15 壊れていたって、彼にとっては宝物
都合のいいことに、翌日は休みだった。私は朝から風可憐の姿を探した。
風可憐は毎日のように皇城へやって来ている。だからあとは適当に皇城内を歩いて、彼女を見なかったか、と人に訊ねていけばいい。悪名高い彼女の居場所は、私の予想通りすぐ判明した。
彼女は、屋外にいた。
しゃなり、しゃなりと、今日も変わらぬ豪華絢爛な衣装に袖を通し、我が物顔で外廷の中央部を歩き回っている。明るい陽の光に照らされて、彼女の耳朶に下がる金の耳飾りが、ギラギラと輝いていた。
「…………」
私はその場で一度呼吸を整えてから、風可憐に近づいた。
風可憐はすぐに私に気がついて、その毒々しいまでに赤いくちびるを愉快げにつり上げた。
「あら、アンジュじゃなくって? おまえの方から近づいてくるなんて珍しいわね」
「――お話があります。……月柏怜さまに関することで」
恐怖で震え出しそうになる身体を叱咤して、まっすぐに風可憐の黒い瞳と目を合わせる。
嫌がらせをしている件についての抗議で声をかけてきたと考えていたらしい風可憐は、私の口から出てきた月柏怜の名前に、意外そうな表情を作った。考えるように数秒ぱちりぱちりと瞬きしたのち、付き従わせていた侍女たちに、「少し二人にしてちょうだい」と告げる。
お付きの侍女たちが足早に去っていくと、風可憐は意地悪く笑いながら「着いて来なさい」と私に命じた。
「――他人に聞かれてはまずい話なのでしょう? お互いに」
「……そうですね」
風可憐は迷いない足取りで、何故か後宮の方へと歩き出した。彼女の身分では後宮に入ることはできないはず……、と訝しんでいると、風可憐が振り返りもせずに種明かしをする。
「私たち妃候補はいつ陛下のお手がついてもいいように、後宮内の宮を一つ貸し出されているのよ。ま、おまえのように下賤な女には関係のない話だけれど」
「……そうですね」
その言葉通り、私たちは後宮の門をなんなくくぐることができた。……正式な妃たちのいない後宮は、女官も宦官も排されているからだろう。恐ろしいまでに人気がなく、奇妙な静寂に包まれていた。
――皇城に舞い戻ってきても、後宮に足を踏み入れる機会は今までなかった。
門をくぐり、後宮へと久方振りに足を踏み入れた私の胸には、様々な感情が去来した。
兄や母と楽しく過ごした思い出が蘇ってきて懐かしいと感じもしたし、兄と母が私の死を偽装すると言い出したとき、髪を振り乱して泣いて嫌がったことが思い出されて、胸が痛いほど苦しくなったりもした。……そう、最後は兄たちの気持ちに押し負けてしまったけれど、私はあのとき、後宮を出るのが嫌で嫌でたまらなかった。たとえ異母兄たちに毒殺されてもいいから最後まで後宮に留まっていたいと、強くそう思っていた。
――今となってはすべて、終わった話だ。
私が感傷に浸っていることなど知る由もなく、風可憐は門から一番近い宮に、私を連れて入った。
風可憐は、他に誰もいない建物の中に入るなり、私の方を振り返って、話の先を促してきた。
「――で? おまえの用件は何?」
私は風可憐の目を見据えて、静かに答えた。
「……月柏怜さまの簪の行方を、ご存じなのでしょう?」
確信を持って問うと、風可憐は持っていた扇で口元を隠し、しばし沈黙した。けれどすぐに、パチン、と扇は閉じられる。扇で隠されていた口元は、面白いほど愉快げにつり上がっていた。
「――そうよ」
(ああ、やっぱり)
訊ねたのが炎雨林であれば、風可憐はなんとしてでも隠し通そうとしただろう。何故なら炎雨林は風可憐を処罰できる立場にあるからだ。
けれど私相手になら、絶対に素直に白状すると思ったのだ。風可憐は私のことを、何もできないつまらない女だと侮りきっているから。
言うと、風可憐は、胸元から月柏怜の簪を取り出した。簪の所在がわかってよかった、とほっと息を吐けたのは数秒で、すぐにその変わり果てた姿に息を呑んだ。月柏怜があれだけ大切にしていた簪は、ちょうど真ん中からぼっきりと折れてしまっていた。
表情を凍らせた私に、風可憐がつまらなそうに釘を刺す。
「――勘違いしないでちょうだい。盗んだのではなく拾ったの。それに、私が拾う前に荷車か何かに轢かれでもしたのでしょうね。私が拾う前からこんなふうに壊れていたわ。壊れてもう使えないと思ったから、何も言わずに保管していただけよ」
拾う前から壊れていた、という言葉に嘘がないことは、望まずともそれなりに長い付き合いがあったためにわかったけれど。
「心配しなくても、ハクレイさまには私が新しい簪を贈っておくわ。ハクレイさまだって、古いものより新しいものの方がいいに決まっているもの。きっと喜んで下さるわ」
そうとろりと甘い笑みを浮かべた風可憐に、私は思う。
トーカの言っていたことは正解だったのかもしれないと。
風可憐は自分が言い寄っている男が、いつまでも死んだ婚約者との思い出の品を身につけているのが気に食わなかったのだろう。壊れていたから、というのは建前で、自分に気持ちを向けて欲しかったから、意図的に簪を隠していたに違いない。
「……。その簪は、ハクレイさまが婚約者とお揃いで買った、大事なものだと聞いています。どんな状態でもいいので返して差し上げて下さい」
すると風可憐は、一転して馬鹿にした表情を浮かべた。
「――婚約者婚約者って言うけど、婚約者は本当にいたの?」
「…………」
「あの方の婚約者の話は有名よ? むしろ、知らない人の方が珍しいでしょうね。でも聞けば、相手がどこの誰で、どういう人だったか、誰も知らないって言うじゃない」
「…………」
「婚約者の話なんてでっち上げで、ただ結婚したくないからそう言っているだけなんじゃない?」
……炎雨林はハクレイから聞いたとして、婚約者に関する具体的な内容を語っていたけれど、風可憐の言うことは事実だった。
これだけ有名な悲恋の話にも関わらず、実は彼の婚約者についてはまったくと言っていいほど知られていない。
私は深く息を吐き、吸って、呼吸を整える。そして重い口を開いた。
「婚約者の実情が知られていないからといって、でっち上げと言い切るのは早計でしょう。……名門月家の嫡男と婚約できるくらいです。お相手の身分が相当高かったのでは? 身分の高い方同士の婚約については、下の身分の者がおいそれと触れることができないでしょう? だからさほど話が広まらず、お相手について知っている人間が少ないのではないですか? ……それに、たとえ婚約話が嘘であったとしても、それでも返して差し上げて下さい。壊れていても、ハクレイさまには何よりも大切なものでしょうから。……何が大事かなんて、他人が勝手に決めていいものではないですよ」
途端、風可憐が思い切り眉を跳ね上げた。激しく機嫌を損ねたのがわかったけれど、私はもう、この人の機嫌を気にすることは止めたのだ。たとえ恐怖で指先が震えていても、屈してなんかやらない。甘んじて屈し続けることは、もうやめたのだ。
「何よ、生意気ね。――……ハクレイさまハクレイさまって、おまえ、ひょっとして身の程知らずにもハクレイさまに懸想しているの?」
簡単に見透かされてしまったが、私だって反撃材料の一つくらいは持っている。
「……そういう風可憐さまこそ、妃候補として皇城に上がりながら、随分積極的にハクレイさまに近づいておられますね? 本当は男性であれば誰でもよろしいのでは?」
睨み合う覚悟はしていたが、睨み合う前に容赦なく頬を殴打された。痛烈な痛みが頬に走る。だが泣き喚くなんてことはしてやらない。彼女から視線を逸らさない。
私を殴った拍子に、風可憐の手からハクレイの簪が滑り落ちた。一度折れたことで、脆さに磨きがかかっていたのだろう、勢いよく床に叩きつけられた簪は、さらに細かく砕けてしまった。
けれど風可憐は簪には見向きもせず、怒りに染まった瞳で私を睨み上げた。昔、軽い気持ちで私をいたぶって遊んでいたときとは違う、本気の怒りで染まった瞳だった。
「本当に生意気になったものねぇ、アンジュ。――そうよ、将来有望な殿方なら誰でもいいの。おまえのような下賤な女には一生わからないでしょうけどね、私のように高貴な女の幸せは、いつ、どの時期に、どの殿方に嫁ぐかによって決まるのよ。だから私も必死なの。もとから高貴な身分に生まれた私だって、一生安泰というわけじゃない。適齢期の今失敗すれば、この私にだって転落の可能性があるのだから。ここが私の人生の分かれ目なのよ。だから愚鈍なおまえごときが、私の幸せの邪魔をしないでちょうだい。――ああ、気分を害したわ」
風可憐はそう吐き捨てると、叩きつけるように扉を閉めて、宮を出て行った。
一人残された私は、その場にしゃがみ込み、バラバラに砕けた簪を見て深い溜息をついた。
なんとか簪自体は取り戻すことができたものの、さすがにこの状態では「はい見つかりましたよ」などと呑気に持っていくことはできない。細かく破損しすぎているから、修復の依頼を頼んでも断られることだろう。
けれど私はどうしても、月柏怜に大切なものを返してあげたかった。私には、それくらいしかできないから。
かなり長い時間頭を悩ませたあと、私は意を決して簪の欠片を一つ残らず拾い集め、普段から小物入れとして持ち歩いている巾着の中に大切にしまい込んだ。
それから一度自分の宮に戻って、押し入れの布団の中に隠し込んでいたあるものを取り出すと、外廷内をうろうろと彷徨い歩いて、兄の姿を探した。
野生動物みたいなところのある兄は、仕事に疲れるとこっそり執務室を抜け出して、人気のない野外で一人、木の根にもたれかかったりして休憩をしている。私はその休憩場所をいくつか知っていた。
運よくすぐに兄の姿は見つかって、私は兄に、外出を許可する書状と、私とハクレイが知り合いであることを示した書状をしたためて欲しいと頼んだ。今すぐに、ハクレイの屋敷へ行くためだった。
兄は一言も理由について訊ねることなく、「わかった」と優しく頷いてくれた。
墨類と紙を拝借するために、兄と二人で適当な空き部屋に入る。机に座ってさらさらさら、と滑らかに筆を動かしながら、兄がしみじみと呟いた。
「珍しく直接頼み事をしに来たと思ったら、こんなのでいいとか、おまえはつくづく欲がないなぁ。……身分の回復とか、もっと大きなことを願えばいいのに」
「何言ってるの、兄さん。身分の回復はダメだってば。兄さんの治世に傷がついてしまうから。……それに充分欲深いでしょう。月柏怜の家に行くためだけに、皇帝陛下に書状をしたためさせてるんだから」
とはいえこれがないと外出制限を突破して皇城の外に行くことができないし、無事外出できてハクレイの屋敷に辿り着いても、彼の屋敷の門番に不審者として追い返されてしまうだけなので、なんとしても皇帝という立場にある兄に一筆書いてもらう必要があった。
「いやかわいい妹のためなら、これくらいいつでも書いてやるが。俺は皇帝陛下である前に、ただのおまえの兄だからな」
「……兄さん」
兄の言葉に、私の胸がいっぱいになる。
……兄は良い意味でずっと変わらない。絶大な権力と引き換えに、ある意味で雁字搦めの皇帝陛下になったのに、子どものときから変わらぬ純真さと大らかさと柔軟性を保ち続けている、稀有な人。
そういう人だからこそ、私も兄の恋人も、それ以外の人間も、兄に強く惹きつけられるのだろう。太陽みたいに人を惹きつけずにはいられない人。
ハクレイによろしくな、という言葉と共に送り出された私は、兄の書状のおかげで――兄はわざわざ皇帝印まで押してくれた――呆気ないほど簡単に皇城の外に出ることができ、そして月柏怜の屋敷の中にも問題なく通してもらうことができた。




