08 兄である皇帝陛下が必死に結婚を迫られているそのわけは
翌日。
私はいつも通りに宮の前の廊下に立っていたハクレイに、「妃候補の女性たちが城に上がるそうですね」と振ってみた。昨日は兄の訪れがなく、直接兄に訊ねることが敵わなかったのだ。
単純に兄を心配しての質問だったのだが、私の言葉にハクレイはみるみる顔を青ざめさせ、「申し訳ありません!」と深く頭を下げてきた。その拍子に彼の月光のように美しい銀髪が床についてしまい、私は慌てた。
「いえ、別に謝って欲しいわけでは……! どうか顔を上げて下さい。御髪が汚れてしまいますよ」
折角綺麗な髪なのですから、とつけ加えると、顔を上げた月柏怜は、まだ子どもだった彼が自ら買って婚約者に捧げたということで有名な、死んだ婚約者とお揃いの簪でまとめた髪の毛先をひとつまみし、嬉しそうに、そして寂しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。髪の手入れだけは、どんなに忙しくても怠らないようにしているのです。……昔、姫が、美しい髪だととても熱心に褒めて下さいましたので……」
……婚約者だった姫は、どうやら月柏怜の心を完全に奪い去っていってしまったようだった。この人は未だに捕らわれている。この世にはもういない最愛のお姫さまに。
反応のしようがなく、なんとも言えない表情をしていたらしい私に気づいたハクレイが、「しまった」という顔をした。
「すみません、つまらない話を聞かせてしまって。……しかもついこの間、忘れろと言われたばかりなのに」
後半の言葉は、自分に言い聞かせたかっただけなのか、耳をよく澄まさないと拾えないほどの小声だった。しかし聞こえてしまったものだから、私もなんだか気まずくなる。
とりあえず、私は言った。
「つまらなくはなかったですよ。大事な思い出話なら、大切に胸に閉じ込めておいた方がいいとは思いましたけど」
私の言葉に、ハクレイが軽く目を見開く。
「アンジュ殿は、大切な思い出は人に話したくない派ですか?」
「そう聞かれてしまうと困りますけど……、そうですね。きっとそうなんでしょう。不用意に人に話して、無神経に思い出が汚されたらと思うと、耐えられないんです。……私もこの間ハクレイさまにやってしまいましたが」
後悔はしていないし、正しいことを言ったとそう思っているけれど、傷つけた自覚はあった。謝罪めいた言葉を吐くと、ハクレイは途端に柔らかく笑った。
「私はアンジュ殿の、そういうところが好ましいと思います」
「は……っ⁉」
美形の予期せぬ言葉に、私は思わず顔を赤らめてしまう。だが赤々と燃える夕日のおかげで、顔色の変化には気づかれなかった。
ああ、そこに他意がないことはわかっていても、美形の自然な微笑み付きの褒め言葉はとかく心臓に悪い。
私は心臓をバクバク跳ねさせたまま、懸命に呆れ返った顔を作り、ハクレイに忠告した。
「前にも言いましたが、あまりそういうことを軽々しく人に――特に女性には言わない方がいいですよ」
そう言うと、ハクレイが鮮やかに笑う。
「大丈夫です。私も前にも言いましたが、他の方には言いません。自分でも言うのもなんですが、人気があるのは知っておりますから。アンジュ殿は私に興味がありませんし、それに……」
「それに?」
「アンジュ殿の前ではつい口が軽くなると言いますか……。ついつい思ったことをそのまま口に出してしまいます」
「……はぁ、そうなんですか」
「ええ、アンジュ殿は、なんだか不思議な方ですから」
「……………………」
何も言葉にはしなかったが、「言っている意味がわからない」とはっきり顔に出てしまっていたのだろう。ハクレイは灰がかった青の瞳で私を見つめながら、一体どういうことなのか、自分でもよくわかっていないらしい気持ちを口にした。
「アンジュ殿の前ではついぽろぽろとこぼしてしまっているので、信じていただけないかもしれませんが、私とて大切な姫との思い出話を、誰彼構わず語るわけではないのですよ。私もどちらかというと、他人に思い出を語るのが嫌な性質の人間なので。……でも、どうしてなのでしょう。アンジュ殿にはつい話してしまいます」
「……それは不思議なことですね。特に雰囲気が似ているというわけではないのでしょう?」
なんとなくイラっとしたので、意地悪く突っ込んで聞いてやると、月柏怜は露骨にたじろいだ。しかしなんとか言葉を返さねば失礼だ、と思ったらしい優しい彼は、懸命に言葉を選び、選び、返事をしてくれた。
「そう、ですね。姫は幼かったこともあり、とてもお転婆で無邪気な方でしたから、落ち着いた雰囲気のアンジュ殿とはかなり性格が違われましたね」
でも、優しいところはよく似ておられますよ、と、過去をなぞるように微笑まれて、私は何も言えなくなった。
ああ、本当に、亡くなった姫はどこまで深く彼の心に根を張っているのだろう。
考えるとどうしても胸が痛む気がして、私は「それで、妃候補の方々が城に来るというお話ですが、」と無理矢理話題を戻した。
「婚部の発案だとお聞きしたのですが……、見た感じ、ハクレイさまはあまり乗り気ではないようですね」
月柏怜は、明らかに苦い顔をしていた。
「ええ、アンジュ殿に打診をしている最中ですので、アンジュ殿に対してとても失礼な行為だと申し訳なく思っております」
「私は構わないんですけど、その様子では、今回のことを取り決めたのはハクレイさまではないようですね」
「ええ」
ハクレイは、苦い顔のまま頷いた。
周囲を確認し、他に人がいないことを確認してから、ハクレイが内情を打ち明ける。
「一応私が婚部の長ということになっておりますが、実際には私よりも権力のある年配の方々が数名おられまして、今回の件はその方々の発案なのです。強固に反対したのですが、他に方法がないだろうと、押し切られてしまって……。私が不甲斐ないせいでアンジュ殿にもご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳なく思っております」
「いえ、ですから、私は構わないんですけど。……なんというか、大変ですね、ハクレイさまも」
歳を食った老獪な臣下が厄介であることは、公主時代から悟っていたので、私はハクレイに心からの同情を寄せた。
哀れむ私に、いつもピシッと姿勢良くたたずんでいるハクレイも、ええ、正直疲れましたと言わんばかりに、少しだけ背を丸めた。
二十二歳という若さで一部署の長にまで上り詰め、おまけに家柄にも美貌にも恵まれた彼だが、多くに恵まれた彼を妬む者は少なくない。だからこそ、迂闊に弱音を吐くことも、気を抜くこともできないでいることだろう。
うっかり愚痴もこぼせないなんてかわいそうに、と思ったが、私にどうこうしてやれることではなかったので、私は別の、踏み込んだ質問をした。
結婚を拒否し続ける兄を、婚部の人間たちがどう捉えているのかを知りたかった。
「婚部の方々は焦っておられるのですか?」
私の質問に、ハクレイがわずかに表情を変えた。顔を強張らせ、背筋を正して、「ええ」と短く答える。私はさらに言葉を重ねた。
「――陛下が未婚で、子がいないから?」
ハクレイはこの質問で私が何の情報を得たいのかを探るように、真面目な瞳で私を見たが、能面のように表情の変化の少ない私の顔からは何も読み取ることができなかったらしい。
諦めたように一つ溜息をついたかと思うと、腹にぐっと力を込め、声を潜めて答えた。
「……アンジュ殿を信頼してお話ししますが、一番の問題は他に直系皇族の方々がいらっしゃらないことです。先帝陛下のご兄弟も御子が出来る前に亡くなられてしまいましたし、カイエンさまのご兄妹も全員、子を持たずして亡くなられましたから」
「…………」
――そうだ。皇帝位しか欲していなかった異母兄たちは、女遊びなどには目もくれず、皇帝になるためだけに毎日必死に争っていた。だから子を残していてもいい年齢だったのにも関わらず、一人も子を残さないまま死んでしまった。
ああ、と強い怒りがふつふつと湧く。
異母兄たちの誰か一人でも、子を残しておいてくれたら良かったのに。散々私と兄にひどい行いをしてきたのだから、それくらい、役に立ってくれても良かったのに。
私の怒りなど知らず、ハクレイが説明を続ける。
「カイエンさまは、自分が死ぬまでに皇帝に頼らない新しい政治制度を作るか、傍系の誰かを教育するよう仰っていますが、現状、このどちらも現実的とは言えません。新しい政治制度を作るとなると、相当な混乱が起きてしまいます。何代もかけて進めていけば可能でしょうが、カイエンさまの次の代から、となるとやはり性急です。そして傍系皇族の方々の中には、誰もが納得するような人物がおりません。どの方も、とにかく血が薄すぎる。せめて、せめて他の直系皇族の方が生きておられて、その方に子があれば、カイエンさまにここまで強く婚姻を迫らずに済んだと思いますが……」
……月柏怜と兄は親友だと聞く。だからこそ、月柏怜も苦しんでいるようだった。親友に、望まない結婚を強要しなくてはならないことを。
「……どうすれば、全員が出来るだけ幸せに生きられるんでしょうね」
国を存続させるために人生を捧げることを決めた兄。
兄を純粋に、そして深く愛し続ける、兄の恋人。
私は二人共に幸せになってほしいけれど、二人には結婚できない事情があり、兄の立場を考えると、このまま兄が未婚で居続けるのはかなり難しいことだった。
思わずこぼしてしまった私の本音に、ハクレイは何も言ってくれなかった。兄に結婚を勧めなくてはならない立場にあるハクレイが一番、答えられないのかも知れなかった。




