同日 午後7時~
僕の高校は何時が完全下校なのだろう。よくわからないが、まだ僕は教室にいた。椅子に逆に座り、背もたれに顎を乗せてぼんやりしている。太陽は沈む前に最後の輝きを見せ、熱した鉄のように赤い。強烈な西日が射し込む教室で、夕日を見ながら僕は無意識に一日を振り返っていた。何をしているんだか、僕は…今日は今まで生きていた中でも、最悪の日かもしれないのに。
ヘッドホンからは珍しく、音楽が流れている。いつもは耳栓代わりにしか使われていないこのヘッドホンが、本来の使われ方をされている。
「……」
不思議だ。今までもいつもこうやって一人で放課後を過ごしていたはずだ。それはそれでいいと思っていたはずだ。なのに今日は、妙に虚しい。
「…神埼…」
来るはずもない神埼を呼んでみる。僕に早く帰れと言ったのだから、今日は僕のバイクで帰る気はないということだ。今頃自分の家に向けて歩いていることだろう。あの長く、寂しい道を。
「にゃー!」
「うおぉ?!」
不意に後ろから抱きつかれた。
「呼んだ?」
四度目の神埼。どんなに驚かされてもめったなことでは驚きが周囲にばれない僕であるが、今回ばかりはきっとバレバレだ。声まで出してしまったのは初めてかもしれない。
「隙あり浅井啓司…あれ?音がでてる?」
神埼は僕にひっついたまま、僕の頭からヘッドホンを外すと、それを自分の頭へと着ける。僕は為されるがままだ。あの、胸があたってます。
「クラシック…?よく知らないけど、いい曲だね。」
背後を取られているため神埼の表情は窺えないが、声から察すると機嫌は悪くないようだ。
「姉さんから押し付けられてるんだ。僕の人格更生用らしい。」
「あれ、浅井君お姉さんいるの?」
そんなに耳の近くで話したら息がかかるって…!
そういえば僕の家族について神崎に話したことはないかもしれない。だが話してもあまり面白くはないだろう。はっきり言って、普通の家族である。
「ところで、神埼…」
僕は後ろの神崎に向けて話しかける。
「ん?なに?」
「なんでいるんだ。」
一瞬の沈黙の後に、神埼はと答えた。
「浅井君は教室にいると思ったから。浅井君は帰れって言われて素直に帰るような人じゃないしね。」
それに、と神埼は続ける。
「歩いて帰るのはちょっときついかなぁと思って。」
神埼はさらっと答える。も、もしやこれがツンデレ?
神埼は僕から離れて立ちあがり、ヘッドホンを僕の頭に戻すと、僕の正面の椅子の向きを変えてそれに座った。離れられてしまうと背中が寂しい。
「で、浅井君はなにしてたの?」
「あ、いや…ちょっと考え事を…」
実際どうでもいいことをたくさん考えてしまった。なぜ田中は僕のことを憎んでいるのか、僕はどうすればいいのか。僕と田中の仲はこれで終わりなのか…。田中のことも、神崎のことも、考えるだけ考えた。結局答えなど出ていないけど。
「何だっていいだろ…大したことじゃない。」
「はい、浅井君約束を破りました。私怒ります。」
突然怒る宣言をされた。唐突すぎて僕の頭がついて行かない。
「浅井君、『お互いに、ありのままで接しよう。誤魔化したり、隠したりするのはなしで。』なーんて言いきったのはどこの誰だったかな?」
神埼は実は僕の心が読めるんじゃないだろうか。的確に僕の痛いところを突いてくる。
「……」
返す言葉がない。神埼と目があったまま動けない。相変わらずとてつもない眼力だ。
「浅井君、私は隠し事全てを否定するつもりはないよ。生きてれば秘密なんていくらでもできるし。だけど今回はさ、ちょっと違うでしょ。私にも知る権利がある。」
「なんで権利があるんだよ。」
もう子どもが駄々をこねるのに近い。苦し紛れに言った言葉だ。
「私が田中君の友達で―」
神埼はそこでちょっと言い淀んで、ずっと見ていた僕から視線を外した。
「あなたの…彼女だから…」
がらがらと崩れ落ちる僕の心の壁。
死にました。浅井啓司、ハートを射抜かれて死にしました。
「ごめんなさい。」
生まれ変わった浅井啓司は、開口一番、神崎に謝罪した。
「わかればよろしい。」
目を逸らしたまま胸を張る神埼。やっぱ出るところ出てるなこいつ。
「なんで僕を謝らせておきながら目を逸らしてんの?」
「え、いや…さっきのやつ、ちょっと恥ずかしかったから…」
今まで散々僕を照れさせておきながら、ここで恥ずかしがるのかよ!
「今までだって似たようなこと言ってたじゃん。」
「いや、だって…今まではちょっと冗談っぽく言ってたし…」
立場逆転。攻守交替。バッター、浅井啓司。
「ほぉ、じゃあ今までのあんなことやこんなことも全部冗談半分だと。」
「いやそうじゃないけど!本気だけど…!」
「そんなこと言われてもなぁ、恥ずかしがってるの見るの初めてだし。」
「恥ずかしがってなくても本気だったんだよ!」
「じゃあ恥ずかしがりながら言うところも見てみたいなぁ。」
「…何を言えばいいの?」
「『私?私は浅井君のこと好きだよ?』(『8月3日 午前6時~』参照)ってやつ。」
「私?!…私は…浅井君のこと…好きだよ…?」
「『私とキスしなさい。』(『同日 午後7時~』参照)。」
「わ、私と…キス…しなさい…」
「喜んで!!」
バッター浅井啓司、空振り三振ー!!かなり粘りましたが、最後は力尽きました!
「馬鹿!!」
神埼の鉄拳制裁。僕の右頬は早くも紅葉が始まった。自業自得である。
「ごめんなさい…」
「……」
神崎の顔も紅葉が始まったようだ。ヤバい。めっちゃ可愛い。
「もうしばらく言ってあげないから。」
「はい、すいません。」
「って、そんなことどうでも良くて、私は―」
何の前触れもなく、教室のスピーカーからトロイメライが流れ始めた。誰もいない教室では意外なほど音が響く。
「これって…」
神埼の顔に動揺の色が見える。
「ははは…下校時間の合図だね。」
僕の高校では、このトロイメライの後に警備員のおじさんがやってきて生徒を追い出していく。このおじさんかなりお喋りらしく、カップルが教室の残っていようものなら次の日には学校中で噂になっている。
「ちょっと!時間なくなっちゃったじゃん!」
珍しく焦る神埼。これまでの経験でわかったことだが、神埼は中途半端な状況が大嫌いなのだ。このまま放っておくと、手のつけられないことになる。
「あ、えっと…あ、そうだ、神埼は門限何時?」
「え…うちには門限なんてないよ…」
そうだった。神崎家の問題については、おいおい触れていこうと思う。だが今回は好都合。それならしばらく大丈夫だ。
「な、ならさ、今日うちで話の続きしない?」
「えっ…是非。」
神埼、お前僕の家に来たかったのか。
9月21日。その日は初めて母と姉以外の異性が僕の部屋に入った記念すべき日となった。




