第12話 ラルフ③
薄暗い森の中の道すがら、ラルフは思い出していた。あの悪夢のような一日を……。
七つ上の異母兄アルノーは、あの頃のラルフにとって世界の中心だった。もちろん城には母も乳母もいたし、時々は貴族の子弟とも会うことができた。けれど、自分のことを一番想ってくれていたのは兄だ。
そう、そのはずだと信じていたのだけれど……。
あの日、ラルフは中庭でその兄と追いかけっこをして遊んでいた。けれど、まだ幼かったラルフには兄から逃れるなどできるはずなく、何度もその腕に捕まりベソをかいた。
そんなラルフを見て、金色の髪を風になびかせ、兄は笑いながらこう言った。
『ライハルト、僕から本気で逃げたいのなら、僕を殺さないとね』
なぜあの時、兄はあんなことを言ったのだろう?
なぜ今になって、そんなことを思い出してしまったのだろう?
帝国の影を感じ、忘れたい過去が蘇ってしまった為かもしれない。それともあの“化け物”の声に聞き覚えがある気がして、そんな錯覚を起こしてしまったのだろうか。
記憶の中にある兄の、その顔すら思い出せないというのに……。
その日の真夜中、凄まじい怒号に幼いラルフは目を覚ました。城外から聞こえてくる騒ぎに、何事かと窓辺に駆け寄り、かがり火に照らされた広い庭を見下ろす。途端、黒い集団に兵士らが次々と打ち倒されている様子が、地獄絵図のように目に飛び込んできた。
不思議なことにその黒い集団は、虚無の空間から次々と現れているように見えた。もしかしたらまだ夢を見ているのではないかと、何度も目をこすった憶えがある。あれが幻ではなく、実際に目にしたことなのだと知ったのは、ずいぶんとあとになってからだった。
しばらくすると部屋に世話係の男がやってきて、謁見の間へと連れていかれた。そこには既に国王である父、母、それに重臣らが寄り集まって、皆一様に顔を強ばらせていた。
やはりただならぬことが起きている。幼いラルフもその場の雰囲気を察し、震える指先を止めることができなくなっていた。
それ以降はまるで夢の中の出来事だったかのように、断片的な記憶しか残っていない。
『もう反撃する手段はない』
だれかが暗い声で言った。
加えて別のだれかが『陛下とお妃様だけでもお逃げ下さい』と父に懇願した。すかさず父が重々しい口調でそれに答える。
『家臣を、国民を捨てて逃げるような王はこの国にはいない』
父らしい返事だとラルフは幼心にも感じていた。
気高くて慈愛に満ちた国王、それが幼少の頃に抱いていた父親像だ。いずれ父のように立派な王になりたい。いつもそう願っていたはずなのに……。
それなのに、あの夜だけは完全に臆病風に吹かれ、ひたすらこの城には残りたくないとそればかりを考えていた。
そんな息子の内面を察したのか、父は強い口調でその名を呼んだ。
『ライハルト』
叩かれたかのように肩が震え、上目遣いに父を見た。
情けない息子を叱るのだろうかと身構えていると、父は『そなたとふたりきりで話す必要がある』と穏やかにそう告げた。それを国王の宣言とし、すぐに母や重臣らが立ち去り、部屋にラルフは取り残された。
その後、父が語ったことはたった七歳の子供には難しかった。が、一つだけ判ったことがある。彼は親子の情だけで自分を逃そうとしているわけではないと言うこと。
別にそれでもいい。生き延びたらすぐに幸せは戻ってくる。世間知らずな幼き王子は、真顔で父に誓いを立て、心の中では暢気なことを考えていた。
それからのことはあまりよく覚えていない。地下通路のようなところを歩いていた記憶だけは僅かに残っている。家臣に手を引かれ、地下水が滴り落ちる音を聞き、幼いラルフがひたすら求めていたのは、父でもなく母でもなく、兄だった。
“兄上、兄上”と心の中で泣きながらその通路を抜けた場所は、月の光も届かない森の中。そこから見下ろした城は、闇夜も焦がすほどの巨大な炎に包まれていた。
父も母も死んだのだろうと直感した。異母兄の行方もわからない。泣き顔のまま家臣に尋ねると、彼は知らないというように首を横に振った。
『あの方は王族ではありませんので……』
異母兄が、王妃である母に疎まれていたことはラルフも知っていた。
隣国の王女であったラルフの母親が嫁いできた同じ頃、まだ皇太子だった父は、身分の低いが美しい女性と密通をしていた。その関係は父が王となっても続き、やがて女性は兄を産み落とした。その後、父はふたりに小さな屋敷を与えた。身分としては、非公式な側妻と言うところだろうか。家来は女性を“令夫人”、兄を“ご落胤様”と呼んでいたそうだ。
生まれる前の出来事なので、それ以上のことはラルフにもよく知らない。もちろん大人になった今なら想像は容易だが……。
ラルフが知っている事実と言えば、兄が十才、ラルフが三才の頃にその女性が亡くなったこと、母の反対を押し切り、父が兄を王城に住まわせるようになったことだけ。
だが母である王妃が、兄にはあまり良い感情を抱いてはいなかったのは、幼心にも察してはいた。兄の母が“令夫人”と呼ばれていたことも気に入らなかったようで、だれかが間違って口にした時には、隠しもせずにその怒りを露わにした。
そんな大人の事情を肌で感じていたラルフだが、それでも兄のことが大好きだった。彼は常に優しい存在であり、笑顔を絶やさぬその表情がラルフの心を温めてくれていた。
それから三年間、周辺国にいた血縁を頼って、各地を渡り歩いた。けれど、行く先々にも帝国の魔の手が伸び、故国と同じように三つの国が滅んだ時、だれかを頼ることをやめて家臣とふたり、大陸中を旅して回った。その上、帝国がフィリアの皇子を探し回っているという噂を耳にして、自分を狙う奴らの影に怯え、隠れるように暮らしていた。
もう二度と戻ってこない王族としての立場と生活が懐かしくて、家臣に当たり散らした。それでも思春期になる頃には復讐を考え、帝国の情報を集めたりもした。
こんな目に合わせた奴らに、同じ苦しみを味あわせたい、帝国そのものを潰したい。口先の呪いは日々増していったが、実行に移すだけの根性など持ち合わせてはいなかった。
まともな戦い方をだれも教えてくれないのだから、仕方がないではないか。
年老いた家臣とふたりでは復讐などできるはずはないではないか。
その家臣からも心から懇願された。
『どうか、もう過去はお捨てになり、新しい未来を探して下さい』
断片的な父の最後の言葉も、ラルフの言い訳の材料になった。
『生き延びよ。我らの血を絶やすことなく、必ずや生き延びよ』
何もしないのは、父との誓いを守らなければいけないからだ。弱いわけではない、臆病だからでは決してない……。
家臣が死に、その時になって自分はいかに守られて生きてきたのか痛感した。甘えていたつもりではないのに、十五にして独りで食べていく術すら身につけていなかった。
王子という立場が妙なプライドを作り上げていた。見た目の良さに慢心して、だれからもチヤホヤとされると思っていた。
それなのに現実はあまりにも酷で、それに上手く対応でない己に苛立ち続けた。プライドが邪魔をして、人にものを頼むことも、人の優しさを素直に受け取ることもできず、無一文で何日も過ごす。人に欺され、時には死にそうな目にも遭った。
そんな血反吐を吐くような日々を過ごし、余計なプライドなど邪魔なのだと気づくまでに五年かかった。
全てを捨て去ろう。そう思った今は、這いつくばったままこの場に留まっている。
いつしか復讐という言葉すら捨て去っていた。父が、そしてあの律儀な家臣が平穏な人生を望んでいるからだと自分に言い訳をしている。父が家宝のブレスレットを託して生きろと言ったのは、これを守れという意味だと解釈した。
いや、そうではない。全ては言い訳。
過去などに囚われて生きたくないし、ただ平穏に暮らしたい。復讐などしたところでもう何もないのだから。父も母も重臣もこの世を去り、帝国に取り込まれた領民たちも国の復興など望んではしないはずだ。
そんなふうに思いたいのに、罪悪感がどうしても拭い去れないのはなぜなのだろう。
俺は生き残ってしまった卑怯者なのだろうか?
ハッと我に返り、ラルフは顔を上げた。ドーラと目が合い、取り繕おうと口を開きかける。けれどこちらの空気を気遣うような雰囲気に苛立ちを覚え、彼女を睨んでから視線を外した。
「もう暗くなってきた」
ほとんど先が見えない森の中で、グルグルとさまよっているという気がしてならない。けれど星と月の位置からすれば、こちらの方向に間違いないはずなのにと、ラルフは樹木の間にある闇を凝視した。
「ええ、そうね」
ドーラは腰に下げている鞄から、本当に小さなオイルランプを取り出した。素焼きのそれは木の葉型をして、葉柄部分は持ち手となっている。先端と中央に穴が空いていて、どちらも軟木で塞いであった。
ラルフにそのランプを手渡したドーラは、二つの軟木を取り除き、一方から出ていた灯心に火打金で火を点けた。
やがて魚油が燃える匂いとともに周囲に赤い炎の光が広がった。もっともこんな小さな火では、行き先の確認はできやしない。せいぜい足元にある石に躓かないで歩ける程度の代物だ。
「あとは、アレに気づかれないのを祈るだけだな。もっともあいつの狙いは竜らしいから、もうとっくに谷に到着しているかもしれないが」
「彼は大丈夫かしら……」
「死んでいても、報酬はもらう」
「判っているわよ」
彼女の口調が荒くなった。それにつられるように、ラルフもついつい冷たい物言いになってしまう。お互いに焦りと不安がそうさせしまっているのだろう。
「もしもアレに襲われている最中だったら、それも助けた方がいいのか?」
「できるのならね? でもあなたに倒せる気がしないわ。さっきも逃げただけだもの」
「足手まといがいるから、戦えなかっただけだ」
「どうかしら?」
視線の端で彼女の大きな眼を捉え、ラルフは歩を早めた。
大人気ないことは判っている。倒せないと言われ、それにムカついている自分がいるのも知っていた。
そう、あれは今の俺には倒せそうもない化け物だ。
左腕のブレスレットを触ってみる。使い方も知らない物に頼ったまま戦い続けるなど、どうせできやしないのだ。
「ねぇ、そういえばさっき聞き忘れたけど、あの光はなんなの?」
意地になって追いついてきたドーラがそんな質問を投げかけてきたのは、こちらが言いたくないと気づいているからではないだろうか。そんなうがった気持ちになりながら、ラルフは先にある闇から目を離さずに、「説明は必要か?」と答えていた。
「ええ、ぜひ聞きたいわ」
「このブレスレットに付いている石が、シールドを作り出している」
「シールド?」
「ああ、そうだ。それ以外は曲芸のようなことしかできしない。俺はこれの使い方をよく知らないんだ。だから君の言ったことは正解かもしれないな。たぶん俺にあの化け物が倒せないだろうさ」
自虐気味にラルフがクスッと笑うと、その腕をドーラが強引に引っ張り、押し留めた。
「なんだよ?」
「あなた、凄く投げやりよね?」
「投げやり……?」
いきなり核心を衝かれて、ラルフは動揺を隠せなかった。
「ええ、そうよ。諦めているって言うか、乾いてるのよ、雰囲気が。使い方が判らないのなら、見つけようとは思わないの? それを知りたいとは思わないの?」
「いいや、全然。それにこれは、俺を過去に縛りつけるだけの遺物なんだ」
動揺を隠そうと軽く肩をすくめた。だが成功したわけではない。なぜなら、ドーラがその視線で射貫くかのように、ラルフを見つめ続けていたからだ。
「だったら、ずっとそこにいればいいわ。私は先に行く。サイナスに会って、自分自身の宿命を解放するわ」
彼女はラルフの手からランプを奪い取ると、急ぎ足で歩き出した。
しばらくその後ろ姿を見守り、ラルフは彼女の吐いたセリフを心の中で反芻する。
(宿命の解放……か)
俺はそれを望んでいるのだろうかと自問して、もう一度ブレスレットを指で触れた。