第15話 サイナス⑦
「……ってこないか?」
壁際に座ってくつろいでいたギラが何か言ったようだ。その声に、サイナスはぼんやりと彼の方へ顔を向ける。ずっと岩と石に意識を集中していた為か、ギラが言ったことが聞こえなかった。
「ええと……?」
「ったく」
武骨な男が苛ついた口調で吐き捨てた。
「すみません、ちょっと集中していて……」
「腹が減ってこないかと聞いたんだ」
「ああ、そうでしたか。そういえば、少しお腹が空いてきている気がします」
サイナスが明るく切り返すと、ギラは不機嫌な形相のまま立ち上がった。
「人間は不便すぎる。こんなに腹の心配ばかりしては、何もできないのは当たり前だ」
「ちなみに龍の食べ物ってなんですか?」
「人間だな……」
言葉に詰まり、サイナスが無言でギラを見つめていると、
「冗談に決まってるだろ。いや、冗談でもないか。人喰いの連中もいるからな。俺らは果物をよく食べていた。一度食べれば、一月以上は何も口にしなくても平気だったな」
「へぇ」
答えてから、真顔で冗談だと言ったギラが面白く、サイナスはクスッと笑っていた。
「笑うようなことか?」
「いえ……。あ、それよりギラさん。ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが?」
「なんだ?」
「ギラさんは暇つぶしに僕を生かしていると、最初に会った時に言っていましたが、それってつまり、いつかは殺すってことなんですよね? それなのに、どうして僕に食べ物を持ってきてくれるんですか?」
「命乞いか?」
「どうせ殺すおつもりなら、ギラさん独りで食べても良いんですよ、って言いたかったんです。あ、でももし殺す気がないなら、お腹が空くのは嫌かな」
「やっぱり命乞いか」
ギラはチッと舌打ちをした。
「そうですね、そうかもしれないです」
出会った時のように、ギラが殺戮者然としていたのなら諦めもつく。けれど、今はギラに少し好意を抱いていて、一緒にいることが楽しいとも感じている。そんな彼に殺されるのはやっぱり寂しいなぁとサイナスは思っていた。
「まあいい。とにかく食べ物を……」
憤然としたまま、ギラは崖の方へと歩いていった。彼はいつもここから飛び降りて狩りに行く。サイナスはそんな彼を慌てて呼び止めた。
「その前に、あの岩を動かしてくれませんか?」
指した先には、体半分もあろうかという岩があった。左壁から固まりのまま落ちたようで、その分だけ壁には窪みができていた。
「帰ってきてからでいいだろ?」
「今お願いします」
ギラは片眉を上げてサイナスを見返した。
「俺は別に焦っちゃいない」
「そうですけど……」
「それに、しばらくお前とここにいるのも悪くはない」
無表情に言ったギラの横顔に、どことなく寂しさを感じ取った。
ギラは仲間が消えてしまった現実に、強い憤りを感じて生きている。人間を強く恨んでいるとそう言った。それなのに、親や仲間の為に犠牲になり、その嫌いな人間の姿に身をやつした。
できればギラには、人間を恨み生きていて欲しくない。人間に変化したことに、少しでも希望と喜びを見出してもらえるのなら、サイナスはできる限りのことをしてあげようと心に誓った。
「ねぇ、ギラさん。竜がもし目覚めたら、あなたはどうされるつもりですか? ずっとここに留まっているつもりですか?」
「そんなことは考えたこともないな」
「だったら一度、人間として旅をしませんか?」
「旅はしたぜ」
興味がないという態度で、ギラはぶっきらぼうに答えた。
「でもそれは、竜を目覚めさせる方法を見つける為だったんですよね? そうじゃなくて、あなた自身の為に、旅をしませんか?」
「俺自身の為?」
「可能なら僕もご一緒させてもらえると嬉しいですね」
そんなことが実現したら、本当に楽しいだろう。
ギラは強いから、独りでは行けなかったところにも行けるだろう。彼自身が生き字引みたいなものだから、もしかしたら本にも載っていないことを教えてくれるかもしれない。きっと今まで以上にワクワクする冒険になるだろうと想像し、サイナスはギラの返事を待っていた。
「そういえばディアンも冒険の話をしていたな。確かブンブン・ダンダンとか……」
「ああ、『ブンブ・ダーダ物語』ですね。冒険者の古い物語です。僕もあれは好きですよ。子供の頃、よく読みました」
「冒険ねぇ……」
呟いたギラは一瞬その灰色の瞳を輝かせたが、たちまち暗い顔で首を横に振った。
「無理だ、俺はここを離れることはできない」
「もしあの竜が目覚めたら、道が拓けるような気がしませんか?」
「もし目覚めたとしても、俺には竜を護らなければならない役目がある」
だがサイナスはほんの少しだけ可能性を感じていた。
(竜が目覚めれば、きっと……)
その為にも早く、竜を目覚めさせる手がかりを見つけなければならないのだ。
「とにかく、あの岩だけは動かして下さい」
不服そうな顔をして、ギラは岩の方へと歩み寄っていった。
岩を移動させたあと、ギラは躊躇いもせずに崖を飛び降り行ってしまった。
サイナスは、まだ翼があるみたいだなと複雑な気持ちで彼を目で追い、森の中に消えていったのを見送ってから、再び作業に戻った。
壁から崩れ落ちた岩は、長い間その場所にあったようだ。取り除いた下に湿った土があり、ねぐらを失った虫たちが慌てて逃げている。
サイナスはそんな虫を潰さないようにして、小さな破片を一つ手に取った。
「あれ、これって……」
彼が手にしていたのは、平たい石の欠片。辺りにある石とは全く違う、白っぽい色をしている。光にさらすと、何かが刻まれている痕があった。
(なんか石版みたいだ。これは、文字かな?)
サイナスは小さな欠片を陽光の届くところまで持って行くと、もう一度その刻まれた何かをじっくりと観察した。
(これは古代文字だ……)
間違いない。細い線で削られたそれは、古代文字の一つだ。
古代文字と言っても千年ほど前まで使われていた言語である。
その昔、この大陸にはホスピーナとガイアという二つの国があった。大陸の南側にあったホスピーナは竜の国と呼ばれ、この地方もその一部である。
(他にあるかな)
よくよく見れば、岩の破片に石版らしき白い石が紛れている。そのほとんどに古代文字は刻まれていた。
(こんなところに残っている文字は、絶対に竜と関係してるはず)
まるで財宝でも見つけたように、サイナスの心は躍り出した。
ひとつひとつ丹念に拾い上げ、別の場所に持って行く。その全てを集めた時、石版の破片は二十四個になっていた。
(とうとう手がかりを見つけたって、ギラさんに報告したいなぁ)
期待していないと言いながらも、ずっとそばにいて作業を手伝っていたことを考えれば、彼だって可能性を全く信じていなかったわけではないはずだ。
この報告をしたらいったい彼はどんな顔をするだろうかと、興味を覚えずにはいられない。サイナスはソワソワした気分で地上に広がる森を見下ろした。
木々の枝に残っている葉が、昨日より少なくなっている。まるで森という生き物の、枝という骨だけが残されていく感じだ。針葉樹や常緑樹が所々にはあるけれど、森全体を生き生きとさせるほどには多くはない。
顔を上げ、サイナスは遠くの山々を見澄ました。
空に浮かぶように見える山脈には、もう雪が積もっているらしい。黒い岩肌と白い雪の縦縞ができている。
ギラはいったいどれほどの間、人間の姿であの山脈を眺めていたのだろうか。竜のままであったのなら、きっと翼を伸ばし、あの場所まで行けただろうに。そういえば『ジッタ物語』はかなり古い話のはずだが、もしもあの話に登場する男がギラならば、彼の寿命はずっと長いことになる。
ここに留まっていることを、彼は悲しんでいるのだろうか?
ギラの言動を思い出し、悲しんでいるわけではないとサイナスは思い直した。
彼は運命を受け入れているのだ。
そのことに悲哀すら感じ、だからこそ早く彼を解放したいと強く思う。
「頑張らないとね」
そう自らに言い聞かせ、サイナスは景色から目を離した。
じっくりと取り組もうと、破片の前に腰を下ろす。一番大きな石版を手に取ると、表面に付いている砂を丁寧に払い落とした。
いくつかの文字が刻まれている。眼鏡をかけ直して、読み取ろうと眉間に皺を寄せ、サイナスはしばらくそれを見つめていた。
「『夏』、『草』……『夏草』かな。『人』、これは『話す』?」
記憶の糸を手繰り寄せ、半年前に自室で読み漁っていた古文書を脳裏に浮かべる。けれど瞳の奥にある記憶の文字は霞がかったように、ぼんやり揺らぐばかり。こんなことなら、古代文字の辞書を持ってくれば良かったとサイナスは後悔した。
それでも調べていくうちに、少しずつだが記憶が蘇ってきた。
「『竜』『流れる』、あとこれは『願う』かな」
さらに読み取った『言葉』、『起きる』という文字に、サイナスはこの石版には眠らせた竜について書かれてあったに違いないと確信した。
けれどそんなことを確認できたところで、根本的な方法は全く見えてこない。それとも石版を繋ぎ合わせたら、何かが見えてくるのだろうか。
そう思ったサイナスは、早速、石のパズルに取りかかった。
黙々と破片のつなぎ目をためつすがめつし、ああでもないこうでもないと組み合わせ続けて数時間。あまりにも集中しすぎていたせいだろうか。手元がほとんど見えなくなった頃になって、サイナスは初めて日が落ちかけていることに気がついた。
かれこれ半日近く、こうして石版とにらめっこをしていたことになる。それなのに、食料を調達に行ったきり、ギラが戻ってこない。
「ギラさん、どうしたのかな……?」
何かあったのだろうか?
心配になって崖の下を眺めていると、思わぬ方向からギラの声が聞こえてきた。
「オイ」
飛び上がるほど驚いて振り返る。ちょうど洞窟の闇からギラが現れ出てくるところだった。
「ヤバいのがいる」
開口一番そう言うと、彼はサイナスの足元に木製のクロスボウと矢筒を投げてよこした。竜のところに置き忘れていたものだ。
「ヤバいって……?」
「闇魔法の波動を感じた」
闇魔法と聞いて、サイナスはまさかと言いかけた。
「それともう一つ。あれはなんだったかな。前に感じたことがあるが思い出せない。魔法と言えば魔法なんだろうが、もっと違う……」
「ええっと、つまり闇魔法を使うだれかと、なんだか判らない力を持つ者がこの森にいると、そう言いたいんですか?」
「さっきからそう言っている」
そう言ったギラの眼は、またあの鋭い光を放っていた。
「そうだ、ギラさん。手がかりを見つけたんですよ。だから……」
「悪いがしばらくそれは中断してくれ。俺は谷の入口を見張っているから、お前はこっちで侵入者が来ないか見ていろ。もし来たら、それでなんとかしろよ」
それとは、クロスボウのことだろう。
「あ、でも僕には……」
しかしサイナスがみなまで言う前に、ギラは洞窟の方へと戻っていってしまった。今までになく焦ったその様子に、どうやら彼ですら手に余る事態が起き始めているらしいと、サイナスは漠然と考えていた。