第13話 サイナス⑥
次の日 ――と言ってもこんな穴の中では朝なのかどうか―― とにかく目が覚めると同時に、サイナスは動き出した。自分がこれほど精力的に活動するのは、後にも先にもこれが最後かもしれない。
もしもあの竜から開放された時、ギラはどんな顔をするのだろうか。無愛想な顔に微笑を浮かべてくれるだろうか。
これもまた好奇心には違いないが、伝説を調べる以上のワクワクした気持ちになり、サイナスは目の前で朝食の果物を食べているギラをちらちらと見てほくそ笑んだ。
「なんだ?」
サイナスの視線を感じてか、ギラがじろりと横目に見返してくる。
「ええっと、今日は上の穴を調査したいので……」
「それは昨日も聞いた」
「ですよねー」
明るく返して、サイナスは甘酸っぱい木の実を口に入れた。
数年来の友人のように、ギラに親しみを感じ始めているのは、なんとも不思議なことだ。自分を殺そうとして言うこの男が身内のように思えてしまうのは、ディアンとの思い出話を語っていた時の彼からは、殺意や憎しみを感じなかったからかもしれない。どこかディアンに対して、優しさのようなものが滲み出ていた。本当はそれが彼の本質なのではないかと、サイナスは感じていた。
朝食が終わり、サイナスは早速ギラを催促した。
「それでは、行きましょうか?」
竜が出入りしていた場所なら手がかりがあるかもしれない。そんな期待を込めて、天井近くにある穴を見上げる。もう闇の世界に目が慣れたせいか、かなり遠くまで見渡せるようになっていた。
サイナスが言うと、ギラはいきなりサイナスの体を軽々とその肩に担ぎ上げた。
「ちょ、ちょっと……」
「暴れると落とす」
わりと真剣な口調に、サイナスは丸太にでもなった気分で全身の力を抜いた。
ギラは足元にある光の一つを、まるで小石でも拾うように片手に持ち、階段を一段上がるような軽い動作で、天井近くの穴へと飛び上がった。
人ひとりがようやく通れるほどのその穴は、入った直後、床がスロープ状になっている。大きな岩が所々に突き出て、歩くのも至難の業だ。それなのに、ギラは跳ねるように岩を次々と踏んでいく。
そんな彼の肩の上で、前後左右に体を揺すられて、食べたばかりの果物が口から出てきそうで、サイナスは必死に口を押さえていた。
やがて、懐かしい日の光を感じて顔を上げるとそこに、見晴らしの良い景色が見えてきた。洞窟内もかなり明るくなってくる。空気が徐々に透明感を増していき、樹木の匂いも感じられた。
眩しさに目が眩み、サイナスは慌てて瞼を閉じる。穴から抜け出してきたモグラにでもなった気分だ。
「ギラさん、そろそろ吐きそうです。それに眩しすぎて目がつぶれそうです」
「大げさだ」
「ギラさんこそ、人間離れし過ぎてます」
「竜だった頃の力が残っているんだ」
「早く下ろしてもらえると嬉しいです」
「もう少しだ」
最後に二度ほどジャンプしたのち、ギラはやっと立ち止まったようだ。
丁寧とは言いがたい状態で、サイナスは肩から下ろされる。尻をしこたま打って、その痛みに思わず「うぅ」と呻き声を漏らした。
ようやく吐き気と尻の痛みが消えかけた頃、サイナスは恐る恐る瞼を開いた。
白い光が目を刺激するが、眩しいというほどでもない。
目が覚めた時のように薄目で上下左右を見回して、自分の居場所を確認した。
天井は竜がいたあの空間と同じくらいの高さがありそうだ。両脇もそれなりの広さがある。確かにこれなら竜一匹ぐらい余裕で通れるだろう。
ほぼ平らな床には岩屑が積もっている。日の光を反射して、きらきらと光る結晶は岩塩だろうか。もしくは水晶の欠片かもしれない。あちこちに転がっている大小様々な岩は、天井や両側の壁から剥がれ落ちたものらしい。
サイナスは立ち上がると、怖々と崖端から景色を見渡した。丘と呼ぶには少々高すぎるが、山岳というほどでもない尾根が幾つか重なって、目の前に広がっている。空は初冬の薄青い色をして、その下を切れ切れの低い雲が、南に向かってゆっくりと移動していた。その雲の間を渡り鳥の群れが雁行している。山の尾根からは猛禽が一羽、地上の獲物を狙って急降下しているところだった。
こんな素晴らしい景観は見たことがなし、もしも殺されたとしても、ここに来たことには後悔はなかった。
崖下には葉が落ちた森の樹木が見える。ギラが崖の中腹と言ったことは本当らしい。まるで削り取られたような切り立った崖の、ちょうど中程にある岩棚のような場所だ。ここがあの『死竜の谷』と通じているとは、だれも想像できないだろうが、知っていたところでどうしようもない。ここから洞窟内に入れるのは、翼を持つものだけだろうから。
冷たい風が頬を撫でている。洞窟にいたことが苦痛だとは思ってはいなかったが、やはり空の下にいる方がずっと心地よいと思い、サイナスは遠くに見える山々を再び眺めていた。霞がかかっているように見えるのは、まだ朝早いせいだろうか。
気がつけば、ギラが横に並んで立っていた。彼もまたサイナスと同じ空を見ている。一緒におなじ景色を見ているだけで、胸に不思議な親近感が生まれていた。
「そろそろ冬支度をしなければならない」
彼はそうして何十年もここで暮らしてきたのだろう。それが寂しく思えて、サイナスはつい話を変えてしまった。
「ここ、ずいぶん高いところにありますよね?」
「ある程度の高さがあった方が飛びやすい」
「この洞窟はあの竜の巣みたいなものだったんでしょうか?」
「ねぐらってところだな」
「これだけ高いとなると、谷からこちらまで洞窟内部は傾斜しているのか……」
最後はギラへの質問ではなく、サイナスの独り言だった。既に自分の世界に入りつつあり、ブツブツ言いながら辺りをうろつき回る。時折、足元の石を拾い上げては観察し、それを谷底へ放り投げてみたりした。
探し始めた直後、事は簡単にはいかないとサイナスは悟った。よく見れば周りの壁が崩された痕跡がある。風化が半分、ギラが崩したのが半分らしい。その崩された岩が壁際にごっそり落ちている。それを取り除いて調べなければならないのだが、作業は遅々として進まない。全ての壁を探ってみたり、落ちている岩のひとつひとつを穴の空くほど眺めたり、砂粒一つでも見逃すものかと調査したが、これといったものが出てこない。動かせる岩は全て動かしてみたが、それでも何も出てこなかった。
早朝から取りかかった調査は、昼近くになっても成果が上がらない。そもそも自分がいったい何を探しているのかさえ、本当は判ってはいなかった。
手がかりを見つけると簡単に言ったことに、サイナスは後悔を感じ始めていた。最初は確かに自信があった。けれど、そこには根拠などなかったのだと思い知らされる。己の馬鹿さ加減だけが、時間を追うごとに露呈していくだけだった。
そんなサイナスを、ギラはただ黙って見ていた。朝食を用意してくれて、時々サイナスでは持ち上げられない岩を動かしたしてくれた。決してサイナスを急かすような台詞を口にしない。本人が言った通り、手がかりなど期待してないのは事実のようだ。
初めて見た時より、ギラから殺気立ったものが抜けている印象は正しいようだ。あの崖の岩に立っていた時、ギラは間違いなく殺戮者の顔をしていた。だが今は、どことなく穏やかさが滲み出ている。もしかしたら、本心では竜が目覚めることに期待をしているのだろうか? そう思うとなんだかギラに申し訳なくて、役立たずなことに苛立ちを感じて、サイナスは意味無く足を踏みならしていた。
そもそもだれかの為に調査などしたことは一度もない。知識で他人を助けようなんて、今まで想像すらしていなかった。全ては自分の為に、自身の満足だけに生きてきただけ。
それなのに、いつの間にかギラをこの穴蔵から解放する為に必死になっている。独りぼっちの彼に、人間として生きる道を作ってあげたかった。
こんな気持ちになったのは、本当に初めてだった。