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09 君の正体は××ですか?

少しだけ残酷な描写があります。苦手な方はお気をつけ下さい。

 やがて季節は七月を通り過ぎ、八月に突入した。八月に入ると、皇城内は見事に慌ただしくなってきた。

 選び抜かれた二十名ほどの地方貴族令嬢たちが城にやってくるまで半月を切ったため、彼女たちを迎える準備でどの部署も毎日てんてこ舞いだった。


 さて私はと言えば、令嬢たちのおかげでここから正式な愛妾に繰り上がることはないと判断されたのか、積極的に仕事を任されるようになった。仕事が少ないと、給料泥棒をしているようで落ち着かなかったので、ありがたい変化である。どんな雑用だとて、進んでやる心意気だ。


 仕立て上げられたばかりの衣装が隙間なく詰め込まれたずっしりと重い箱を二段重ねにし、少々よろよろしながら回廊を歩いていると、突然横から箱が一つかっさらわれた。

 何事だろうと仰天しつつ隣を見れば、いつの間にか真横に、背の高い将軍さまが立っていた。


 赤茶けた髪を肩まで緩く伸ばし、にこやかに微笑む彼の名は炎雨林(エンウリン)(エン)家という、ハクレイの(ゲツ)家に匹敵する名家の生まれで、将軍位についている、兄とハクレイの友人だ。

 誰に対しても「気さく」を通り越した、やや軟派な態度で接する人で、男性からの人気も高いが、特に女性たちから熱狂的に支持されている。兄やハクレイなど、皇城内の他の主立った美形が女性と距離を置いているのに対し、この人はむしろこの人の側から積極的に女性に絡みにいくからだ。しかし婚約者も好きな相手もいないと公言している割に、身持ちは堅いらしく、彼に不誠実に弄ばれたという噂話は一度も聞いたことがなかった。


 ――仕事として毎日宮にやってくるハクレイとは違い、この人と会ったのは一度きりだ。愛妾候補として洗濯女中から女官に引き上げられた際、挨拶という名の品定めにやってきた。

 それ以降まったく関わりがなかったのに、一体何の用だろうと思ったら、将軍さまは明るく言う。


「やぁ、重そうだね。運ぶの手伝うよ」

「……どうも」


 親切心全開で言われてしまったら、断ることはできなかった。重くて思うように歩みが進まず、困っていたことも確かだし。

 しかし夕方の、回廊を行き来する人の少ない時間で助かった。こんなところを不特定多数の人間に目撃されて、変な噂を立てられたらたまらない。最近は随分落ち着いたとはいえ、ただでさえ私は兄の件で、不必要に目立ってしまっていたから、これ以上変に目立つのは避けたかった。


「これ、どこに運べば良いの?」

「こっちです。ついてきて下さい」

「わかった。それにしても大変だねぇ、こんなに重い箱を運ばなくちゃいけないなんて。そうだ、今度からうちの隊の武官使って良いよ。いい訓練になるだろうし」

「ありがとうございます」


 半歩遅れで私についてきながら、将軍さまはあれやこれやと話しかけてきた。知らなかったが、随分お喋りな性質(たち)らしい。兄の友人とはいえ、特段仲良くする気もないので、淡泊な返事を返し続けているのに、将軍さまはめげなかった。

 根気強い、と呆れると同時に感心しながら、両手で重い箱を持ち、長い長い回廊をまっすぐに歩き続けていると、ふと、あることに気づいたらしい将軍さまが、足を止めて訊ねてきた。


「……ねぇアンジュちゃん、今日暑いよね?」

「? はい、暑いですね。今年は猛暑らしいですし、中でも今日はとりわけ暑いと思いますが」


 大事な箱の片割れを手にしている将軍さまが足を止めてしまったので、私も足を止めざるを得ない。振り返って将軍さまを見つめると、将軍さまはついさっきまで浮かべていたにこやかな表情を消し、真顔になっていた。武を極めし者の真顔は、さすがに迫力がある。本能的な怖さを感じてしまったのだろう、無意識のうちに、一歩後退っていた。

 そんな私に気づいて、将軍さまがぱっと表情を明るいものに戻す。


「ああごめんね、怖がらせるつもりはなかったんだけど、どうしてそんなにきっちり着込んでるんだろうって、気になっちゃって。確か今年は暑すぎて、見苦しくない程度に襟元を緩めたり、袖をまくったりして行動することが認められてたはずだよね?」

「あー……」


 皇城内の規則は厳しい。当然、使用人階級の衣服の着崩しも認められていないが、将軍さまの言う通り、今年はあまりの猛暑ゆえ、特例として袖をまくるなどの行為が許されていた。

 なんと答えるべきか、私は迷った。

 確かに私は他の女官たちがしているように、襟元を少々緩めたり、両の袖をまくり上げたりもしていない。それができない、事情があった。


 どう返事しようかと躊躇っていたら、彼が突然目を剥いた。少し首を動かした拍子に、襟元の爛れた傷跡が目に入ってしまったようだった。十六歳といううら若き年齢の乙女(むすめ)にあるにはふさわしくない、思わず目を背けたくなるような、醜い醜い傷跡だった。

 ああ、気づかれてしまった。私はひっそり溜息をついた。


「どうしたの、それ……⁉」


 私はできるだけ、なんでもなかったような声音で説明できるよう、努力した。


「……別に、大した話ではないですよ。私の全身――と言っても主に背中ですけど、傷だらけなんです。以前仕えていた家のご令嬢に、こっぴどくやられまして。とても人様にお見せできるような身体ではないので、露出は極力避けているんです」


 死を偽装され、地方へと逃がされた私は後宮で私たちを支えてくれていたとある下男の親戚夫婦の養子になり、彼らの主人であった小金持ちの優しい老人に仕える手筈となっていた。

 けれどその計画は、途中で完全に狂ってしまった。私がその地方に辿り着いた途端に、何の因果か老人が急死してしまったのだ。老人に跡取りや親戚はおらず、屋敷は解体されることなった。だから私は仕方なく養父たちと共に、別の屋敷で――その州でもっとも権勢を誇る風家(フウけ)の屋敷で働くことになった。


 ――それが私の、運の尽きだった。


 風家当主には私の一つ下の、風可憐(フウカレン)という娘がいた。彼女は勝ち気な美人で、両親に溺愛されていて、そして使用人のことを人と思っていなかった。

 屋敷に同性の子どもがいなかったこともあり、私はすぐに風可憐に目をつけられて、十三歳になった私が兄と母に会うため夜逃げを図るまで、彼女の玩具として嬲られ尽くした。

 私のうなじから背中一面、そして太腿の辺り一帯を見事にダメにしてくれたのは、他ならぬ彼女だった。

 できれば永遠に忘れてしまいたいほど、苦しく辛い思い出。平静に説明できるかどうかだけに気をとられていた私が、自然と俯き加減になっていた顔を上げると、将軍は見事に顔色を失っていた。

 おかしな話だ。

 おかしくて思わず笑ってしまう。実際に剣を取って戦っている彼の方が、もっとひどい傷跡を知っているだろうに。


「何か、ひどい粗相でもしたの?」


 震える声で訊ねられ、私はゆっくりと(かぶり)を振った。


「いえ、ただのご令嬢の気分です。鞭で叩かれるのは日常茶飯事で、火かき棒を押し当てられたこともありましたよ」


 あまりの痛みに死にかけたので、火かき棒を押し当てられたのは二回だけだったが、そのどちらのあとも、焼き印のように、呪いのように綺麗に残ってしまっていた。そして今でも、時折じくじくと痛んだ。


「何歳から、何歳までの話?」

「七歳から、一三歳までの話です。その間、徹底的にやられました。……そんな顔、しないで下さい。はじめて仕えた家の主人の娘が大外れだったなんて、大して珍しい話じゃないでしょう?」


 できるだけ明るく言ってみたが、将軍の顔色の悪さは何も変わらなかった。

 さすが兄と月柏怜(ゲツハクレイ)の親友なだけある。他人の痛みに心から共感できる、優しい人。

 それから将軍は躊躇うように視線を彷徨わせ、やがて恐る恐ると言った様子で口を開いた。


「君が陛下の――カイエンの愛妾になるのを拒んでたのって、その身体を見せるのが嫌だったから?」

「いえ、違いますよ」


 普段は衣服で隠せていても、湯浴みのときにはどうしても露わになる。下女をしていたときも、女官になった今も、皇城にいる以上、必ず共用の風呂場を使わねばならない。だからどれだけ人の多い時間を避けたとしても、必ず誰かにこの傷跡を目撃されてしまう。そのため、将軍が述べたような理由で愛妾の地位を拒んでいると思っている人も、少なからず存在するようだった。

 私は静かに、言葉を重ねた。


「カイエンさまは身体に傷があることを気にされる方ではありませんし、それにとっくにご存じなんです。この傷のこと。だから、カイエンさまにはすごく感謝していて」


 どうしてだろう。真剣に話を聞いてくれているからか、炎雨林などどうでもいいからか、つい口が滑ってしまう。こんなことをこの人にこぼしても、仕方がないのに。でも同時に、聞いて欲しいとも思う。

 私の大好きな兄の、優しい話。


「……私がカイエンさまと出会ったのは、耐えきれず、屋敷から逃げ出したあとのことです。……当時は自覚がなかったんですが、長くひどい扱いを受けていたせいで、身体だけではなく心もとても傷ついていたみたいで。今だって、能面みたいな顔をしているでしょう? ちゃんと動かしたいと思っているんですけど、意志に反して表情筋があまりよく動いてくれないんです。でも一時よりはずっとマシになりました。――当時は、本当に笑えなくて、無表情で、カイエンさまには随分心配をかけました」


 昔の私は相当感情豊かだったのに、極限まで追い詰められていた私は兄に対しても心を閉ざしたような話し方しかできなかったから、兄は相当な衝撃を受けていた。

 ごめん、守ってやれなくてごめん、ああ、こんなことになるなら後宮から出すんじゃなかったと、兄は私を抱き締め、何度も何度も涙を流しながら謝罪した。結果的にこうなってしまっただけで、兄には何の非もなかったというのに。

 ……兄は優しくて、そして現実的な人だったから、自責すると同時に、必死で粉々に踏みつけられた私の心を修復してくれた。


『アンジュ、大丈夫だ。今度は必ず俺が守ってやるから。だからもうそんな喋り方はしなくていい。俺はおまえが何をしでかしたって、絶対におまえを傷つけないから』


「――――…………」


 兄は兄の恋人の、そして私の太陽だった。

 兄があのとき私の前に現われて、あの鮮烈な輝きで私の人生を明るく照らし出してくれなかったら、私はいつまでも先のない、絶望の()を彷徨い歩くしかなかった。

 だから私は兄に深く感謝していて、兄とその唯一である兄の恋人のために、できることはなんでもしてあげたいと思っていた。

 将軍さまが躊躇うように口を開く。


「……俺の聞いていた話と少し違うね。カイエンは君を命の恩人だと言っていた。皇城から追放された際、君に助けてもらったと」


 私は薄く笑ってみせる。


「律儀な人だからそう言っておられるだけで、私がカイエンさまにしてあげられたことなど何一つありませんよ。私の方がずっと助けられっ放しです」

 

 兄に余計な自責をさせたくなくて、実は身体の傷についてはしばらくの間黙っていた。だが、痛みに顔を歪めているのを見られて知られてしまい、「どうして隠していたんだ‼」とこっぴどく叱られた。

 それから兄は生きていくための金を稼ぐため、そして異母兄たちの目を欺くために行商の真似事をする傍ら、評判の医者や薬師のもとを訪ね歩くようになった。どの医者にも薬師にも、この傷跡は一生治らないと断言されてしまったが、それでも少しでも癒えるように、醜悪な傷跡がマシなものになるように、大枚をはたいて医者や薬師に診せ、高い薬を惜しげもなく購入してくれた。


 おかげで傷跡は少しはマシになってくれたけれど、相変わらず人様にはなかなかお見せできない様相を呈している。

 だから私はもう一生、誰とも結婚する気はなかった。


 だってこんな無残な身体、誰が躊躇わずに愛してくれるというのだろう? 


 醜い傷跡だらけの女を、あっさりと受け入れてくれそうな器の大きい人物なんて、私は兄くらいしか思い浮かばない。だが兄と私は血の繋がった兄妹だから、天地がひっくり返っても結婚なんてしない。できない。

 赤々と燃える夕日に染め上げられた将軍さまは、途方に暮れたような声で、呟くように言った。


「――カイエンが君を気にかけるのって、その傷が原因だったりするの?」

「……まあ、そうなんじゃないですか?」


 本当は血の繋がった、仲良しの妹だからですよ、とは答えてやらない。

 それだけじゃ、ない気がするけど、とぽつりと呟いて、将軍さまは黙り込んでしまった。

 しかしいつまでもここで立ち止まっているわけにはいかない。私が「そろそろ行きましょう」と先を促すと、将軍さまは大人しく後ろをついてきてくれた。

 元来お喋りな性格なのか、しばらくすると将軍さまはまたぽつぽつと他愛ない会話をはじめた。適当に相槌を打ちながら、奥へ奥へと歩いて行く。

 

 此度の目的地は城内で開かれる宴や祝いの席で、音楽を提供する楽人たちの集う場所だ。

 休憩時間なのか、それとも本日の仕事は終わって解散しているのか、いつもなら絶えず美しい楽器の音がこぼれているのに、今日はやけに静かだった。

 人気もなく、針を落としても聞こえそうなほど静まり返った回廊を歩いていると、不意に風に乗って、ゆっくりとした拍子の琴の音が聞こえてきた。実に簡単そうに聞こえる冒頭部。誰かが自主練習をはじめたようだった。

 すっかり調子を取り戻したらしい将軍さまが、旋律に耳を傾けながら、何気ない口調で言った。


「いい音だね。そうだ、アンジュちゃんはさぁ、音楽に興味ないの? アンジュちゃん器用そうだし、この曲とか、練習すればすぐに弾けちゃいそうだよね」


 その言葉に私はぎょっとして足を止め、将軍の方を振り返った。


「――瑞鳳(ずいほう)の二番を? 冗談でしょう」


 この曲が簡単なのは最初だけだ。進めば進むほど高度な演奏技術が要求されるこの曲は、ある特別なときにしか演奏されない、特殊な超絶技巧曲。一流の奏者たちはいつ訪れるかもわからないそのときに備え、毎日必死で練習を続けている。


「瑞鳳の二番なんて、たとえ一年間死に物狂いで練習したとしても、物にできませんよ。大体、私はそれほど器用じゃありませんし」 


 とんでもない誤解に思わず即座に否定の言葉を口にしてしまったが、将軍の()を見た私は「しまった」と心から後悔した。

 形だけは優しい笑みが刷かれているものの、彼の鮮やかな鳶色の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。

 そこにいるのは誰にでも気さくで優しい炎雨林ではなく、皇帝の敵になるものは絶対に排除するという強い意志を持った、将軍・炎雨林だった。


 ――はめられた、と私は思った。


 思わぬ形で見つめ合い、そして動けない。


「――どうして知ってるの?」


 先ほどまでの温かみのある声とは違い、尋問されているような――、冷たくて、距離感のある声だった。炎雨林は無機質な瞳で私を見下ろしたまま続ける。


「この曲が瑞鳳の二番だって、どうして知ってるの?」

「…………」


 私は答えない。答えられない。


「祝い曲、瑞鳳の一番は有名だよ。祝い事の種類を問わず、めでたいことがあれば必ず演奏される曲だからね。――でも二番は違う。一日練習を怠れば、次の日には弾けなくなっていると言われるほど難易度の高い曲で、担当の奏者たちが毎日弾き込んでいるから、日常的に城に出入りするような――貴族階級の人間なら頻繁に耳にしている。けれど瑞鳳の二番は本来、皇帝陛下即位の際にしか演奏されない、庶民にとっては一生に一、二度耳にできるかどうかの特別な曲だ。――普通下働き出身の女の子はこの曲を知らないよ。……ましてや、今流れている瑞鳳の二番の冒頭部は、瑞鳳の一番と酷似している。曲の冒頭部だけを聴いて、何の迷いもなく瑞鳳の二番だと言い切れる女の子が、ただの庶民であるわけがない」

「――はめましたね?」

「……はめたつもりはないよ。鎌をかけたら、君が勝手に引っかかってくれただけ」

「……そうですか」


 湧き上がってくる不愉快さに、どうしようもなく顔が歪む。

 ともあれ、炎雨林は疑っている。私のことを疑っている。その出自に、疑問を持っている。だぁれも気づく気配がないので、炎雨林もその類だろうと舐め切っていたが、腐っても将軍なのかもしれなかった。

 鮮やかな夕日が世界を染め上げる中、私たちはどちらも視線を逸らさなかった。皇城にいる以上、兄がそれを許しはしないだろうが、たとえ拷問にかけられたとしても私は何も喋りません、という確固たる意志で対峙していると、将軍さまは警戒を緩め、困ったように頭を掻いた。


「ああ、ごめん。君の正体を暴いて、罰してやろうと思っているわけじゃないんだ。――俺の予想では、君は人知れず生まれた末端の皇族の()か何かで、事情があって、カイエンが君を匿っているんじゃないかと思って。カイエンとは友人でもあるから、本当にそういう事情があるなら、俺にも何か手伝えないかと思ったんだ。そのためには、君の事情――というか正体をちゃんと知っておいた方がいいな、と思って、ちょっと近づいて鎌をかけてみただけだから、そんなに警戒しないでほしい」

「……炎雨林さまは私の正体を、末端皇族だと?」

「う、うん。だって他に考えようがなくない? 皇族なら男女問わず皇城に上がれるけど、貴族令嬢は滅多なことでは皇城に入れないから、瑞鳳の二番なんて知らないと思うんだよね」


 その瞬間、私は炎雨林に対する警戒を完全に解いた。


「……ふっ、あははは! はっ!」


 私にしては滅多にないことだが、腹の底から笑いがこみ上げてきて止まらない。

 ああダメだ、面白すぎる。皇族の娘というところまできて、そこまできて正解に辿り着けないなんて!

 こんなに面白いことが、世界に他にあるだろうか?


 私はたまらず磨き抜かれた回廊に重い箱を置いて、気の済むまで笑った。

 炎雨林は突然笑い転げはじめた私に呆気に取られていたが、やがて気まずそうな顔で、笑い続ける私に訊ねた。


「えーっと、大外れな推理だった?」


 私は首を横に振る。


「いいえ、当たらずといえども遠からずというところです。……結構いい線いってますよ」


 だからこそ余計おかしいのだが。

 だが炎雨林が私の正体に気づくことができないのは、ある意味で当然だった。

 炎雨林は、公主だった私に会ったことがない。

 子どものころは今と違って大層身体の弱かったという炎雨林は幼い頃は療養のため、遠い地方で過ごしており、私が後宮を脱出したのと入れ替わるようにして、皇都に戻ってきたからだ。公主だった私を見知っているはずの高官たちでさえまったく気づいていないのだから、炎雨林が私の正体に辿り着けないのは仕方がない。

 訳のわからない将軍さまは、気まずそうな顔のまま、ぽつりと呟くように言った。


「それでそれだけ笑われるって、何だか複雑なんだけど……」

「いいじゃないですか。私はさっきより断然、炎雨林さまのことを好ましく思いましたよ」


 それは本心だったが、ある意味で私も複雑だった。

 こんな鈍い人が側近で、兄は大丈夫なのだろうか?

 善良であるのは美徳だが、くれぐれも兄の足だけは引っ張らないで欲しいと私は強く思った。


 炎雨林とは箱を届け終わった時点で別れたが、そのときもまだ知らない誰かがすぐ傍で、瑞鳳の二番を演奏し続けていた。

 公主時代に散々耳にした懐かしい曲を背に、私は来た道を静かに戻った。

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