05 私が深く忘れ去られた原因と、身分の回復を望まない理由
その日の夜遅くに兄が宮にやって、卓に着くなり、「ハクレイを盛大に傷つけたらしいな」と苦笑した。
同じ卓に着きながら、私は心外な、というふうに眉を寄せる。
「あの人を傷つけたのは、私だけじゃないでしょう。止めを刺した自覚はあるけど」
それよりどうして知っているのだ、と問えば、兄は私の宮に持ち込んでいた秘蔵の酒を杯に注ぎながら、軽い口調で言った。
「執務室に来たハクレイがあんまり暗い顔をしてたんでな。エンと二人でしつこく問い質したら、白状したんだ。おまえに婚約者のことを忘れろと言われたとな。……誤解するなよ。ハクレイの口は堅い。口を割ったのは、相手が俺とエンだったからさ」
「……知ってる」
溜息をつくように、私は答えた。
真面目を絵に描いたような男、それが月柏怜だから。
……エン、というのは、ハクレイの月家と並ぶ名門炎家の出身で、兄と同い年の二十四歳の炎雨林のことを指す。二十四歳という若さで将軍位についている彼は、ハクレイと同じく、兄の気の置けない友人の一人でもあった。公主としての私が死んだあとにはじまった付き合いらしいので、くわしいことは知らないが、三人はとても仲がいいらしい。親友と呼んで差し支えないくらいに。
――それでも兄は、恋人がいるという秘密を、恋人に関する秘密を、私が妹だという秘密を、彼らにも明かしていない。
彼らを信頼していないわけではない。だが秘密というのは知る人間が少なければ少ないほど守られる。
そして私はともかく、兄の恋人についてはなんとしてでも隠し通さねばならない事情があった。ゆえに兄はこの件については私しか頼ることができず、私との仲を噂されるのを承知で――そのために愛妾話がややこしくなるのを承知で、私の部屋を訪れていた。
小腹が空いた私は、数日前に兄が持ってきたせんべいをかじり、茶を飲みつつ、淡々と続けた。
「……間違ったことを言ったとは思ってないよ。忘れた方がいいでしょう。覚えていたって仕方のないことだもの。……それより、ハクレイさまの前で『妹』という単語を出してみたけど、特に反応がなくて。本当にみんな、公主のことを忘れてしまったみたい」
その言葉に、兄がぴたりと酒を飲む手を止めた。
「……寂しいか?」
窺うように問われ、私はふるふると首を横に振った。
「いや、身分の回復を望んでいるわけじゃないから、この方が都合がいいんだけど。ただ、名前もほとんど変わらないし、瞳の色もかなり珍しいのに、誰にも気づかれないから、時々私は本当に公主だったのかなって、疑いそうになるというか。……昔の私って、そんなに存在感がなかったっけ? 今よりはあったと思うんだけど」
その部分はだけ本当に不思議だった。洗濯女中をやっていたときは、公主だった私を知っている可能性のある貴族や高官、あるいは高い地位にある女官や侍従たちとはすれ違うことさえなかったので、特に警戒していなかったが、前述した立場の人間と出会う可能性の高い女官へと引き上げられたので、相当警戒していたのに。拍子抜けもいいところだった。
兄は、思い切り苦笑して、「それは間違いなく、父上のせいだ」と言い切った。
私は兄の言いたいことがいまいち理解できなくて、ぱちりぱちりと瞬きをする。
これだけは今も変わらずに明るい杏色の瞳と、穏やかな色を湛えた兄の黒曜石の瞳とが、ばちりとぶつかり合った。
「おまえが死んだあと、父上は大層お嘆きだったんだ。簡単に想像がつくだろう? 父上はおまえを溺愛していたから」
「まぁね」
父は妃たちも含めて基本的に人を深く愛さない人だった。感情がない、とか、情が薄い、というのとは違う。
皇帝というこの国の最高権力者であった父にとって他人とは、自分の役に立つか否か、それだけの、いくらでも換えの利く存在だった。だから他人に対して大した執着を持たず、ゆえに寵臣もいなければ寵妃もいなかった。
そんな父の性格を周囲もよく知っていたからこそ、父の私への寵愛振りは尋常ではなく目立っていた。
謎解きの答えを明かすように、ややもったいぶった調子で、兄が続ける。
「だから、俺と母上以外が慰めの言葉をかけたり、おまえの話を持ち出したりすると、烈火のごとくお怒りだったんだ。『おまえに公主の何がわかる!』と、叩き斬らんばかりの勢いだった。だから誰もが自然と、かわいい公主さまの話をしなくなっていったのさ。……許してやってくれ。深く沈めた記憶が浮かび上がるまでにはどうしても時間がかかってしまうからな」
暗にしょうがないことなのだ、という兄に、私は精一杯微笑んでみせた。
「気にしてないよ。皇位継承権も持たなかった公主なんて、特に重要でもないしね」
「アンジュ」
自分をつまらないもののように扱うな、というように兄が語気を強めたが、私は無視した。事実だったから。
話題にされない出来事は、すぐに忘れ去られていく。父帝の子どもは私を含めて六人だったが、人々の頭の中ではとっくの昔に五人に改竄されて、それで定着してしまったのだろう。
よかった、と胸を撫で下ろす。これなら、いくらこの名前で、この瞳で臣下たちと接触しても、きっと何一つ疑われることはないに違いなかった。
私の発言に怒った様子を見せていた兄だったが、しかし何故か唐突にやっと笑った。
「――お兄さまが身分を回復させてやろうか?」
「! 冗談でしょ?」
兄はにやっと笑ったまま、嘘か本気かわからない口調で言う。
「いいや? 今の俺にならなんだってできるさ。なんたって偉大な皇帝陛下さまだからな。それにおまえが公主だと証明できる品も、揃っているだろう?」
私は大きく顔を歪めた。
確かに、証拠はある。それは例えば、この部屋の押し入れの奥に隠した小さな巾着の中に潜ませた、私の本名と皇帝印の刻まれた金の指輪とか。――これは皇子・公主の誕生時に必ず皇帝から贈られる指輪で、装飾品としての扱いではなく、皇子・公主たちの身分の簡易な身分証であった。
もしものときのために、これだけは持ち続けていなさいと母に言われ、後宮を出て以降も、慎重に保管し続けていた。
兄が、大馬鹿ではないことはわかっている。覚悟を持ってはじめた治世。早々に大きな波風を立てるはずがない。
けれど私は兄を睨まずにはいられなかった。
「……私が公主だと明かせば、どうして死を偽装したのか話さなくちゃならないでしょう。妹を死なせたくなかったから、なんて理由通用しない。他に人が居ないから、皇帝の座を追われたり、厳罰に処されることはないだろうけど、確実に問題視される。私は兄さんの人生に傷がつくことを望んでいない。……それに本当に、身分の回復は望んでないの。七歳のころから下働きとして生きてきた私は、もうどんなに頑張っても公主としては振る舞えないから」
本心だった。
公主の仕事はある意味で、人に傅かれていることだ。人の上に立って、人をうまく使うこと。
だが平民という身分になって、人に仕えることの辛さを知った私は、もうあのころのように無邪気に人を侍らせることができない。つまり公主としてはもう、不適合者だった。
私の言葉を一体どう受け止めたのか、兄が大きく厚い手で、私の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてきた。
「ちょ、ちょっと何⁉」
兄は慈愛に満ちた表情で微笑んでいた。快活に笑う兄にしては珍しい微笑み方に、私は何故か、死んだ母を思い出した。兄妹を平等に愛し、慈しみ、懸命に他の妃や異母兄たちの魔の手から守ろうとしてくれていた母。
しばらく離ればなれになっていたから忘れていたけれど、母亡き後、兄は母の代わりをも務めようとしてくれていた。頼りない妹の、唯一の肉親として。
兄は微笑んだまま、聞き分けのない我が子に言い聞かせるように、優しく言葉を紡いだ。
「――いいか? アンジュ。これだけは忘れてくれるな。たとえ世間がおまえの存在を忘れ去っても、おまえは俺のたった一人のかわいいかわいい妹さ。俺はおまえのためなら、どんなことだってできるんだ」




