第18話 ラルフ⑤
ゆっくりと天井まで浮上したラルフは、前方に穴らしきものがあることに気がついた。そこから僅かな光が漏れている。足元を気にして着地し、自らの光を頼りに穴のそばまで近づいていった。
サイナスには“蛍”と言ったが、“ランプ”と言えば良かったかもしれない。蛍という単語を使ってしまったが為に、博学な男に妙なことを連想させてしまったと少し後悔がある。
(“見たことがあるでしょうね”だって? 白々しく探りを入れやがって)
それでもサイナスの言葉は、ラルフの心に深く突き刺さっていた。
(自分を捨ててまで生きようとは思わない、か)
全てを捨てて生きてきたラルフにとっては、責められているような言葉だった。
本当は逃げたくはなかったし、戦いたくもない。けれどあのふたりを置いていけるほど非道にも徹せない。こんな中途半端な気持ちのままでは、罪悪感だけが大きくなるのは目に見えていた。
もう二度と逃げたくはない。
もしも彼らを救えたのなら、父母を、そして兄を見捨てたのではと思うこの罪悪感が消えるのだろうか。目の前にある帝国の陰を払えば、そう思えるようになるのだろうか。
行くしか道はないとラルフは自らに訴えた。結局兄を助けられなかったという思いを拭えないのだから、逃げ場はもうどこにも存在しない。沈みかけている自分を唯一助けてくれるロープのごとく、何かにすがりつくしかないのだ。
先ほどまで続いていた破壊音は鳴り止んでいる。
ラルフは恐る恐る顔を出した。危険は去ったのだと楽天的に思う根拠は全くなかった。
冷やっとした僅かな風に顔を撫でられる。かなり広い空間だということを漠然と肌で感じた。下を覗くと、薄闇の底には無数の黄色い光が揺らめいている。炎とも違うその揺らめきのおかげで、洞窟内が薄ぼんやりと見えていた。
無数に散らばっている光は、中央だけがぽっかりと空いている。目を凝らすと、微かな輪郭が浮かんで見えた。
角らしきもの、翼らしきもの、尾らしきもの。
(あれは……竜か……)
結論としてはそうなるだろう。古い時代には竜が空を飛んでいたと、話には聞いたことはある。だとしても、ラルフはそれほど興味をそそられなかった。
竜から目を離し、ギラという人物を探すことにした。
人の気配がないかと五感を尖らせる。洞窟内は薄気味の悪い静けさで、竜ですらまるで巨大な岩のようだ。しかし少し神経を集中すれば、恒星が過敏に微かな気配を察してくれた。水が滴っている音と岩が擦れるような音が聞こえてくる。きっと石がなければ判らないほどの微かなものだ。それに混じって嫌な気配もあり、ピリピリと額を刺激した。
(降りて探すか……)
そう思い、ラルフはゆっくりと身を乗り出した次の瞬間――。
耳をつんざく爆発音が響き渡った。鼓膜に突き刺されたような痛みが走る。直後、洞窟が揺れるほどの激しい振動に足元をすくわれ、左肩を岩壁に打ちつけていた。
次々と固いものが岩盤にぶつかる轟音が、耳鳴りと共鳴している。爆発とともに飛散したのか、小石が目の縁に当たり、ラルフは慌てて左腕で顔を覆った。
瞬時にして目、耳、そして肩にダメージを負った。けれど、そんな外的痛みより、ラルフがもっと苦痛を感じるのは額の恒星だ。
何かに反応を示しているらしく、まるで氷のようになっている。魔力を伴うものに接すると必ずこんなふうになり、相手の力が強ければ強いほど熱を奪い取られる。
「くそっ、だから嫌なんだ、このクソ石」
苛つきを抑え、ラルフは粉塵で目路が悪くなった下界を、再び見下ろした。
この強い反応はあの化け物が近くにいる証拠。その姿を探そうとラルフはあちこち視線を走らせる。すると、人影のようなものが奥から手前へと移動したのが、目端に映った。
およそ人間離れしたその速度は、視野に入れるのもやっとだ。しかも地を駆けているだけではなく、まるで球のように四方の壁で跳ね返る。
あの“化け物”なのだろうか?
違和感を覚え、ラルフは必死にその姿を見極めようと目で追い続けた。
何度目か壁を跳ねた後、人影は竜の背中で静止する。男のようだが身にまとっているものはローブではない。
ギラという人物かもしれない。そう思って見守っていると、男が突き出した片手に炎のようなものが現れた。大きさは拳ぐらいだろうか。
なんの溜めもなく男の手から打ち出されたその赤い炎は、火矢のごとく闇を燃やす。同時に、おぞましい瘴気が急速に洞窟内に溢れた。
さらに男が二度三度と炎を放つ。そのたびに“燃え上がっては吹き消される”を繰り返していた。
「どうするかなぁ。俺が行っても邪魔なんだろうけど……」
躊躇いの言葉が口をついた。しかも心のどこかで言い訳を探している。焼け石に水だし足手まといだと、行かなくてもいい理由を考えるいつもの自分が現れようとした。
「もう逃げないんだろ?」
小さく息を吐き、ラルフは剣を構えて薄闇へと飛び降りた。
決して早くはない落下速度。しかも青い光が闇に広がっている。敵も気づいたはずだと焦っていると案の定、強い気配を石が察した。
絶対に避けられない。
そう思うと同時にラルフは額に意識を集中し、シールドの防御力を限界まで強めた。
足が地につく直前、左前方から帯状の黒い瘴煙が上下に波打ち迫ってくる。目の前で一度動きを止めたそれは、蛇のように鎌首を上げ、次の瞬間、鞭のような柔靱さでラルフへと襲いかかってきた。
シールドがそれを食い止める。おかげで攻撃そのものは免れたが、横殴りに吹き飛ばされ、どこかに右肩を強打した。
「う……」
意識が瞬間吹っ飛んだ。
たぶん数秒は気を失っていただろう。何かの光を感じて目を開けると、前に例の魔法光が一つ転がっていた。
同時にあの黒い鞭が視界に入る。反射的に飛び起きると、傍らの岩壁が激しい音とともに破壊された。
魔法の鞭なのに物理的な攻撃力があるらしい。そこにラルフは希望を見出した。
(まさか剣でいけるのか?)
魔法シールドが効いていることは判っていたが、避けてばかりでは埒が明かない。だから糸口を見つけた気がして、握っていた剣を突き出してみた。
鞭の先端に切っ先が触れる。
なんの手応えもない。
やはり靄のごとく実態はなかった。脆くも砕け散った希望を残念がる隙も与えてもらえず、引き戻された鞭が再び襲ってくる。その攻撃を素早く見切ると、岩が飛び散り、地面には穴が空いていた。
鞭は立て続けに攻撃を仕掛けてくる。その凄まじい連打を避けきれず、何度かシールドごと吹き飛ばされた。昼間とは明らかに攻撃方法が変わっている。シールドの防御は全く意味がない上に、反撃する余裕も手段もない。
せめて本体がどこにあるかだけでも判ればと、奥の方を見やる。ラルフのいる場所は竜の頭部方向だが、瘴煙の鞭は竜の左側後方から伸びているようだ。
(避けながら辿り着けるか? せめて援護があれば……)
そう考えて、ふと例の男のことを思い出した。
身を翻し攻撃を避けつつ、ラルフは竜の上へさっと視線を走らせる。男が竜尾近くまで移動しているのが見えた。状況はほとんど変わっていない。
(あっちも苦戦中か……って、おっと……)
気配を感じて、振り仰ぐ。
果たしてそこには、二本目の鞭が現れていた。
(いきなり増殖させるなよ)
対処を考える隙もなく、最初の一本に右からの攻撃を受ける。慌てて飛び退くと、それは左へと流れていった。
間髪を入れずに左上からもう一本。見切って下がると、背中が壁に張りついた。
完全にいたぶられている。相手が本気ではないと判るのは、感じる瘴気の強さほど攻撃力がないからだ。だがこのままではジワジワと体力を奪われていく。しかも何度も転がったせいで、体のあちこちが悲鳴を上げている。
瘴煙の動きがにわかに変わった。二本のそれは、まるで両手を広げるように先端が平たく広がっていく。シールドを黒い靄が覆っていくその動きは、まさに球を握ろうとしている手のひらのようだ。
(ヤバい)
一瞬で判断し、ラルフは素早く剣を逆手に持ち替え、両腕を顔の前で交差させる。光の防御壁を厚くするイメージを脳裏に浮かべ、全身に散った冷気を額の一点に集中させた。
シールドから放たれる青い光が強くなる。
やがて完全に周囲が覆われた時、ラルフ自身からも青い光が放出し始め、揺らめきながらシールド内に満ちていった。
凍てつくほどの冷気が全身に感じる。握っている剣ですら青く光っている。
(なんだ……これは……)
かつてない反応に戸惑いを隠せない。石の力に支配され、体が鋭利な刃物にでもなったような感覚、むしろ魔物にでも変化していくようだ。
だが不思議なことに恐怖は感じなかった。以前なら、石を使うたびに心と体が分裂する感覚に耐えがたかったが、今は力を欲している自分がいる。
シールドを押し潰そうとしている黒い煙に抵抗し、防御力をいっそう強めた。不思議なことに操れているという感覚はある。今まで出たとこ勝負で使用していた石をなぜ使えるのか、この際どうでも良い。
そうしてしばらく抵抗を続けていたが、二進も三進も行かなくなっていた。身動きが取れないまま力を使い続ければ、いつかは限界がやってくる。
(どうするか……)
反撃する手段はあるのかと必死に考えていると、青く光る剣が答えをくれた。
逆手に持っていた剣の柄を順手に持ち替え、きつく握り直す。腰を落とし、同時にシールドを素早く消すと、瘴煙が瞬間で襲いかかってくる。それを青く輝く剣先で弧を描くようにして切り裂いた。
覆っていた靄に一筋の切れ目ができる。
刹那の静止。
本体から切り離された部分が、闇に溶けるかのように粒子となって散っていく。それを潜って再び本体が伸びてきたが、ラルフは慌てることなく剣を振った。
数十回もそんなことが続いた。諦めの悪さにラルフがイライラとしてきた頃、唐突に黒い靄はするすると竜の後方へと引いていった。
安堵のため息を無理やり胸に押し込める。気を抜けば脱力感で倒れそうだ。まだ始まったばかりだというのに、未だ強く放たれている光が徐々に体力を奪っている。
(ああ、そういえば……)
その時になってやっと、ここにいる最大の目的はギラを呼びに来たのだと思い出した。
(竜を起こすんだったな)
完全に忘れていた。ラルフにしてみれば岩のような竜が起きるとは思えなかったが、約束は約束だ。
ギラという男がどうなったのだろうか。そう思いつつ視線を竜の上へと転ずれば、男の姿がぼんやりと見えてきた。男の手からは赤い炎が未だに放たれている。攻防は続いているようだ。
(合流するか)
それがたぶん最善策。
両膝を曲げていつものように軽く飛び上がったラルフは、いつにない速度で上昇し始めた自分に驚愕した。
(なんだよ、これ?)
そういえばシールドを張っていない。空中を上下するには、シールドを張らなければできないはずなのだが……。
信じられないほど軽々と、体が竜の背中辺りまで浮上する。まさか石に乗っ取られ、魔物にでもなってしまったのだろうかとやや焦りを覚え、それでも体勢を変えてギラの後ろへと着地した。
途端、半身だけ体を斜めにして振り返った男の、鋭い視線が突き刺さる。内心の焦りを必死に押し隠し、平然とした顔でラルフは男を睨み返した。
疑心を抱いた方がいいのかと、互いに無言の審判をもって寸刻だけ探り合う。
だがそんな無意味なことに時間を費やしている場合でもない。だから敵ではないと知っているラルフが先に折れることにした。
「味方だと言った方がいいか?」
つまらないプライドが無愛想を装う。愛想笑いなど、負けを認めたようで嫌だった。
「お前が下で苦戦していたのは見えた」
そんなプライドをあざ笑うかのように、男は鼻をフンと鳴らした。
「あんたほどじゃない。ほら、来たぜ」
ラルフの警告に、男は両手に作った炎を素早く発射させる。迫ってきた黒煙は、まるで布が燃えるかのように、魔法の炎に焼かれていく。だが少しすると炎は瘴煙の力に負けて掻き消された。再度伸びてきた瘴煙を前に出たラルフが剣で切り裂くと、ギラがその切れ端に炎を浴びせる。そんな連携攻撃に圧され、瘴魔はふたりから離れていった。
「さっきの爆発音、あれはあんたの仕業か?」
離れた敵から目を逸らさずにラルフがそう言うと、
「やったのは妙なガキだ。谷側の入口の壁を壊しまくった」
「壁を?」
「迷路になっているから、迷いたくなかったんだろ。ここに来るのに一直線だ」
“ほら”というように男が顎で示した先には、岸壁に大きな穴が開いている。最後の爆発は、あれを開けた時のものだろう。瘴気の靄はその穴から伸びているようだ。
「で?」
促すようにギラがそう言った。その声に答えてラルフは振り返り、相手の顔を見据えると、「あんたはギラか?」と今更と思いつつも尋ねてみた。
訝しげな面持ちで真正面からラルフを見返したギラだったが、返事をする代わりに手のひらに炎を作る。攻撃されるのかと身構える間もなく、炎はラルフの右を過ぎていった。
振り返ると、戻ってきた瘴煙に火が燃え移るところだ。すかさずラルフが剣で切り裂き、ギラが炎を浴びせ、先ほどと同じ要領で敵を退散させた。
「まだ来るのか」
「だが敵もそろそろ飽きてくる頃だ。ガキの遊び相手は終了だな」
「勝てる自信は?」
「ない。俺独りでは遊ばれるのが精一杯だ、俺独りならばの話が……」
意味深に言葉を切ったギラは、再来した黒い瘴煙に炎を放つ。今度はラルフの出番はなく、敵はあっさりと引いていった。
「悪いが、俺はたいして戦えないぜ?」
ラルフは正直に告白した。
見栄を張っても仕方がないし、変に期待されても自分の首を絞めるだけだ。
すると、唸るような声ですかさず反応された。
「その石を使える人間なんだろ?」
今度はラルフが驚く番だ。
「この石のことを知っているのか!?」
顧みて、相手の顔をまじまじと見据える。
人間離れしたこの男が同郷ではないことはすぐに判った。えらが少し張っている。日に焼けたにしても色が黒すぎる。フィリア人は概して顔の線が細く、肌が白い。グレーの瞳など見たこともなかった。
フィリア人ではないこの男が、なぜ石のことを知っているのか。
そんな疑問が顔に出たのか、ギラはフッと破顔した。
「知らないで使っているとは凄いな」
「使っていると言うよりも、使われている」
「まあ、そうだろう」
「それはどういう……」
ラルフが言いかけたところで、ギラがまた手のひらに炎を作り始めた。剣を構えて背後を見ると瘴煙が近くまで迫っていた。
「残念だが説明している時間はない」
言いながらギラが炎を放つ。それはラルフの横を過ぎ、瘴気に直撃した。
「らしいな」
そう返事をして、ラルフは剣を振り抜き、燃やされた黒い煙を切り裂いた。
「わざわざそれを聞きに来たわけではないだろな?」
「おっと、忘れていた。サイナスという男があんたを呼んでいるぜ」
「あの眼鏡が? なんの為に?」
「残念だが、説明している時間はないな」
ギラの口まねをしたわけではない。
ふたりで散々いたぶっていた瘴気の靄が、シュルシュルと音を立てるように、崩れた穴へと引き戻されていく様子を見てラルフは直感した。
逃げたのではなく、攻撃が本格化する前触れだと。
ギラも同様に感じたようだ。
「なるほど、お遊びはここまでってことか」
「で、戻るのか? あの男は形勢逆転の作戦を考えたようだが……」
「俺は竜を護らなければならない」
「なぜ?」
人間離れした能力を持つ男が、人間臭くニヤリと笑った。
「宿命ってやつだな。だが俺は逃げるつもりはない。宿命を受け入れる、それだけだ」
「宿命を受け入れる……」
おうむ返しにラルフは呟いた。
今日はずっと“宿命”という言葉に付きまとわれている。そのせいなのか、だれかに責められているようで落ち着かない気分になった。
それを知ってか知らでか、黒い髪の男は鋭い眼光をラルフへと投げかけてきた。
「運命には逆らえないんだよ」
ようやく一歩踏み出そうとした決意したその出鼻をくじかれた気がして、ラルフはなぜかイラッとした。
「だったら、俺がこの竜を護っていればいいんだろ?」
「へぇ、できるのか?」
「戻ってくる時間にもよる。朝までは保たない」
新たな攻撃を警戒し、穴から目を離さずにラルフは口早に言った。
「ならばその石を信用しよう。だが竜に何かあったら、お前を殺す」
「来たぞ!」
まるで波が襲いかかってくるように、崩れた穴から黒い靄がいっきに噴き出してきた。
「シールドを張るからここから離れろ、早く!」
ギラはチッと吐き捨てた後、体を屈めて、勢いよく飛び上がった。
「その石にはな、“青き狼魔”が眠っている」
頭上から降ってきたその言葉の意味を考える余裕もなく、ラルフは神経を集中させる。
(よし、やれる!)
体から漲る冷気を信じ、自分にそう言い聞かせた。
頭上にいるギラをチラリと見やる。彼が強力な術者である以上、少しでもシールドに触れれば、彼もまた弾いてしまう可能性があった。
ギラが天井にある垂れ下がる岩 ――もしくは鍾乳石に取りついたのを見た瞬間、ラルフはシールドの膜を脳裏に思い浮かべた。
瞬く間にイメージが具象化し、ラルフを中心に青い光が球状に現れる。だが今回は自分だけを護るわけにはいかなかった。
意識を集中させ、頭の中で膜が広がるイメージを思い描く。その思考にシールドが即座に反応した。おぞましい瘴気を撒き散らし、ラルフとともに竜を飲み込もうとしている巨大な波を、大きく広がった青いシールドが押し退けた。
頭上から再び声がする。
「そのまま待ってろ、すぐに戻る」
「偉そうだな、奴は」
少々気に入らない相手だが、今は彼が戻ってくるまで耐えるしかない。先ほどのようにシールドを消して、剣で立ち向かうのは危うすぎる。竜を護ると約束した以上、防御に徹するしかないだろう。ただし、敵が今までのように手を抜いていてくれるかが問題だ。
そんなことを思いながら、ラルフはシールドを覆った黒い瘴煙を睨みつけていた。