第14話 ラルフ④
森が少し開けた場所で、ドーラが羊皮紙製の地図を広げていた。谷にある財宝狙いの連中の為に作られたもので、彼女の話ではわりと簡単に手に入るらしい。地図の中央には赤い×印があり、どうやらそこが『死竜の谷』のようだ。
「闇雲に進むのは危険だから、位置の確認をしよう」
ラルフが平静を装ってそう話しかけ、彼女もそれに同調するように感情を押し殺した声で返事をした。
先ほどの細波は、互いに忘れた振りをしている。今さら争っても先には進めないと、ふたりとも判っているからだろう。
「どうも違うな」
目を凝らしてラルフがそう言った。
星だけが頼りなので、紙面が見え辛い。ランプはあまり役には立ちそうもないし、発見される危険性があるので消していた。
「逃げ回ったのがマズかったわね」
ドーラは辺りの様子を見渡し、やや右手にある山と地図と何度も見比べていた。
「ねぇ、あの山ってこれじゃない?」
どれどれとラルフも覗き込む。
「この絵、二つの山が繋がっているような感じよね? あそこも山頂が並んで二つあるし、それに方角的にも……」
「なんとも言えないな。この地図は正確なのか?」
「さあ、わからないわ。遠目で見て書いただけだと思うし。でもあそこがこの場所なら、谷はあの向こう側ってことになるわ」
「諦めるか、先に進むか、選択は二つだ」
ドーラは地図を丁寧に折り畳むと、下げている鞄にしまい込んだ。
「じゃあ決まりね。とりあえずあの近くに行きましょう。どこかで向こう側に回れるところが見つかるかもしれないわ」
楽観的な彼女の物言いに、ラルフは呆れてしまった。それと同時に、どうしてそんなに前向きでいられるのか、先に進もうとしているのか、それが気になってきた。
「……不安じゃないのか?」
そんな疑問がつい口を衝いて出る。
「不安?」
肩にかかった髪をはらりと胸の前に垂らし、ドーラはラルフを見上げた。言っている意味が判らないと、その顔には書いてある。大きな瞳は全てを見透かそうとするかのように見開かれ、ラルフは少し怖じ気づいてしまった。
「別になんでも……」
「誤魔化さないで教えて?」
その声には、まるで彼女の歌のように心を落ち着かせる響きがあった。そのせいだろうか ――ラルフは意図せず、普段なら口にしないことを言ってしまった。
「つまり、自分が進むべき道が正しいのかという不安」
道について言ったはずなのに、まるで人生を語ってしまったような面映ゆさを感じ、ラルフは視線を逸らした。
すると彼女は「ああ……」と納得するようなに返事をし、
「ここに留まっていても何も解決しないのなら、間違いが見つかるまで先に進むしかないでしょ?」
ドーラはおそらく谷に行く道について言ったのだろう。けれどラルフの心を揺さぶるには十分な答えではあった。
「そうだな……」
そう曖昧に返事をし、ラルフは彼女より先に歩き出した。
山の方に向かう途中、ラルフは再びシールドを張った。
先に進むにつれて、ブレスレットに隠してある石が邪悪な気配を察知し、細かな振動を手首から全身へと伝えてきたからだ。
歩きながらラルフは考えていた。
やはり帝国から逃れられないのだろうか。運命と諦めるしかないのだろうか。いったいどこへ向かおうとしているのか。どこに向かいたいのだろうか。
全てがイヤだと心が叫んでいる。過去も今も未来も、自分自身の存在ですら納得ができていない。かといって行き先を変えたいという気力もなく、流されるままに生きている。
王子と言うだけで、崇められていた頃が懐かしい。何かができると思い込んでいた十代の頃ですら今より輝いていた。
本当に何を求めているというのだろうか。
兄に会いたい。彼ならきっと、明るくて輝かしい未来へと導いてくれるに違いないのに。あの頃のように、一緒にいるだけで楽しいと思える日々がくるのではないかと、そんな幻想を抱いている。
過去に囚われ、罪悪感が拭い去れず、それを理由に未来を考えようとしていないことは、ラルフ自身にも判っている。だからこそ兄に会いたかった。こんな弱い己を叱咤してくれる存在を、心が強く求めている。
彼は本当に死んでしまったのだろうか。
『宿命を解放するわ』
ラルフの脳裏に、ドーラの台詞が蘇ってきた。耳の奥で、何度もその言葉がこだまする。やがて言葉は心に深く染み込み、はっきりとした意思となって現れ出た。
(そうだよ、俺だって宿命なんか捨てたいんだ)
その為に何かをすべきなのか、ラルフは己に問いかけていた。
どれくらい歩いただろう。目指していた山は間近に迫っている。あとは向こう側に行く方法を探るだけだが、かなり迂回しなければならないだろう。
いっそ、飛び越えてしまおうか。
そう考え、ラルフが顔を上げようとしたさなか、急にドーラが立ち止まった。
「聞こえない? ほら、あの音……」
ラルフも神経を耳に集中させる。確かに地の底から響くような鈍い音が、森に僅かな波を起こしていた。
「この上か、もっと先か」
「谷かしら?」
星明かりに照らされた二つの頂を見上げ、ドーラがそう言った。
山頂が二つに分かれているその山の中腹まで、森の樹木が広がっている。だがそれより上はまるで切り取られたような崖になっていて、ゴツゴツとした岩肌の影が見えた。
「彼は大丈夫かしら……」
先ほどと同じ台詞をドーラは口にした。よほどその男にご執心らしい。ラルフ自身は、見ず知らずの男などどうでも良かったが、早くこの仕事を終わらせたいと思っていた。たぶん、まだ帝国と関わる決意ができてはいないからだろう。
「飛ぶか……」
「飛ぶ?」
「山を越える」
「どうやって!?」
それには答えず、ラルフはブレスレットに填め込まれている青い石に指を押しつけた。
意識を集中させる。軽い痛みとともに、爪の先に青い炎のような光が点っているのを確認し、それを額へと押しつけた。
かつてこのブレスレットを装備していた父から教わった方法だ。それを思い出して何度か試してみると、できるようになっていた。
額から力が入ってくる感覚に襲われ、ラルフは再び目を閉じた。
その力は一度つま先まで落ち、それから背筋を駆け上がってくる。ゾワゾワとしたその感覚は未だに慣れず、ラルフは唇を噛んだ。
急速に体温が奪われ、それとともに神経が研ぎ澄まされていく。気づかなかった匂いを鼻が嗅ぎ、聞こえなかった音を耳が拾い、見えなかったものを瞳が映し、僅かな空気の流れすら感じるほど肌が敏感になった。
石を使えばいつもこんな感じだった。強くなったと言うよりは、急に別の生き物にでもなってしまったようで未だに慣れない。その上、元の自分に戻った時は、激しい疲れでしばらく動けなくなると来ている。そのせいで使用頻度は減る一方だった。
やがて全身がシールドと同じ色で淡く光ることで、石の力が移ったのだと自覚した。
「な、な、なに、それ!?」
素っ頓狂な声で、ドーラが一歩下がって叫んでいた。
「見ての通り」
「見ても判らないわよ!」
「できる限りの防衛策ってこと」
シールドを作るだけなら、ブレスレットを触るだけでも事足りる。周りに膜を張るような、そんなイメージを頭に思い浮かべるだけでいい。けれど、もっと強い力を求めるのなら、この手段を選ぶしかなかった。
「なんだか凄く強そうに見えるわ。私、あなたをもしかして誤解してた? あの化け物を倒す力、本当はあるんでしょう?」
ラルフは失笑気味に口元を歪ませて、小さく首を振った。
「言ったと思うが、俺ちょっとばかり浮いたり、速く動けたりする程度だ」
「戦えないの?」
「試したことはあるが、無理だったよ」
この石は“フィリアの恒星”と呼ばれ、代々フィリア王家に伝わる家宝だそうだ。国王が次期国王である王子へと授け、その使用方法を伝承する。継承の儀式とも呼べるそれは秘密裏に行われ、王妃ですら同席を許されなかった。
だが王がこの石の魔力を使い、無双とも呼べる力を持っていたのは遙か昔。長い間受け継がれていくうちに、その使用方法も曖昧になっていた。
はっきりした理由は知らないが、いくつかの可能性は想像できる。たとえば国王と王子に確執があった場合もそうだろう。自分と同じように、まだ幼くして王を失ったこともあっただろう。
父は帝国が攻めてくるとは考えてなかったのは、フィリアとバーリングは長い間良好な関係を保っていたからだ。だからバーリングの皇帝が代替わりをしたその一月後、一夜にして侵略されるとは想像すらしていなかったに違いない。
城が落ちたあの夜、父は目の前で石の力をその体に移してみせた。
『残念だが、私にはこれ以上、そなたに教えることができない』
暗く沈んだ父の瞳は、未だにラルフの脳裏から消えてはくれない。
それからブレスレットを幼き王子に手渡した国王は、強い口調でこう言った。
『帝国の手に渡してはならぬぞ』
あの言葉の中には、石が使えるようになった暁には、帝国を打ち破って欲しいという願いがあったのだろうか。
視線を感じ、ラルフは我に返った。今夜は過去に堕ちていく時間が多すぎると悩んで息を吐き、まだ困惑の表情を浮かべているドーラを見返した。
「君は……」
言いかけたのは、彼女を薄らと包んでいる白いベールのことだ。しばし凝視して、間違いないと納得する。彼女は術者だ。
「え、なに?」
石の力を宿した時にはこんなふうに、術者を包む様々な色のオーラが見えることがある。つまり彼女もそうなのかと尋ねようとしたラルフだったが、面倒なのでやめてしまった。余計なことは知りたくはない。自分のことだけで手一杯だ。
返事もせずに、星の輝く夜空を見上げる。今日は新月だと今頃気づいた。
「さて、行くか」
気を取り直して、ドーラの腰を引き寄せる。宿った力を体の奥へと染み込ませ、ラルフはゆっくりと体を宙に浮き上がらせた。
行き先が月だったらどんなにいいだろうか……。