『七年間、毎日綴った二千五百五十五通の恋文を燃やした日――私を捨てた婚約者が後悔しても、氷の公爵様はもう私の手を離さない』
晩秋の雨が、古い洋館の窓を叩いていた。
細く、冷たく、途切れることなく。
暖炉の前に置かれた一人掛けの長椅子に腰掛け、エレノアは足元に据えられた大きな木箱を見つめていた。
真鍮の留め具が鈍く光る革張りのトランクには、淡い青のリボンで括られた紙の束が、隙間なくぎっしりと収められている。
二千五百五十五通。
七年間、一日も欠かすことなく、その日の終わりに綴ってきた手紙だった。
トランクの底に眠る便箋は年月を経て琥珀色に褪せ、近頃のものはまだ真新しい白さを保っている。封をしたものもあれば、何度も書き直した末に、宛名すら記せなかったものもあった。
そのどれにも、同じ人への想いが込められていた。
ギルバート・アシュフォード。
伯爵家の嫡男であり、来月にはエレノアの夫となるはずだった人。
そして、七年間、一度として彼女を愛してはくれなかった人。
「……馬鹿ね、私」
エレノアは箱の底から、リボンを解いた一番古い手紙を一枚だけ取り上げた。
まだ少女だった頃の、少し右上がりの文字が躍っている。
『今日、あなたが私の婚約者になると聞きました。嬉しくて、胸がいっぱいです』
あの頃は、信じていた。
いつか、この想いを伝えられる日が来ると。
いつか、彼も自分を見つめてくれるようになると。
けれど、七年という歳月は、少女の淡い夢を静かに削り取るには十分すぎるほど長かった。
扉が乱暴に開かれたのは、その時だった。
「エレノア!」
濡れた外套を肩に引っかけ、ギルバートが入ってきた。
金色の髪は雨に湿り、端正な顔には焦燥が張り付いている。
彼がそんな顔をする理由を、エレノアは痛いほど知っていた。
いつだって、彼を取り乱させるのは、たった一人の女性だけだったから。
「ごきげんよう、ギルバート様。お約束は明日だったかと存じますが」
「そんなことを言っている場合じゃない!」
彼は濡れた外套を近くの椅子へ乱暴に放り投げた。
「セリアが倒れた」
エレノアは、指先の古い手紙をそっと膝の上に伏せた。
「……そうですか。お加減はいかがですの?」
「心労だそうだ。来月、俺たちが結婚すると聞いて、呼吸もできないほど取り乱したらしい」
ギルバートは苛立たしげに額を押さえた。
「あいつは昔から身体が弱い。俺がそばにいなければ、どうなってしまうかわからないんだ」
「それで?」
エレノアの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
ギルバートは一瞬、言葉に詰まった。
それから、覚悟を決めたように顔を上げた。
「婚約を解消してほしい」
暖炉の中で、薪が小さく弾けた。
エレノアは静かに目を伏せた。
不思議なものだと思った。
七年間、最も恐れていた宣告だった。
それなのに、実際に耳にしてみると、激しい動揺など微塵も起きず、ただ胸の奥の火が冷たい水底へと沈んでいくだけだった。
「……理由を、お聞きしても?」
「今言っただろう。セリアには俺が必要なんだ」
「私には、必要ないと?」
「そういう意味じゃない!」
ギルバートは苛立ちを露わにして声を荒らげた。
「お前は強いだろう。侯爵令嬢として何ひとつ欠点がない。誰の助けも借りずに、何でも一人でやってのける。だが、セリアは違う。あいつは俺が守らなければならないんだ」
エレノアは、ゆっくりと顔を上げた。
「私が強いから、捨てても構わないと?」
「だから、そういう言い方をするな!」
ギルバートの怒声が、暖炉の炎を震わせた。
「そもそも、俺たちの婚約は家同士が決めたものだ。お前だって、俺を愛していたわけじゃないだろう?」
その言葉に、エレノアの指先がかすかに止まった。
「……どうして、そう思われるのです?」
「お前はいつも澄ました顔をしている。嫉妬したこともなければ、俺に甘えたこともない。俺がセリアの見舞いに行っても、一度だって責めなかったじゃないか」
「……ええ」
「だから、俺たちは互いに義務を果たしていただけなんだ。お前なら理解してくれると思っていた」
エレノアは、冷えた空気を肺の奥まで吸い込んだ。
七年間。
彼がセリアの名を呼ぶたび、胸の奥がひび割れるように痛んだ。
彼が約束をすっぽかすたび、冷え切った夜の部屋でただ一人待ち続けた。
誕生日に贈った刺繍入りの手袋を、彼が一度も身につけてくれなかったことも覚えている。
冬の夜会で、寒さに震える彼女に気づき、ギルバートが外套へ手を伸ばしかけたことがあった。
けれど、その瞬間、セリアが彼を呼んだ。
彼は迷わず、そちらへ駆けていった。
エレノアはその背中を見送りながら、何でもないことのように微笑んだ。
泣かなかったのではない。
泣く姿を、彼に見せなかっただけだ。
「……わかりました」
エレノアは言った。
「婚約解消をお受けいたします」
「……本当か?」
「父には私から説明いたします。両家の取り決めにつきましては、正式な書面を交わしましょう」
ギルバートは、心底安堵したように肩の力を抜いた。
その張り詰めた糸が切れたような表情を見て、エレノアの胸の奥底に残っていた最後の未練が、音もなく崩れ落ちた。
「助かる、エレノア。お前なら、きっとわかってくれると――」
「ギルバート様」
彼女は静かに遮った。
「一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「もし私がここで泣いて、婚約を解消したくないと縋りついたら……あなたは、私を選んでくださいますか?」
ギルバートは答えなかった。
ただ、困惑したように眉を寄せ、視線を彷徨わせた。
それが、彼のすべてだった。
「……そうですわね」
エレノアは小さく微笑んだ。
「でしたら、もう申し上げることはございません」
彼女は膝の上の手紙を手に、静かに暖炉の前へと歩み寄った。
そして、その古い紙片を、燃え盛る薪の隙間へそっと落とした。
紙の端が赤く染まり、くるりと丸まる。
白かった便箋が、一瞬で黒い灰へと変わっていく。
「おい、何をしている!」
エレノアは振り返らず、足元のトランクから、青いリボンで括られた手紙の束を一つ引き上げた。
「もう、必要ありませんので」
リボンを解き、パラパラと数通の紙片を火の中へ放つ。
「それは何だ? ずいぶんあるようだが、誰からのものだ?」
「誰からでもありません」
二通目、三通目。
七年間、彼女が生きた証が、次々と炎に呑まれていく。
燃える紙から、かすかに沈丁花の甘い香りが立ち上った。
ギルバートが、昔好きだと言っていた香りだった。
---
七年前の冬。
エレノアは、吹雪の山道で死にかけた。
乗っていた馬車が雪に足を取られ、谷へ転落したのだ。
御者は助けを求めに行き、幼いエレノアは壊れた馬車の中に取り残された。
雪は容赦なく降り積もり、手足の感覚はとうに失われていた。
もう、眠ってしまおう。
そう諦めかけた時だった。
『おい! 聞こえるか!』
誰かが雪をかき分けて現れた。
金色の髪の少年だった。
まだ騎士見習いだったギルバート。
彼は震える手で馬車の扉をこじ開け、エレノアを抱き起こした。
『しっかりしろ! 眠るな!』
『……寒い……』
『わかってる。だが、今眠ったら駄目だ』
少年は自分の外套を脱ぎ、凍える彼女を包んだ。
そして、夜明けまで彼女の冷たい手を握り続けた。
『怖い……』
『俺がいる』
『……死んじゃうの?』
『死なせない』
少年の声も、寒さと恐怖で震えていた。
それでも、握りしめた手だけは決して離さなかった。
『絶対に助ける。だから、お前も諦めるな』
あの夜の温もりを、エレノアは一度として忘れたことがなかった。
救助隊が到着した時、ギルバートもまた、ひどい低体温症に陥っていた。
彼は数日間、高熱にうなされ、目を覚ました時には救出の夜の記憶をすっかり失っていた。
その枕元にいたのが、幼馴染のセリアだった。
セリアは毎日見舞いに通い、彼の手を握って励まし続けたという。
ギルバートは、自分が生死の境を彷徨った時、命を繋ぎ止めてくれたのはセリアの手だったと信じ込んだ。
それは、決して間違いではなかった。
彼女は確かに、病床の彼を献身的に支えていた。
ただ、その前の雪の夜に何があったのかを、ギルバートは綺麗に忘れてしまったのだ。
エレノアは何度も、真実を告げようとした。
けれど、そのたびに言葉を飲み込んだ。
自分が助けられた少女だと明かせば、彼は責任を感じるかもしれない。
恩義や義務感から、優しくしてくれるかもしれない。
それが何よりも恐ろしかった。
欲しかったのは、感謝でも、義務でもなかった。
ただ、彼の真の心だった。
だから、待った。
いつか彼が、過去の影ではなく、目の前の自分自身を見つめてくれる日を。
そして、決して渡せない想いを、毎日一通ずつ便箋に綴った。
『今日、あなたが中庭で剣を振るう姿を見ました。あの雪の夜と同じ、真っ直ぐな瞳でした』
『あなたがセリア様のお見舞いに行かれると聞きました。どうか、お二人ともお元気で』
『本当は、少しだけ寂しいのです。こんな気持ちを抱く私は、嫌な女でしょうか』
『今日も、あなたを好きでした』
その言葉だけは、何百回も書いた。
そして、何百回も、木箱の底に沈めてきたのだった。
---
「やめろ、エレノア!」
ギルバートが叫び、詰め寄ってきた。
トランクから引き抜かれた手紙の束が、次々と炎に呑まれていく。
「なぜ、そんなものを燃やすんだ!」
「必要がなくなったからですわ」
「だが、お前……!」
ギルバートは言葉を失った。
エレノアの白い頬を、一筋の涙が静かに伝っていたからだ。
本人はそれにすら気づいていないようだった。
「……泣いているじゃないか」
エレノアは指先で頬に触れた。
濡れていた。
「あら……」
小さく笑った。
「おかしいですわね。もう、泣かないと決めておりましたのに」
彼女がトランクから取り出し、まさに炎へ投げ入れようとした一通の便箋に、ギルバートの手が伸びた。
「待て!」
火の粉が跳ね、指先に鋭い痛みが走る。
それでも、彼は燃えかけた紙の端を強引に引き抜いた。
焦げた便箋の余白に、見慣れた端正な文字が残されていた。
『吹雪の夜、私の手を握ってくださったあなたへ』
ギルバートの息が止まった。
『あなたが忘れてしまっても、私は忘れません。あの夜、あなたが私にくださった温もりを』
「……吹雪?」
彼は掠れた声で呟いた。
「……あの夜?」
記憶の奥底で、固く閉ざされていた扉が軋んだ。
雪。
凍りついた馬車。
折れそうなほど小さな手。
そして、自分の外套に包まれて震えていた少女。
『眠るな! 俺の手を握っていろ!』
「……まさか」
ギルバートは目を見開き、エレノアを凝視した。
「俺が助けたのは……あの雪の夜の娘は、お前だったのか?」
エレノアは、何も答えなかった。
ただ、トランクに残された手紙の束を、静かに火へくべ続けた。
「どうして……どうして言わなかった!」
ギルバートの声が激しく震えた。
「俺は、ずっと……!」
「何を、ですの?」
エレノアは顔を上げた。その瞳は、炎を映して静かに澄み渡っていた。
「何を、ずっと?」
ギルバートは口を開きかけ、そして言葉を失った。
自分が何を言おうとしていたのか、自分自身でわからなくなっていた。
セリアが病床の自分を支えてくれたことは、事実だ。
その感謝も、守りたいという気持ちも、嘘ではなかったはずだ。
だが、目の前の婚約者は。
七年間、一言の不満も漏らさずに隣にいた女性は。
自分が知らなかった暗闇の中で、こんなにも長く、深く、自分を想い続けてくれていた。
その巨大な真実が、彼の胸を容赦なく抉った。
「エレノア……俺は……」
「ギルバート様」
彼女はトランクの底に残った、最後の手紙の束を持ち上げた。
「あなたが私を助けてくださったことには、今でも心から感謝しております」
「だったら……!」
「ですが、それと、あなたが私を愛してくださるかどうかは、まったく別のことです」
ギルバートの顔が、血の気を失って強張った。
「あなたはセリア様を選ばれた。それが、今のあなたのお心なのでしょう」
「違う、俺は……!」
「違いませんわ」
エレノアの声は、どこまでも凪いでいた。
「もし、あの夜の少女が私ではなかったとしても、あなたは今日、私を選んでくださいましたか?」
答えは、返ってこなかった。
「……そういうことです」
エレノアは最後の手紙を炎へ落とした。
トランクの中は、完全に空になった。
一瞬、炎が赤々と燃え上がり、七年分の恋心が光となって二人の横顔を照らし出した。
「私は、あなたに愛されたかったのです」
初めて、エレノアは口にした。
「命を助けられたからではなく、侯爵家の娘だからでもなく……ただ、私だから、愛してほしかった」
ギルバートの喉が、引き攣るように震えた。
「……すまない」
絞り出すように出たのは、それだけだった。
エレノアは首を横に振った。
「謝罪は、受け取ります」
そして、一歩下がって告げた。
「ですが、婚約は解消いたします」
「待ってくれ。俺はまだ……」
「もう、待てません」
その一言に、ギルバートは息を呑んだ。
「七年間、待ちました」
エレノアは微笑んだ。
痛々しいほどに澄み切った、哀しい笑顔だった。
「もう、十分でしょう?」
ギルバートは何も言えなかった。
伸ばしかけたその指先は、宙を彷徨い、力なく落ちた。
あの雪の夜、自分は確かに彼女の手を握り締めていたはずだった。
けれど、今。
その冷たい手を取る資格など、自分には欠片も残されていなかった。
「……お帰りください」
エレノアは静かに背を向けた。
「セリア様がお待ちでしょう」
ギルバートは、暖炉の底で崩れ落ちていく灰を見つめた。
そこに、取り戻せるものは何一つ残っていなかった。
やがて彼は、深く頭を下げた。
そして、逃げるように部屋を出ていった。
重い扉が閉まる音が、がらんとした部屋に空虚に響き渡った。
---
一人になった途端、エレノアの膝から力が抜け落ちた。
絨毯の上に崩れ落ち、両手で顔を覆う。
「……終わったのね」
声にした瞬間、熱い雫が指の隙間から零れ落ちた。
七年間。
どんなに寂しくても、明日こそはと信じてきた。
今日こそは、彼が自分を真っ直ぐ見てくれるかもしれない。
明日こそは、名前を優しく呼んでくれるかもしれない。
そんな儚い砂の城のような期待を、毎日一つずつ積み重ねてきた。
それが今、すべて灰になった。
「……好きだったのに」
誰に聞かせるでもなく、咽び泣く声が漏れた。
「本当に……好きだったのに……」
肩が激しく震えた。一度溢れ出した涙は、もう止まりそうになかった。
その時だった。
廊下の向こうから、控えめな足音が近づいてきた。
「……エレノア嬢」
低く、落ち着いた、よく通る声。
エレノアは息を呑み、慌てて袖で涙を拭った。
扉の前に立っていたのは、夜の闇のような黒いマントを纏った長身の青年だった。
月光を溶かしたような銀色の髪に、深い紫紺の瞳。
近衛騎士団長にして、公爵家の若き当主。
クライヴ・レイヴンズクロフト。
社交界では、誰に対しても感情を動かさない「氷の公爵」と恐れられている男だった。
「……クライヴ閣下?」
「突然の無礼を許してほしい」
彼は敷居を跨がず、扉の前に立ったまま静かに頭を下げた。
「侯爵から預かった公務の書類を届けに参ったのだが……先ほどアシュフォード卿が取り乱して館を出ていくのを見かけ、胸騒ぎがしてな」
「……お恥ずかしいところを、お見せいたしました」
「いや」
クライヴは短く首を振った。
「入っても構わないだろうか」
エレノアは躊躇いながらも、小さく頷いた。
クライヴは音もなく暖炉の前まで歩み寄り、足元の空になったトランクと、炉の底に燻る白い灰に視線を落とした。
だが、彼はその理由を詮索しようとはしなかった。
ただ、絨毯の上に座り込むエレノアの前に、片膝をついて視線を合わせた。
「手が、酷く冷たいな」
そう言って差し出された大きな手に、エレノアは思わず身を引いた。
「……大丈夫ですわ」
「そうか」
クライヴはそれ以上強引に近づくことはせず、静かに手を引いた。
代わりに、自らの肩から重厚な黒いマントを外し、彼女の華奢な肩へとふわりと掛けた。
微かな白檀の香りと、彼自身の確かな体温が、冷え切ったエレノアの身体を包み込む。
「暖炉の前にいるというのに、震えている」
その静かな気遣いに、エレノアは唇を噛み締めた。
「……閣下は、本当はお優しい方なのですね」
「そうでもない」
クライヴは少し困ったように眉を下げた。
「むしろ、私は昔から気の利いた言葉をかけるのが苦手でな」
エレノアは、涙で濡れた瞳のまま、かすかに唇を綻ばせた。
「存じております。社交界では、氷の公爵と呼ばれていらっしゃいますもの」
「……まったく、不名誉な呼び名だ」
その真面目くさった返答に、エレノアの口元から、もう一度小さな笑みが零れた。
クライヴはその柔らかな表情を見て、紫紺の瞳をわずかに細めた。
「……少し、安心した」
「何がですの?」
「笑ってくれたからだ」
エレノアは、息を呑んで彼を見つめた。
クライヴは照れを隠すように、すぐに視線を逸らした。
「いや……無理に笑う必要はない。今のは忘れてくれ」
その無骨な不器用さが、痛む胸にじんわりと染み渡っていくようだった。
---
クライヴがエレノアを初めて意識したのは、三年前の冬のことだった。
王都で催された慈善舞踏会。
着飾った貴族たちが歓談に興じる中、エレノアは一人、会場の隅の窓辺に佇んでいた。
婚約者であるギルバートは、病弱なセリアの手を取ってフロアの中央で踊っていた。
周囲には、冷やかしや好奇の視線が渦巻いていた。
それでもエレノアは、凛と背筋を伸ばし、気品ある微笑みを絶やすことはなかった。
クライヴは、その気高い姿を美しいと思った。
だが同時に、誰も見ていないカーテンの陰で、彼女がドレスの布地をきつく握りしめ、青ざめた唇を噛んでいたのを見逃さなかった。
その後、領地の孤児院を視察した際、エレノアが毎年、名を伏せて大量の防寒着や絵本を寄付していることを知った。
彼女は誰かに褒められるためでも、評判を得るためでもなく、ただ寒さに凍える誰かのために、そっと手を差し伸べていたのだ。
それ以来、クライヴの視線は無意識に彼女を追うようになっていた。
けれど、彼女には愛する婚約者がいた。
だから、踏み込むことはしなかった。
ただ遠くから、その孤独な背中を見守ることしか許されなかった。
---
「……エレノア嬢」
クライヴは、燃え尽きゆく薪の炎を見つめたまま、低く呟いた。
「私は、君が思うほど高潔な男ではない」
「……どういう意味でございますか?」
「今、君が深く傷ついているのを見て、胸を痛めている」
彼は一度言葉を切り、喉を鳴らした。
「だが同時に……婚約が破談になったと知り、心のどこかで安堵している卑しい自分がいる」
エレノアは驚いて顔を上げた。
クライヴは自嘲するように口元を歪めた。
「卑怯だろう?」
「……閣下」
「私は、ずっと君を見ていた。君が誰の称賛も求めずに努力を重ねていることも、他人の痛みに誰よりも敏感なことも」
彼はようやく、まっすぐにエレノアの瞳を見つめ返した。
「そして、君が時折、世界に一人きりになってしまったような、寂しい顔をすることも」
エレノアの胸が、きゅっと締め付けられた。
「……そんな顔、しておりましたでしょうか」
「ああ」
クライヴは迷いなく頷いた。
「だが君は、誰かが近づくと、すぐに完璧な淑女の笑みでそれを覆い隠してしまう」
その言葉に、エレノアは俯いた。
見抜かれていたのだ。
七年間、誰にも悟らせまいと必死に守り続けてきた、自分の弱さと孤独を。
「……私は、強くなどありません」
震える声が、膝の上に落ちた。
「本当は、ずっと怖かったのです。愛されないことも、見捨てられることも……たった一人になることも」
「うん」
クライヴは、ただ静かに相槌を打った。
「だから、絶対に泣かないようにしていました。取り乱して、誰かに迷惑をかけたり、重荷だと思われたりしないように……」
ポロポロと、堪えきれない雫が絨毯を濡らしていく。
「そうして我慢を重ねていたら、いつの間にか……誰にも、寂しいと助けを求められなくなってしまいました」
クライヴは何も言わなかった。
安易な同情の言葉を投げかけることもせず、彼女の吐き出す痛みが止まるのを、じっと待っていた。
やがて、エレノアはマントの裾で乱暴に目元を拭った。
「……申し訳ありません。このような、見苦しい姿を」
「謝らないでくれ」
その声は、驚くほど澄んで優しかった。
「君が泣いたところで、私は少しも困らない」
エレノアは顔を上げた。
「君がどれほど弱音を吐いても、決して失望などしない」
クライヴは、ゆっくりと、今度は迷わずに手を差し出した。
「だから……私の前でくらい、無理に強い女でいようとしなくていい」
エレノアは、目の前に差し出された大きな手を見つめた。
剣を握り続け、いくつもの傷と胼胝に覆われた無骨な掌。
七年前の雪の夜、ギルバートが握ってくれた温もりを思い出した。
自分はその幻影に、七年もの間、縋り付いて生きてきたのだ。
けれど。
目の前にある手は、過去の記憶の遺物ではない。
今、この冷え切った現実の中で、自分に温もりを分け与えようとしてくれている、生きた手だった。
エレノアは躊躇いながら、冷え切った指先をそっとその上に重ねた。
クライヴは息を呑むと、まるで壊れやすい硝子の花を包むように、慎重に、けれど力強くその手を握り締めた。
「……温かい」
エレノアの唇から、掠れた声が漏れた。
「そうか」
「ええ……とても」
クライヴは、泣き出しそうなほど愛おしげに、微かに口元を緩めた。
---
窓を叩く雨の音は、いつの間にか止んでいた。
エレノアの呼吸が穏やかになるまで、クライヴは何も急かさず、ただ静かに彼女の隣に座り続けていた。
やがて、彼は決意を込めたように口を開いた。
「エレノア嬢。一つだけ、伝えておきたいことがある」
「何でしょう?」
「私は、君を慕っている」
飾り気のない、あまりにも真っ直ぐな告白だった。
エレノアは驚きに目を見張った。
「……閣下?」
「三年前からだ」
クライヴは、耳の先端を微かに赤く染めた。
「本当は、もっと相応しい段取りを踏むつもりだった。美しい花束を用意し、華やかな場所を選んで……」
彼は照れくさそうに頭を掻いた。
「だが、どうやら私は、色恋の駆け引きというものが酷く不得手らしい」
エレノアは呆気にとられ、言葉を失っていた。
「返事は今すぐでなくていい。いや、断ってくれても構わない」
クライヴは続けた。
「君が今、誰かを愛せるような状態にないことなど、百も承知している」
彼の手が、名残惜しそうにエレノアの指先から離れた。
「ただ、これだけは知っていてほしかったのだ」
「……何を、でございますか?」
「君を選ばなかった男が一人いたからといって、君自身に愛される価値がないわけではない」
エレノアの瞳が、大きく揺らめいた。
「私は、君を誰よりも気高く、美しいと思っている。誠実で、優しく、少し意地っ張りで……他人の痛みを誰よりも知っている女性だと」
「……そんな、買い被りですわ」
「君が笑っていようと、涙に暮れていようと、私のその思いは揺るがない」
エレノアはぎゅっと胸元を掴んだ。
また涙が溢れそうだった。けれど、今度の熱さは、先ほどまでの胸を切り裂くような痛みとは違っていた。
クライヴは立ち上がり、身を翻した。
「今夜は、これで失礼する」
「……もう、お戻りになられますの?」
「ああ。これ以上長居をしては、君の心を急かしてしまうからな」
彼は扉ノブに手をかけたが、ふと足を止めて振り返った。
「……エレノア嬢」
「はい」
「君が七年間、一人の男を一途に想い続けたことを、私は決して愚かだとは思わない」
エレノアの心臓が、跳ねた。
「それほど深く人を愛せる君の心を、私は心から尊敬している」
クライヴは、どこまでも誠実な笑みをその端正な顔に浮かべた。
「だが、次の七年は……どうか、君自身が幸せになるために生きてほしい」
エレノアは、ゆっくりと、深く頷いた。
「……はい」
「そして、もし」
クライヴは一瞬だけ言葉を濁し、紫紺の瞳を揺らした。
「いつか、もう一度誰かの手を取ってもいいと思える日が来たなら……その時は、私にも名乗りを上げる機会を与えてくれないだろうか」
暖炉の奥で、消え入りそうな炭が小さく爆ぜた。
エレノアは、すぐには言葉を紡げなかった。
七年間の恋が終わったばかりの胸は、まだひどく痛み、傷口は生々しい。
新しい愛を受け入れるには、あまりにも時間が足りなかった。
けれど。
「……その日が、いつになるかはわかりません」
彼女は言った。
「それでも、待ってくださるのですか?」
クライヴは、迷いなく頷いた。
「いくらでも待とう」
「……私、まだ上手く笑えないかもしれません」
「それなら、君が心から笑えるようになるまで、何度でも隣にいよう」
「時々、昔のことを思い出して、泣いてしまうかもしれません」
「その時は、この外套を何度でも貸そう」
エレノアは、たまらず小さく吹き出した。
「……閣下は、本当に不器用で、頑固な方ですのね」
「よく言われる」
「でも……」
彼女は、胸の前でクライヴのマントをきゅっと引き寄せた。
「今夜、ここへ来てくださって……本当に、嬉しかったです」
クライヴはしばらく言葉を失い、それから気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……それだけで、十分だ」
---
彼が去った後、部屋には再び静寂が戻ってきた。
暖炉の火は落ち、炉の底には白い灰だけが静かに積もっている。
足元のトランクは、すっかり空っぽになっていた。
エレノアは、その冷えた灰を見つめた。
二千五百五十五通の恋文。
報われることのなかった七年間の祈り。
けれど、それを無駄な時間だったとは、もう思わなかった。
あの雪の夜、確かに救われた命があった。
誰かを一途に想い、胸を焦がした日々があった。
泣きながら便箋を埋め尽くした夜も、すべては自分が懸命に生きてきた証だった。
消し去るべき過ちではない。
ただ、もう一人で抱え込み続けなくてもいい過去になったのだ。
エレノアは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
雨雲はすっかり散り散りに去り、澄み渡った夜空の彼方から、清らかな月光が差し込んでいた。
ガラスに映る自分の顔を見る。
泣き腫らした目元、乱れた髪。
決して完璧な貴族令嬢の姿ではない。
けれど、その瞳の奥には、確かな光が宿っていた。
「……これが、私なのね」
そっと呟き、微笑んだ。
誰かに愛されるために、完璧な人形を演じる必要などなかったのだ。
泣いてもいい。
弱音を吐いてもいい。
誰かの差し伸べてくれた温かい手に、縋ったっていい。
そして何より。
もう、振り向いてくれない誰かの背中を、一人きりで待ち続けなくてもいいのだ。
翌朝、エレノアは机の引き出しから、新しい便箋を一枚取り出した。
七年間、引き出しの奥深くに隠すように書き溜めてきたものとは違う、陽の光を浴びた真っ白な紙。
宛名は、ギルバートではなかった。
『親愛なるクライヴ閣下』
そこまで書いて、エレノアは小さく息を呑み、ペン先を止めた。
それから、ふっと柔らかな笑みを浮かべ、再びペンを走らせた。
『昨夜は、温かいお心遣いをありがとうございました。もしご迷惑でなければ、今度、庭園の散歩にお付き合いいただけないでしょうか』
書き終えた後、彼女の胸は小さく高鳴っていた。
どんな返事が届くのかは、まだわからない。
この先にどんな未来が待っているのかも、知る由はない。
けれど、今度は違う。
この手紙は、暗闇に隠すためのものではない。
自らの意志で、光の中へ、大切な誰かへと届けるための手紙だった。
エレノアは封筒に宛名を記し、侍女を呼んだ。
「この手紙を、レイヴンズクロフト公爵邸へ届けてちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様」
侍女が一礼して部屋を出ていく。
エレノアは窓を開け放ち、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
晩秋の風は凛と冷たかったが、庭の片隅では、厳冬を越えるための小さな蕾が、力強く枝を伸ばしていた。
二千五百五十五通の恋文は、灰になった。
けれど、二千五百五十六通目は。
初めて愛されることを恐れず、自らの足で未来へと歩み出した、希望の手紙となった。
そして、その手紙を受け取った「氷の公爵」が、生まれて初めて見せた満面の笑みによって、公爵邸の騎士たちを腰を抜かすほど驚かせることになるのは――。
もう少しだけ、先のお話である。




