02 兄との再会
兄は昔から運のいい人だった。引きの強い人だった。あの大火事からただ一人逃げ延びられたことがそれを証明していたが、何もこんなところで引きの強さを発揮しなくたって――というか、どうせ発揮するなら私ではなく恋人を発見してあげてほしい、と思うような再会を、私たちは果たしてしまった。
それは洗濯女中らしく、青空の下で大きな木桶に水を張り、洗濯物と格闘していたときだった。
誰かの勢いのいい足音が聞こえたかと思ったら、唐突に目の前に豪奢な上着が差し出された。続いてかけられた、『すまん! 遠乗り中うっかり水たまりに突っ込んで盛大に泥が跳ねてしまったんだが、これ、洗濯で落ちるか?』という聞き覚えのありすぎる声に、私は愕然とした。兄だった。
――それは本当に偶然だった。兄は些細なことならなんでも自分で動いてしまう人だったし、ちょうど昼食時で、みな昼食を食べに行っていたから、一番新人の私以外誰も残っていなかったのだ。
それにしても、ああ引きが強い。
直接会うつもりなど、なかったのに。
反応がない私を変に思ったのだろう。『おい、大丈夫か? 具合でも悪いのか?』と、兄が俯いたままだった私の顔を覗き込んで、その顔にみるみる驚きを走らせた。
そして。
『――――アンジュ‼』
と、私の名前を呼んだ。城全体に響き渡るような大きな声で。
――そのときは、動揺のあまりつい叫んでしまったのだろうと受け止めていたけれど、あとから考えてみれば、たぶんわざとだった。あの賢い兄が、この皇城という場所で、訳ありな妹の名前を大声で叫ぶことの意味を、危険を、考えなかったはずがない。けれど兄はとても演技がうまくて、私も周囲も、しばらくすっかり騙されていたのだけれど。
このときはまるで気がつかなくて。
兄は私に飛びつくように抱きついて、大きな喜びを見せた。
『アンジュ‼ アンジュじゃないか! 元気だったか⁉ ん? 顔を見せてみろ!』
顔を見せろも何も、骨が折られそうなほど強く抱きしめられているせいで、身動きが取れない。
というか、アンズという本名の由来になった見事な、そしてかなり珍しい杏色の瞳は別として、使い古した箒のようにぱさぱさで艶のない茶褐色の髪を何の洒落っ気もなく一つ結びにした、十六にしてはくたびれきった顔をしている私を見ても、しょうがないと思うのだが。
『いや、あの、カイエン――』
兄さん、とつい口に出してしまいそうになって、慌てて修正する。
『陛下、陛下、どうかお離しを――』
あなたを追ってきたらしい侍従がすぐそこにいるのが見えないのか。
二十歳過ぎのまだ年若い侍従が、状況を呑み込めずに呆然としている。それはそうだろう。陛下が、よくわからん洗濯下女を感極まった様子で抱擁しているのだから。
しかし兄は、侍従には一向に構わなかった。私の発言に嘆くように首を振り、また大きな声で叫ぶ。
『陛下だなんて! そんな他人行儀なことを言うんじゃない! 俺とおまえの仲じゃないか!』
そちらこそ、誤解を招くようなことを言うんじゃない。ただの兄と妹だぞ。
私はものすごく微妙な顔をしてしまったが、兄はお構いなしだった。
『ああ、アンジュがいなくて寂しかったぞ! さあ、もっとよく顔を見せておくれ!』
兄がさらに力を込めてきたせいで、本当に圧死させられそうになった私は、思わず『ぐぇ』と奇声を発してしまう。
私も女性にしては背が高い方だが、兄はそれ以上の長身で、加えて幼いころから強制的に剣術の稽古をさせられていただけあって、しっかりと筋肉がついている。つまり素の力がかなり強いのだ。
『苦しい、苦しいです、カイエン、さま……』
いけない、また危うく、「兄さん」と呼んでしまうところだった。皇帝になってしまった兄を、そう呼ぶことはもう許されないのに。たとえ正真正銘実の兄妹であっても。
皇族であっても、皇族の死を偽るのは大罪。
けれど兄はかつて私のために、母と共にその罪を犯した。他に直系皇族がいないから、知られたところでそれほど大きな罪には問われないだろうけど、兄が覚悟してはじめることにした兄の治世に、私はほんの少しでも傷をつけたくはなかった。
……それにたとえ兄妹だと明かしたところで、誰も信じてくれないに違いない。七歳のころに死んだ公主アンズは、もうとっくに人々から忘れ去れ、誰の記憶にも残っていないだろうから。身分の回復など少しも望んでいないので、別に構わないのだけれど。
『あ、あの、陛下、その女人は……?』
そこでようやく、侍従がこわごわと兄に尋ねた。そこで兄が、もはや拘束になりかけていた抱擁を解いた。兄が侍従に向き直る前に、私は目だけで『絶対に言うなよ』と念押しし、それに対して兄は一度だけ小さく頷いた。
『ああ、この娘は俺が城を追われ、なんとか母の実家に逃げ込んだものの、襲撃された上に、焼き殺されそうになって大変苦労していたときに、色々助けてくれたのだ。アンジュがいなければ、俺は今ここにいない。言わば、命の恩人だな。なのでこの抱擁を咎めないように。特に、身分差を理由にな』
兄の言葉に、侍従は限界まで目を見開いたまま、ごくり、と唾を飲んで、予想外のことを言った。
『陛下の恩人を咎めることなど致しません。ですが、それほど親しい間柄ならば、どうでしょう。――その娘を後宮にお入れになっては』
『は?』
私は思わず、険しい顔で本音をこぼしてしまった。いけない、身分差が厳しいこの国で、私という人間は最下層の平民。こんな態度を取ってはいけないのに。
しかし冗談ではない。私と兄では近親相姦だ。というか普通、洗濯女中と皇帝陛下を結びつけようという発想にはならないだろう。第一妃と第二妃に身分が低いと散々馬鹿にされていた私たちの母だって、良家の貴族令嬢だった。
けれど兄は、当然私よりも彼のことをよく知っている。彼がどうしてそんな発想に至ったのか、その思考の道筋を正確に辿り終えたらしい兄は、一拍置いたのち大笑いして、首を大きく横に振った。
『この娘は妹のようなものだ。そんなつもりはない。というか、散々言っているだろう? 後宮には誰も入れぬ。俺は跡継ぎを作らない。――ところで、アンジュは何故ここにいるんだ?』
問われ、私は素直に答えた。
『カイエンさまが皇帝になられたと聞いて、息災でいらっしゃるだろうかと、古馴染みなりに少し心配になりまして、様子を見に来たのです。……頃合いを見て去る予定ですが』
私がそう言うと、はっはっはっと天まで届くような大きな声で、兄が明るく笑った。
『まったくありがたい心遣いだ。気の済むまでここにいてくれ。部署は? このままでいいか?』
仕事は辛くはないかと暗に問われていたが、私は首を振って否定した。
『はい、結構気に入っておりますので。……ちなみにここは使用人たちの衣服を洗濯する場所ですので、陛下のお召し物は受けつけられません』
そう言うと、洗濯場にやってきたそもそもの目的を思い出したらしい兄は、また呵々と笑った。
『ではこれは、正規の人間に頼むとしよう。――またな、アンジュ』
『はい、カイエンさま』
と、話は一旦、ここで終わったのだが。
皇帝陛下さまである兄に親しげに話しかけられてしまった私は、ただの洗濯女中ではいられなくなってしまった。私は例の侍従を通して、兄の忠実なる臣下たちに目をつけられてしまったのだ。
あのあと例の侍従に、名前、年齢、出身地、両親について、それから兄とどういう経緯で知り合ったのかなどと根掘り葉掘り聞かれた後、『陛下にはまったく女っ気がなく、ほとほと困り果てているのです。どうか、どうか国を助けると思って、後宮にお入りになってはくれませんでしょうか』と、縋りつく勢いで懇願された。
私は感情があまり表に出ないと言われる顔を盛大に引き攣らせながら、丁重に丁重にお断りした。そのときはなんとか引き下がってもらえたのだが、数日後、兄がお菓子を持って堂々と遊びに来ると、もうだめだった。
最下層の洗濯女中は強制的にやめさせられ、皇族などの衣服を扱う部署へ、女官として無理矢理転職させられた。私に裁縫技術がなかったらどうするつもりだったのだろう、と呆れた果てたが、彼らが私に本気でお針子をやらせる気はないこともわかっていた。
この部署は皇帝との接点も多いため、歴史上ここから多くの「愛妾」が誕生している。おまけに十人一部屋の相部屋から、後宮にほど近い――ぎりぎり外廷にある小さな空き宮に部屋を移され、仕事は一人だけ自室で行うように指示された。
――つまり実質の、愛妾待遇である。ぎりぎり後宮に入れられていないだけの。
私の処遇を決めたのは、兄の子を望むお節介な臣下たちであり、もちろん兄ではない。兄はむしろ、がらりと変わった私の待遇に腹を抱えて大笑いしていた。
『お、俺とアンジュは兄妹なのになァ』
笑いすぎてあふれ出た涙を拭き拭き言う兄に、私は顰め面をしながら激しく頷いた。
そう、私と兄は兄妹だ。天地がひっくり返っても、私と兄は契らない。契れない。
強引すぎる真似には正直腹の立つ部分もあるが、彼らの焦りもわからないではなかった。
――兄の後宮は空っぽだった。第一、第二と頭につく正式な妃も、愛妾も、誰も居ない。
皇帝位に就いたのだ。様々な縁談が持ち込まれているにも関わらず、嫌なことははっきり嫌と言う性格の兄は、そのすべてをきっぱり撥ねつけているらしい。
皇位には就く、真面目に執務には取り組む。でも誰も娶らない。子は作らない。自分が死ぬまでに皇帝に頼らない政治制度を作るか、傍系の誰かをきちんと教育しろ、と、そう言い切っているらしい。しかし臣下は納得しておらず、そのことで少々揉めている、と兄は珍しくちょっと疲れたように笑った。
後宮に誰も入れないことで、図らずも捨てる形になってしまった最愛の恋人に操立てしていることを、妹の私だけが悟れ、悟った私は兄に、兄の恋人も皇城に潜り込んでいることを告げた。それを聞いた兄は、静かに嬉し涙を流した。
一度は手放したものが戻ってきたことで、兄は覚悟を固めたのだろう。私の手引きで二人は再会し、また恋人に戻った。
だから兄が、後宮に人を入れることはもう永遠にないに違いない。不測の事態で兄が死ねば、今度こそ国は大混乱に陥るだろうが、そんなこと知ったことではない。若くして一生を国に捧げることを決めてやったのだ。恋愛くらい、兄の好きなようにさせてあげてほしかった。
さて、兄の愛妾扱いをされるようになった私のもとには、様々な立場の人が、様々な思惑を持って会いに来た。興味・関心、歓迎、値踏み、粗探し……。
私は表情筋がほぼ死滅している上、男好きするとは言い難い痩せぎすの女なので、やってきた人々はみな一様に、「こ、これが陛下の好み? い、意外すぎる……!」という顔をして去っていく。
失礼だな、と思いつつ受け流し続けること約三週間。三週間もすればさすがに訪問客も絶え、私の周囲は静けさを取り戻した。
とはいえ女官としては完全に腫れ物であり、正式な愛妾でもないため、私の立場は宙ぶらりんだ。兄と兄の恋人の密会を手助けするという役目を請け負っていなければとっくに逃亡を図っているが、これがあるのでどんなに微妙な立場でも、私はここに残り続けなければならない。
そうして話はようやく、「現在」に戻る。




