第10話 ノエル②
あれだけ苦労して手に入れた地図は、全く必要がなかった。ノエルがそう悟ったのは、森のかなり奥まで来た頃だった。
森の中には嫌な気配があり、肌がピリピリと反応している。間違いなく闇魔法の瘴気だ。奥に行けば行くほどそれを強く感じ、地図がなくても “あいつ”がどこにいるのか判ってしまう。
“あいつ”――あの闇の体を持つ少年は、今の帝国の象徴とも言えた。
いつからあんな国になってしまったのだろうと、最近ノエルは常に思い悩む。少なくても両親が生きていた頃は、あの道具屋の親父のように、腹が立つけれど憎めない者たちが沢山いたというのに。今は作り笑いと世辞があふれ、そのくせどこか殺伐とした空気が漂っている。皇帝陛下が絶対の正義だと信じ、この大陸全てを収めることが幸せに繋がると、国民だれもが狂信的に願っているせいなのかもしれない。
帝国が大きくなることが悪いことだとは、別にノエルも思っているわけではない。バーリング人の一人として国を愛しているし、隠滅師の家に生まれてきた身としても、今が繁栄の時だとは判っていた。
だけど___。
殺戮と略奪を繰り返すこんなやり方が、本当に正義なのだろうか。そう思えば思うほど必ず浮かぶのは、気味が悪い少年の含み笑いだ。
その昔、“スヴァ”と言う名の魔導師がいた。彼は闇魔法の力に恐れをなして、自らの命を犠牲にそれを封印したという。自分もその彼と同じなのだろうか。
『闇魔法は諸刃の剣じゃ……』
去年死んだ祖父がそう呟いていたことを思い出す。それは確かに真実で、闇魔法は帝国に栄華と暗黒を同時にもたらしている。けれどだれも憂慮などしていない。ただ力を利用するだけだと思っているようだ。
だけど___。
いずれ帝国も傷つくのではないかと、ノエルはそんな気がしてならない。まるで積み荷の重さに耐えきれず、沈んでしまう船みたいに。その積み荷の中で最も小さく、最も重い存在があの少年だとノエルは感じていた。
今のところ、彼は皇帝陛下にとても従順だ。陛下の為ならばなんでもすると明言しているし、実際にそういう行動をしている。
だけど___。
どんなに不安材料を取り除こうとしても、最後には必ずその言葉が出てきてしまう。
『ノエル、君は隠滅師になるには直情的すぎるね』
その昔、父が諫めるように言ったことがあった。
『けれど人間として、真っ直ぐに生きる君は嫌いではないよ』
深く響くその声が、今でもノエルの耳に残っている。だから後悔はしていなかった。
ノエルは真っ暗な森の中で立ち止まった。腰に吊してある長い鎖が無機質な音を立てる。先には鉄球が付いていて、蠅を捕らえるにはちょうどいい武器だ。
問題はこれではなく、もう一つの武器であるナイフが使えるかどうかにかかっている。白魔導師に頼んで魔力を入れてもらった代物だが、果たして効果があるかどうか。
ボレロの胸ポケットに手を当てて、それがちゃんと入っていることを確かめると、ノエルはゆっくりと息を吐き出した。少し緊張しているみたいだ。全身の筋肉が強ばっているのが自覚できるようでは、思い通りの戦闘などできそうもない。それを落ち着かせようと、やおら夜空を振り仰いだ。
影のような黒い輪郭となった木々の隙間に、満天の星が輝いてる。今夜は新月のようで星がいっそう美しい。
あの少年を消すことは、帝国にそして皇帝陛下に逆らうことになるのは了解している。それでも今、自分がしなければならないのではと思ってしまうのは、帝国内にあの闇魔法と同じ瘴気があふれ、星空にすら美しさを感じなくなってしまったからに他ならない。
本当はこんな手を使いたくはなかった。もしも帝国内にだれかが自分の進言に耳を傾けてくれるなら、違った方法があったかもしれないけれど。
ノエルの懸念にはだれも同調してはくれない。それどころか存在すら煙たがられ、まともに口をきいてくれる者はいなくなっている。きっと道具屋で見せたような、心と口が直結している性格が災いしているのだろうと、ノエル自身も判っていた。
皇帝陛下は野心ある御方だ。大陸を帝国が支配することを心底夢見ている。そして重臣や神官らも、今や右へ倣えの状態にある。だから独りで行動しなければならない。それが帝国の為であり、この大陸の未来の為だとノエルは心から信じていた。