03 美貌の文官
腫れ物ゆえになかなか仕事をくれない上司に粘り倒して仕事をもらい、与えられた宮に戻ると、入り口の前に見慣れた人物が立っていた。私の宮の周囲は、目隠しをするように木々がびっしりと植えられている。そのため用件のない人間は近づきがたく、そして人がいれば嫌に目立った。
私の帰りを待っているのだろう。兄に次いでこの部屋にやってくる回数の多い長身の美男は、じっと扉を見つめたまま微動だにしない。
綺麗な姿勢でたたずむ彼の名は月柏怜。国内有数の名門貴族、月家の嫡男で、御年二十二歳。腰まで届きそうな長い銀の髪を、橙の珠のついた簪できっちりまとめており、その髪に、夏の朝の眩い太陽の光が反射してきらきらと光り輝いている。
……月の雫を集めて細く伸ばしたような、繊細で美しい彼の銀の髪は、いつ見ても見事だった。この国では銀髪はかなり珍しいから、きっと褒められることも多いだろう。頭もよく、顔もいい彼とは違って、他に特筆すべきところのない私でも、私の本名の由来となったこの瞳だけは、よく褒められるのだから。
『――アンズ』
そう本名で呼ばれていたときのことを思い出して、私はぱちりと瞬きをし、歩みを進めてハクレイに声をかけた。
「ハクレイさま」
「アンジュ殿」
今私に気づいたというように、ハクレイが灰がかった青の瞳をこちらに向ける。
……月柏怜は本当に綺麗な男だ。我が兄が絵に描いたように精悍な美男なら、この人は兄とは真逆の、繊細で生真面目な顔立ちをしている。その整いすぎた顔はどこか作り物めいていて、一流の人形師が心血を注いで作り上げた人形のような雰囲気があった。
七月に入り、うっすらと汗ばむようになってきたというのに、月柏怜は汗一つ掻いておらず、本当に人形なのではないかと思わず疑いたくなってしまうほどだ。
家柄もよく、顔立ちにも恵まれているため、女性人気が抜群に高い彼だが、彼は彼に熱を上げる女性たちの誰にも見向きしない。
――この人には噂がある。十三歳のときに亡くした婚約者を、未だに愛しているという噂。その噂を裏付けるように、彼は自分の近くに女性を寄せ付けようとしない。
未だに失われた恋に殉じている男。
いい加減忘れるべきでは、と思うのだが、その有名すぎる恋物語が、彼を新しく立ち上げられた部署の長に引き上げたのだという噂だった。新設された部署の名前は、「婚部」という。
「婚部」は、城内の人間に結婚を斡旋する部署だ。年々じわじわと国内の結婚率、ひいては出生率が低下していることを受けて、まずは城内の結婚率を引き上げようと、兄の即位後すぐに立ち上げられた部署らしい。
結婚どころか新しい恋をする気もなさそうな男が、愛とか恋にしか塗れていない部署の長とは方向性が一致していない気がするが、「愛」とか「恋」という言葉で真っ先に浮かび上がってくる人物が、彼を置いて他にいなかったらしい。
彼も他人に結婚を斡旋する仕事に就くことを、意外にも嫌がらなかったという。「私は愛しの君と結ばれませんでしたから、みなさまには幸せになって頂きたいのです」と素で言いながら、毎日せっせと真面目に働いているらしい。色んな意味ですごい。
――さて、婚部が司るのは結婚。そして現在城内でもっとも結婚が求められているのは皇帝陛下である兄であり、この人の最優先事項は後宮に人を入れること。
私を女官に引き上げたり、居を移させたりしたのはこの人ではないらしいが、このようにほぼ毎日私のところへやってきて、後宮入りの打診――というか懇願をしに来ていた。
私が頷くことなどありえないのだから、実に不毛な行いだと思う。いっそ全部バラしてやりたい気もするが、それでは話がややこしくなりすぎるので黙っておく。
……婚部の発足は前々から予定されており、あとは新皇帝の許可待ちだったという。こんな自分の首を絞めるような部署、叩き潰してやればよかったのに。「年頃の侍従や女官たちが結婚しやすくなるかも、と目を輝かせていてなぁ」じゃないのだ。本当に、変なところで兄はお人好しすぎるのだ。私だったら叩き切っている。
……話が逸れた。
月柏怜はこの歳で相当高い地位にある文官である。このまま立たせておくのが失礼に当たることは重々承知しているが、私はあえて部屋へ通すことをしない。
空気の読めるハクレイは、私にその意志がないことを悟ると、それでも丁寧に丁重に、下から切り出してきた。
「アンジュ殿。例の後宮入りの件ですが」
「お断りします」
この人のしつこさ――よく言えば根気強さに呆れて溜息をつきつつ、私ははっきりと言った。
「何も洗濯女中として働いていた、身分も教養もない娘を無理矢理入れなくてもいいでしょう。適任者は他にいくらでもいるでしょうに」
もっとも適任者がいても、兄は毅然として拒むだろうが。
私の言葉に、何故かハクレイはしみじみとした表情で頷きながら返事した。
「我々はアンジュ殿のその、本当に妃や愛妾などには興味がない、という態度も、高く評価しているのです。突然思いもよらぬ高い地位を与えられて、別人のように変貌していく方は珍しくありませんが、その点アンジュ殿は安心できます」
「…………そうですか」
そんなことで高く評価されても、困るのだが。
実の兄妹で結婚するわけにはいかないから、私にとってその座は何の意味も持たないし、第一、私は普通の元洗濯女中じゃない。元公主だ。皇帝の寵を独占しきっている妃ならともかく、いち妃と公主では、公主の方が身分が高い。つまり、妃及び愛妾になったところで、私の生来の身分には足りないので、浮かれ騒ぐも何もないのである。……そう、昔の私は相当身分が高かった。
ほんの少し過去を思い出して瞬きをすると、ハクレイはその白皙の美貌を曇らせて、申し訳なさげに言った。
「……陛下は、我々が無理に連れ戻したようなものです。ですからせめて、結婚のお相手くらいは身分に関係なく、気の合う相手を、と考えているのですよ。その点、アンジュ殿とは気心が知れているようですし」
そりゃ、妹ですから。
私は言う。
「――カイエンさまにとって、私は妹のようなものですよ。気心は知れているでしょうが、そこに恋とか愛はありません。だって普通、妹相手にそんな感情を抱いたりしないでしょう?」
アンジュという限りなく本名に近い名前と、公主時代に大層褒めそやされた杏色の瞳。そして「妹」という重要語句を提示しても、その人は特に変わった反応を示さなかった。ほとんど真実を吐いているのに。
「妹、妹ね。それはそうかもしれませんが、アンジュ殿はとても素敵な女性ですから、奇跡的な再会がきっかけとなって、陛下のお気持ちも変化されていくやもしれませんし」
「……素敵な女性って、ハクレイさま、目が腐っておられませんか?」
褒められて、嬉しいと言うよりサブイボが立った。
私は私のことを、素敵な女性だなんて思っていない。思えない。
私の表情筋は大昔に仕事を放棄してしまって、よく動いてくれない。年中能面面の、大してかわいくも美しくもない、背ばかり高くてガリガリに痩せたつまらない女。それが私だ。
正気か? と、私は頭一つ分高いハクレイの顔をまっすぐに覗き込んでみたが、しかしハクレイの大真面目な表情は揺らぎもしなかった。
「ご心配なく、視力はかなりいい方です。――アンジュ殿は間違いなく素敵な女性ですよ。洗濯女中をされていたときから丁寧な仕事をするとの評判ですし、それに誰に対しても公平に接される。誰に対しても態度を変えない、というのは簡単そうに見えてとても難しいことですから、私は本当に素晴らしいと思っております」
「……その言葉、そっくりハクレイさまにお返ししますよ」
言ってから、私は呆れ顔で忠告した。
「あまりそういうことを言わない方がいいですよ。ハクレイさまは人気者なのですから、気があると誤解されます。下手すれば付き纏われますよ」
完全なる親切心からの忠告だったのだが、ハクレイはまたもや真面目な顔でふるふると首を横に振った。
「大丈夫です。騒動になることがわかっておりますので、他の方には決して申しません。が、アンジュ殿は、私にもご興味がないでしょう?」
ハクレイが、ふっと顔をほころばせる。その顔にあるのは喜びだった。他の女官たちからモテすぎて困っているのはわかるが、私はなんとなく腹が立った。この人は私を一体なんだと思っているのだろう。珍獣か何かと勘違いしているのではないか。
思わず眉がきつく寄ったが、ハクレイはそれには気がつかず、そういえば、と一歩こちらに切り込んできた。
「この辺りで喘ぎ声を聞いた、という情報があるのですが、心当たりはございませんか?」
ハクレイの灰にまぶされた青い瞳は、静かでありながら、欺瞞を許さない潔癖さがあった。
私は一瞬だけ動きを止め、嘘をつく。このときばかりは感情が顔に出ない性質で助かったと思う。
「気のせいではないですか? ここら辺は人気がないですから、それを利用して密会していた他の誰かと誰かを、私と陛下だと勘違いされたのでは?」
兄め、致すときは静かに致せと言ったのに。
舌打ちしたくなる衝動を必死で堪え、私は続ける。
「私と陛下が契ることなど、天地がひっくり返ってもありえません」
何故なら兄妹だからである。
彼も、その情報を頭から信じ込んでいたわけではないらしい。残念そうに肩を竦めて言う。
「まあ、そうでしょうね。……本当はわかっているのです。アンジュ殿が陛下を兄のようにしか思っておられないように、陛下もあなたを妹のようにしか思っておられないこと。しかし陛下は基本的に身分問わず男女問わず誰にでも優しい方ですが、特に女性に対しては、適度に距離を取られます。しかしアンジュ殿。あなたに対してはまるで違う。あなたのように心を許している年頃の女人は他に見られないので、ついあなたに縋ってしまうのです」
「……縋られても困りますが」
月柏怜は困ったように微笑んで、「また参ります」と馬鹿みたいに丁寧にお辞儀をして、この日は去っていった。
もう来ないでくれ、と、私は願った。




