はい、えっと、あのですね、竜を目覚めさせる方法が判ったんです」
「本当か!?」
「間違いないと思います。もしも今、竜が目覚めたら戦況が変わってきませんか?」
ギラは肩越しに首を巡らし、背後を気遣う素振りを見せる。
「……そうだな」
「それなら、彼女がこれから言う詩を古代語、つまりホスピーナ語に訳して、彼女が歌えるように教えてあげて下さい」
「歌?」
「ええ、歌なんです。彼女の家系は竜の……」
言いかけたところを、さっと片手を上げたギラに再び遮られてしまった。
「お前の話は長くなる。俺はその詩の言葉を変えて教えればいいんだな?」
「ええ、そうです」
サイナスは大きく頷き、それからドーラの方を向いた。彼女はギラを呆然と眺めている。どうやら話をあまり聞いていなかった様子だ。
「ドーラさん?」
そう声をかけると、彼女はハッと我に返った顔をした。
「あ、ごめんなさい。ちょっとボーッとして」
「どうかしたんですか?」
「彼の波動、人間のとは違うわ……」
「波動?」
サイナスが問い直すと、ドーラは小さく首を横に振った。
「なんでもないの。えっと、あの子守歌を言えばいいのよね?」
「後半だけでいいと思いますよ」
「判ったわ」
ドーラは軽く頷いてから、スッと息を吸い込み、呼吸を整える。まさか歌い出すのかと思っていたサイナスだが、さすがに彼女もそれはしなかった。しかし彼女の美しい声で暗唱された詩は、たとえ旋律に乗せられてなくとも、穏やかな流れがある。その言葉ひとつひとつを、ギラは遠くを見るような瞳で静かに聞き入っていた。