虚数軸の観測者 ―恋人に認識されなくなった僕が、それでも存在する話―
その街では、誰かの視線から外れたものは、少しずつ色を失っていく。
ヴィルは広場に立っていた。石畳の無機質な灰色と、自分の指先の境目が、曖昧に溶け合っている。
――昨日は、この手で触れられた。
ナギの髪に指を絡めたときの柔らかな熱。笑った拍子に、わずかに肩が揺れる愛おしい癖。
それが、もう遠い。
「ナギ」
呼ぶ。返事はない。
もう一度呼ぶ。喉がひりつく。
声は届かない。空気の中に消えた。
通り過ぎた男の肩が、ヴィルの体を無機質にすり抜ける。
何も起こらない。
男は振り返らない。そこに最初から何もなかったように。
ヴィルはナギの部屋へ向かった。
扉は、鍵さえかかっていないはずなのに、やけに重かった。
室内では、ナギが窓際で本を読んでいる。
午後の光の中で、彼女の輪郭だけがやけにはっきりとしていた。
「ナギ」
近づく。反応はない。
「なあ、聞こえてるだろ」
声が崩れる。
ナギはカップを持ち上げ、静かに口をつける。昨日と同じ仕草。穏やかな日常。
ただ、その風景の中に、ヴィルだけがいない。
ヴィルは手を伸ばした。
彼女の肩に触れようとして――指先が、光のようにすり抜ける。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
もう一度、今度は祈るように手を伸ばす。それでも、届かない。
「ナギ」
呼び方を変える。二人だけの、秘密の呼び名で。
それでも彼女は、淡々とページをめくる。紙の擦れる音だけが、部屋に響いた。
ヴィルは、彼女の隣に座った。
「昨日の続きだな。そこ、気に入ってたもんな」
返事はない。
けれど、そのときだった。
ページの上で、ナギの指が止まった。
文字のない空白を、何かに誘われるようになぞる。
「……あれ」
小さな声。
ヴィルは息を呑む。ナギの視線が揺れる。何もない空間に、わずかに焦点が合いかける。
「ナギ」
思わず叫ぶ。
今なら、届くかもしれない。
――けれど。
ヴィルは口を閉じた。
もし無理やり自分を認識させれば、彼女の穏やかな「今」を歪めてしまう。
喉の奥で、言葉が止まった。
ナギの指が、ゆっくりと動く。そして、
「……誰か、いた?」
確かめるような声。
名前ではない。ただの違和感。それだけだった。
ヴィルは目を閉じる。
届きかけて、届かない。その絶望が、ナイフのように痛い。
息を吸う。吐く。
もう一度。
意識を、自分の内側へ沈める。外からの観測を拒絶し、自分の中にある感情だけを見つめる。
目を開ける。
自分の手が見える。さっきまでの曖昧さはない。
深く、確かな輪郭。
仮初めではない形。
自分自身の痛みによって定義された、揺るぎない形。
ヴィルは立ち上がる。
ナギはまだ、わずかに空を見ている。けれどやがて、静かに本へと視線を戻す。
ヴィルは、彼女の横を通り過ぎる。
すり抜ける瞬間、ほんの少しだけ、ナギの肩が微風に吹かれたように揺れた。
彼は、振り返らない。
扉を開ける。外へ出る。
広場は相変わらず灰色のままだった。世界はまだ、彼を観測していない。
それでもヴィルは、確信を持って歩き出す。
そのとき。背後で、小さな声がした。
「……ヴィ、」
途中で途切れる。名前にはならない。
それでも、確かにそこにあった。
ヴィルは足を止めない。
ただ、わずかに口元を緩める。
石畳の上に、不自然なほど濃い影が伸びる。
その影だけが、確かな重さと質量を持って、彼に従う。
そしてその影は、春の陽光のように、かすかに温かかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今作は、現在連載中の『不変の残り香 -Last Memory-』を執筆する中で、私の中に生まれた「もう一つの観測」の物語です。
誰かに認識されることで世界に色が付くのだとしたら、誰からも見られなくなった時、人は何をもって「自分」を証明するのか。その問いに対する、私なりの一つの答えをヴィルに託しました。
エピソード5を公開したばかりの『不変の残り香』とは、また違った手触りのSF(少し不思議な)物語として楽しんでいただけたなら幸いです。
もし、ヴィルの影の温かさを感じていただけたなら、評価や感想などであなたの「観測」を届けていただけると、何よりの励みになります。
次の物語でも、あなたにお会いできることを願って。




