夏の幻覚
「書けん」
俺はつい、そう呟いてしまった。目の前にあるノートパソコンは、相変わらず何も答えない。
開かれた文章執筆ソフト、すなわちワードは、相変わらず白紙のまま、カーソルが点滅している。
「はあ」
溜息が漏れてしまう。夏のワンルームはエアコンを付けていても、強い日差しが部屋を照りつけて、嫌な蒸し暑さを感じさせる。
しかたない、と何度目の気分転換になるか分からないが、冷蔵庫に冷たい飲み物を取りに行った。
だが、俺は気が付いた。とても重要な事に。
「何もねえな」
冷蔵庫の中身は、焼肉のタレとマヨネーズぐらいしかない。水道水は不味いため飲む気になれない。
「はあ」
また溜息が出てしまう。しかし、背に腹は帰られない。
俺は、この照りつける太陽の元、飲み物を買いに行く事にした。
ついでに、何か食べるものを一緒に。
最寄のスーパーまで、徒歩で約15分ほどかかる。
本来ならば自転車で5分とかからないのだが、先ほど確認したところパンクしていた。
パンクごときで不幸とは言わんが、タイミングが悪すぎる。
外は今年一番の暑さという謳い文句どおり、暑かった。
視線の奥は陽炎で揺れ、強い日差しが黒いアスファルトを焼く。
俺の額から滲み出た汗が、そこに落ちるとすぐに蒸発してしまうほどだ。
それでも、スーパーまで行けば、そこは楽園なのだから。
俺はもう、さすがに悪意があると感じ始めた。
スーパーは休みだった。いや、今後もずっと休みである。
閉店していた。すでに入れない。
確かに、ここ最近品揃えが悪いなあとか、棚に空きが目立つなあ、とかそういう事は薄々感じていた。
近日中に閉店しますという張り紙に気が付かなかった俺も悪い。
だが、これだけは言わせてくれ。
「なんで今日に限って……」
俺は仕方が無く、来た道を戻り始めた。
太陽は、今も俺を見つめている。
「ふう」
さすがに、20分以上、この炎天下の中を歩き続けるのは無理だった。
なので、道の途中にあった書店へ立ち寄った。
なかなか、大きい書店でクーラーがしっかり効いている。最高だ。オアシスである。
俺は、暫く本を見てから帰ろうと思った。
最近は書く事ばかりに拘って、新刊を目にしてなかった。
俺はクーラーの風がそよぐ店内を、ゆっくりと見回り始めた。
3時間ほど店内で時間を潰すと、俺は外へ出た。
太陽はゆっくりと落ち始め、俺の元から去り始めていた。
「ふう」
ついつい本を買いすぎてしまい、袋を持った右手が重い。
少しだが、風も吹き始めた。
その時、俺の頬に何かが当たった。葉っぱだった。
どうやら街路樹の葉っぱが落ちたらしい
まだ青々としているその葉っぱは、イチョウの葉らしく、扇状をしている。
その時、俺の頭の中で、何かが見えた。
青々としたイチョウの木々は、その姿を黄金色に変える。
自身をアスファルトへと身を落とし、一面を染めていく。
そして本屋から一人の少女が出てくる。
少女は、早く買った本を読みたいを思い、その場から出して読み始める。
その時イチョウの葉っぱが、その少女の本に挟まって――。
そこまで考えてから、俺ははっとなった。
イチョウの葉っぱは相変わらず青い。
だが、俺はすぐにその場から駆け出した。今見えた情景を、忘れないように。
いつの間にか太陽は、俺の元を去っていった。
そして、今度は月が、俺の元に近づいてくるのであった。