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虚数軸の観測者 ―恋人に認識されなくなった僕が、それでも存在する話―

作者: kai
掲載日:2026/05/04

その街では、誰かの視線から外れたものは、少しずつ色を失っていく。

ヴィルは広場に立っていた。石畳の無機質な灰色と、自分の指先の境目が、曖昧に溶け合っている。


――昨日は、この手で触れられた。


ナギの髪に指を絡めたときの柔らかな熱。笑った拍子に、わずかに肩が揺れる愛おしい癖。

それが、もう遠い。


「ナギ」


呼ぶ。返事はない。

もう一度呼ぶ。喉がひりつく。

声は届かない。空気の中に消えた。

通り過ぎた男の肩が、ヴィルの体を無機質にすり抜ける。


何も起こらない。

男は振り返らない。そこに最初から何もなかったように。


ヴィルはナギの部屋へ向かった。

扉は、鍵さえかかっていないはずなのに、やけに重かった。

室内では、ナギが窓際で本を読んでいる。

午後の光の中で、彼女の輪郭だけがやけにはっきりとしていた。 


「ナギ」

 

近づく。反応はない。


「なあ、聞こえてるだろ」


声が崩れる。

ナギはカップを持ち上げ、静かに口をつける。昨日と同じ仕草。穏やかな日常。

ただ、その風景の中に、ヴィルだけがいない。


ヴィルは手を伸ばした。

彼女の肩に触れようとして――指先が、光のようにすり抜ける。


「……はは」

乾いた笑いが漏れる。


もう一度、今度は祈るように手を伸ばす。それでも、届かない。


「ナギ」


呼び方を変える。二人だけの、秘密の呼び名で。


それでも彼女は、淡々とページをめくる。紙の擦れる音だけが、部屋に響いた。

ヴィルは、彼女の隣に座った。


「昨日の続きだな。そこ、気に入ってたもんな」


返事はない。

けれど、そのときだった。

ページの上で、ナギの指が止まった。

文字のない空白を、何かに誘われるようになぞる。


「……あれ」


小さな声。

ヴィルは息を呑む。ナギの視線が揺れる。何もない空間に、わずかに焦点が合いかける。


「ナギ」


思わず叫ぶ。

今なら、届くかもしれない。


――けれど。


ヴィルは口を閉じた。


もし無理やり自分を認識させれば、彼女の穏やかな「今」を歪めてしまう。


喉の奥で、言葉が止まった。


ナギの指が、ゆっくりと動く。そして、


「……誰か、いた?」


確かめるような声。

名前ではない。ただの違和感。それだけだった。


ヴィルは目を閉じる。


届きかけて、届かない。その絶望が、ナイフのように痛い。

息を吸う。吐く。

もう一度。


意識を、自分の内側へ沈める。外からの観測を拒絶し、自分の中にある感情だけを見つめる。


目を開ける。

自分の手が見える。さっきまでの曖昧さはない。


深く、確かな輪郭。

仮初めではない形。 

自分自身の痛みによって定義された、揺るぎない形。

 

ヴィルは立ち上がる。

ナギはまだ、わずかに空を見ている。けれどやがて、静かに本へと視線を戻す。


ヴィルは、彼女の横を通り過ぎる。

すり抜ける瞬間、ほんの少しだけ、ナギの肩が微風に吹かれたように揺れた。


彼は、振り返らない。

扉を開ける。外へ出る。

広場は相変わらず灰色のままだった。世界はまだ、彼を観測していない。


それでもヴィルは、確信を持って歩き出す。

そのとき。背後で、小さな声がした。


「……ヴィ、」


途中で途切れる。名前にはならない。

それでも、確かにそこにあった。

ヴィルは足を止めない。

ただ、わずかに口元を緩める。

石畳の上に、不自然なほど濃い影が伸びる。


その影だけが、確かな重さと質量を持って、彼に従う。


そしてその影は、春の陽光のように、かすかに温かかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


今作は、現在連載中の『不変の残り香 -Last Memory-』を執筆する中で、私の中に生まれた「もう一つの観測」の物語です。


誰かに認識されることで世界に色が付くのだとしたら、誰からも見られなくなった時、人は何をもって「自分」を証明するのか。その問いに対する、私なりの一つの答えをヴィルに託しました。


エピソード5を公開したばかりの『不変の残り香』とは、また違った手触りのSF(少し不思議な)物語として楽しんでいただけたなら幸いです。


もし、ヴィルの影の温かさを感じていただけたなら、評価や感想などであなたの「観測」を届けていただけると、何よりの励みになります。


次の物語でも、あなたにお会いできることを願って。

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