第1話 サイナス①
“死竜の谷”には竜の遺骸があるという。谷に関する伝説はいくつか残されていて、その中で一番有名な話は『ジッタ物語』だろう。谷から二度と戻ってこなかった哀れな男の話だ。
サイナス・クロウは今、その『死竜の谷』に到着し、辺りの景色を見渡していた。
血色の悪い肌、厚い眼鏡、棒のようだと揶揄される手足。十中八九、皆が優男だと言うに違いない、そんな者がこの人跡未踏の地に分け入る無謀さはサイナスも理解している。それでも来てみたいという欲求を抑える重石とはならなかった。
こんな危険なところに来たのは、今回が初めてではない。そして死にそうな目にあったことも一度や二度ではなかった。
兄にはいつもイヤミを言われている。
“お前の墓は遺跡になりそうだ”とか、“化石と結婚するつもりか”とか。
別に生涯独身を貫き通そうとは考えてはいない ――もちろん化石とも結婚したくない。反面、女性を必死になって口説き落とす自分の姿は、あまり想像つかないと思う。かといって、こんな頭でっかちな男を好いてくれるような、奇特な女性が早々に現れるとも思えなかった。
(兄さんの言うことも判るけど……)
確かにこんなことを続けていたら、本当にどこかの遺跡で死ぬかもしれない。運良く生き延びたとしても、家庭など持てない可能性は多分にあった。実際、学問に身を投じ、独り者のまま一生を終えたクロウ家の人間は過去に幾人かいた。下級とはいえ曲がりなりにも貴族という身分にあるクロウ家には、どうやら学者気質という血が流れているらしい。
そしてサイナスにも間違いなくその血が流れている。知りたいという欲求を抑えられない。これは先祖から受け継ぐ悪い性分なのだ。
宿命なのかもしれない。その宿命をおおいに楽しんでいる。だから人生の些細なことを気にするのは止めよう。サイナスはそう決めていた。
そして今、サイナスは『死竜の谷』に立っていた。
細く流れの速い川を挟んで、両側に崖がある。川縁の斜面に転がる石は大きく、足下もおぼつかない。
左手にある崖を見上げてみる。ゴツゴツとした岩肌には、所々に苔のようなものがへばりついていた。
「もう少し温かい時期に来れば良かったなぁ」
春ならきっと、高原の花々が崖に色を添えているのだろうが、残念ながら今は冬が間近に来ている。冷たい岩肌がまるで威圧するように、両脇にそびえ立つだけだ。崖の頂には、葉の落ちた木々が縁まで迫っている。
その黒い崖には、ぽっかりと巌穴が空いていた。その奥に竜の死骸があるという。それを確かめる為に、サイナスはこんな山奥まで二日もかけてやってきたのだ。
魔物が棲むこの世界において、竜は伝説と現実の狭間にある微妙な存在だ。実際に見たと言う者は大勢いるが、その明らかな証拠はどこにも残ってはいない。この地方が大昔“竜の国”と呼ばれていたということも、それが事実だったのかどうか立証するには、あまりにも書物や物証が少なかった。
世界中の学者や術者が、竜についてそれぞれ見解を述べている。
曰く、あの大戦争で死滅した。
曰く、人間との関わりを避けている。
曰く、そもそも竜など存在していなかった。
いずれも説得力がありそうな説だが、結局は想像の域を出ることはない。ただ一つ言えるのは、机上の空論を振り回す彼らが、自ら行動を起こすことがないということだ。
そう、学者の卵であるサイナスを除いて……。
危険だけなら怖じ気づくつもりはない。サイナスが欲しいのは知識を裏づける事実。それを見つける為なら、今まで通りに突き進む。
けれど、それとは別の不安は常にあった。身の危険よりもずっと怖いのは、蓋を開けてみればホラ話だったという失望感だ。そしてあの巌穴の入口はさほど広く、竜が出入りするには無理がありそうだということに、不安を抱かずにはいられなかった。
「本当に……」
言いかけて、サイナスは小さく首を振った。
『駄目だと判るまでは諦めない』
先祖が書き残した自叙伝にある言葉だ。とても素敵な考えだと感銘を受け、今では座右の銘となっていた。
「自分の目で確かめるんだ」
巌穴までは教会堂の屋根ほどの高さがあった。もしも足を滑らせて落ちたら、怪我だけでは済まされないだろう。こんな場所で倒れたら、もう二度と親兄弟に会うことは叶わない。そればかりか死に際まで苦しみ続けて……。
「あー、だめだめ、もっと前向きに考えよう」
もしもこの場所に死竜の死骸が本当にあるなら、古代国家であるホスピーナに繋がる何かが見つかるかもしれない。喧喧諤諤と交わされる竜論について一石投じられる。そう考えると心が躍り、力が漲ってくる。
「でも竜はやっぱり微妙かなぁ。多少でも痕跡があれば……」
再び沸いた不安を、奥歯を噛むことで抑えつけ、サイナスは崖の岩肌へ手をかけた。
その時だ。
「待ちな!」
突然頭上から怒鳴り声が降ってきた。驚いたサイナスは一歩後退すると、眼鏡を押さえて上を眺める。
洞窟の遙か上空、そびえ立つ崖縁に、黒い髪をした男が立っていた。
「人間! 懲りもせずにまたやって来たか!」
男の槍声が山びこのように、谷底に響き渡る。
「どなたですか!?」
サイナスも彼に届くように、必死に叫んだ。
「俺がだれだろうと関係ない。お前は今ここで死ぬんだからな!」
そう言いながら、男は両腕をサイナスの方へと突き出した。その手のひらに、赤い炎が現れるのが遠目にもはっきり見える。
「あ!」
サイナスが言うと同時、男の手より発せられた炎は一直線に飛んできた。
咄嗟に退くと、立っていた足下の岩が砕け、その破片とともに大量の火の粉が散った。
正確すぎる攻撃のおかげで、幸いにも炎には巻き込まれなかった。その代わりにバランスを崩し、サイナスは岩屑と火の粉を浴びてその場で尻餅をついていた。
(逃げなきゃ……)
立とうした途端に足首に痛みが走り、再び地面へと手をついた。少し捻ったらしい。
「なんだ、もう諦めたのか」
顔を上げるとそこに、先ほど崖の頂にいた男。三白の双眸がサイナスを睨みつける。その眼光は射貫かれそうなほど鋭く、まるで獲物を見つけた野獣のようだ。
人間だろうかと、サイナスは呆然とした頭で男を見上げていた。まさかあの高さから飛び降りてきたのか。その気配は全くなかった。
珍しい灰色の瞳と、大きな口が特徴的な男だ。均整のとれた体格の持ち主で、袖を引き千切った薄茶色のシャツから出ている上腕は、羨ましいほどの筋肉がある。そのシャツを麻製の太いロープで軽くくくり、茶色ズボンを身につけ、革製の古い靴を履いていた。
背はサイナスよりだいぶ高そうだ。もっともサイナスは長身とは言い難かったが。歳は三十過ぎか。浅黒い顔は薄汚れていて、口元には無精髭が生えている。顎の辺りまである黒髪が乱雑に見えるのは、きっとナイフかみたいなもので適当に切っているのだとサイナスは想像した。しかも洗ってからずいぶん経つらしく艶がない。
(野盗だとしても、ちょっと汚いな)
不潔は病気の始まりだと祖母に言われたことをサイナスはふと思い出した。自分もそれほど小綺麗にはしていないけれど、彼ほどではない。川の水が近くにあるのだし、髪や体を清潔にできるのに、幾らなんでもちょっと不潔すぎる。そんなどうでもいいことを考えていた。
すると、まるでその内心を見透かしたかのように、男は口端を歪ませ、小馬鹿にしたような声で話しかけてきた。
「ここに来た人間の中で一番弱いな、お前は」
「戦闘能力はありませんから」
「では、それは?」
男がサイナスを指す。たぶん背負っているクロスボウを示しているのだろう。サイナスは笑みを浮かべ「飾りです」と答えていた。
「飾り?」
「持っているだけで、なんとなく強そうに見えるでしょ? でも僕はこれを使いこなせるほどの腕前がないんですよ、残念ですが」
サイナスはぺたりと尻をついて、顔を上げた。
人生の最後に見たものが地面なのは情けないと思った、ただそれだけ。
崖に挟まれている青い空には、薄い雲が浮かんでいた。冬がもうすぐ来る証拠だ。この谷の次に行こうと決めていた“冬蛍の森”に行けないのは残念だった。
「覚悟ができているみたいだな?」
そんなサイナスの耳に、男の冷淡な声が届いた。
「ええ、覚悟はできましたよ。ひと思いにやって下さい」
空の青を目に焼き付けて瞼を閉じると、急に数々の疑問が沸いて出て、頭の中を埋め尽くされた。
(あの崖、どうやって下りたんだろう? そういえば彼はどうして自分を襲うのだろう? そもそもいったいだれなんだろう?)
そんな自分にサイナスは苦笑した。
(こんな死に際まで……)
この性分の為にこんな目にあっているのに、本当にどうしようもない性格だと呆れかえってしまう。
「何を笑っている?」
男の声には困惑した調子が含まれていた。それが面白くて、サイナスはとうとう声を出して笑ってしまった。幾らか自暴自棄になっていたのかもしれない。目を開けると、陽光を反射させ不気味に光っている灰色の瞳が睨んでいた。
「すみません。あなたのことを笑ってるんじゃないんです。なんか情けなくて……」
「情けない? 俺に殺されることが、か?」
「違います。つまり、あなたのことが知りたいと思っているのは変だなぁと思ったんですよ。名前はなんていうんだろうとか、どこから来たのだろうかとか、そんなことを考えていることが馬鹿みたいで」
「それが笑うようなことなのか?」
「知識欲といえば聞こえがいいんですが、要するに知りたがりなんですよ、僕は」
「知りたがり……?」
「ええ。ここに来たのもそう。竜を一度見てみたかった、それだけです。言い訳しているわけじゃないですよ? いつもそうやって僕は自分を追い込んでいるんですよ。だからいずれ死ぬかもしれないとずっと覚悟はしていました」
そうなのだ。知ったところで何かが変わるわけではない。それでもサイナスは全てを知りたいと望んでいた。
「変わった人間だな、お前は」
そう言った男の声が、先ほどより柔和になっている、そんな気がした。
けれどそれは、たぶん気のせい。
なぜなら男の手には、再びあの赤い炎が生まれていたのだから……。