10 あなたはどうしようもなく美しいから
その翌朝。
早朝、と言っても過言ではない時間帯に、やや乱暴に宮の扉が叩かれ、怪訝に思いながら扉を開けると、硬い顔をした月柏怜が立っていた。
ハクレイは私の顔を見ると、「背中を見せて下さい」と、顔と同じく硬く強張った声で告げた。
「……ハクレイさまがご覧になるのですか?」
他に誰もいないように見えたので、疑問に思って訊ねると、ハクレイは「女医を連れてきております」と首を横に振って簡潔に答えた。なるほど、ハクレイの長身に隠れて見えなかっただけで、ハクレイの背後には確かに、四十絡みの女医が一人立っていた。
女医は皇帝の妃や公主の診察をするために雇われている。医師とはいえ男性が、不必要に妃たちの肌を見ないようにするためだ。だが妃や公主の肌を見ざるを得ないような場合でも、症状が重ければ、あるいは皇帝の寵愛が深い場合は、男の医者が担当することになっている。
父に溺愛されていた私の治療はいつも最重鎮の老医師が担当してくれていたので、私は公主時代、一度も女医に診察してもらったことがない。
だからだろうか。彼女の顔には身に覚えがなく、また彼女も、私に覚えなどないようだった。
そのことに、私は密かに安堵の息を吐いた。
誰も私の正体に気づかない、ということはすっかり証明されてしまっていたが、ある意味で医者が――侍医たちが一番怖かった。
公主時代の私は、医者たちと関わりが深かったからだ。母や兄や父や、身の回りの世話をしてくれる下男たちの次に関わりが深かったのは、たぶん医者たちだった。
異母兄たちに苛められて頻繁に大小さまざまな傷を負い、また毒を飲まされて生死の境を彷徨うことが日常だった私は、医務室の常連で、医者たちとは毎日のように顔を合わせていた。
……妃候補の令嬢たちを迎える準備で忙しかったのだろう、このところ顔を合わせる回数がめっきりと減っていた月柏怜。きっと将軍・炎雨林に私の傷跡のことを告げられて、慌てて飛んで来たのだろうと思う。妃候補の女性の身体に異常がないかを確認するのも婚部の長としての立派な仕事だろうが、たぶん、そこにあるのは優しさと心配だった。仕事一割、優しさと心配九割と言ったところだろう。だって仕事にしては、その顔が暗く陰りすぎている。
「……どうぞ、中へお入り下さい」
私は女医を宮の中へ通した。
すでに女医まで連れてきているのだ。診察を受けるまで、ハクレイは梃子でも動かないだろうなという予感があった。
ハクレイは診察が終わるまで、宮の外で待っていると、白皙の美貌を曇らせたまま言った。
女医は露わになった私の肌にしばし絶句していたが、診察が終わり、宮の中に入って女医から様子を聞いた月柏怜も、顔色をなくしていた。
女医を先に帰したあとで、ハクレイは絞り出すような声を出した。
「どうして言って下さらなかったのですか?」
私は答える。
「特に、言う必要もないと思いまして。カイエンさまの愛妾になる気があるなら報告が必要だったかもしれませんが、そんな気はありませんでしたし、そもそもカイエンさまも知っておられることでしたし。……それに、あまり知られたいものではないので」
特に月柏怜という、頭の先からつま先まで完璧に美しい男に「実は身体が傷だらけなんです」と告げるのは、己の醜さが際立つ気がして辛く、死んでも自分から口にする気はなかった。
美しすぎるものは、時に人を惨めにさせる。自分が醜いものだと認識していればいるほど、余計に。それは美しすぎるもの側の責任ではなく、受け手の問題であると、わかってはいても。
(……月柏怜は、どうしようもなく美しいから)
見れば見るだけ、近づけば近づくだけ、惨めさが増していくような気がする。その美しさに傷ついてはいないというように、背筋を伸ばし、かわいげのない顔で受け答えするのは、私の精一杯の自尊心だった。
「それは、そうでしょうが……」
納得がいかない、というような表情を浮かべて、月柏怜が口籠もる。
私はそれほど頼りになりませんか、と、青い瞳に強く訴えられている気がしたのは、きっと私の気のせいだろう。
「……しかし言って下されば、薬を手配することくらいして差し上げられました。女医の方から聞きましたが、まだ時折痛むそうですね」
「ええ、本当に時々。ですが薬は必要ありません。知り合いの方から、よく効く軟膏を頂いているので」
レイジュさんだ。私はレイジュさんから薬を入手していた。
「しかし……」
何故か、月柏怜は未だ考え込むように眉根を寄せていた。
そんな彼に対し、私は少しだけ微笑む。彼の瞳にどう映っているのかわからないけれど、少しでも綺麗な笑みに見えているといい、と思いながら。
「あなたがつけた傷じゃないんですから、あなたが気に病む必要はないんですよ」
月柏怜は優しい男だ。だから仕事を通して接触する機会の多かった私にさえ、情を移してしまう。難儀なことに。
「……そうかもしれませんが、どうしても気になるというか……。あなたは、とても稀有な人ですから」
「……稀有?」
予想もしなかった言葉が飛び出てきて、私は反射的に首を傾げた。さっぱり理解ができない。こんな人間、どこにでもいると思うのだが。
しかし月柏怜は居住まいを正し、言葉を探り探り、私に気持ちを伝えてくれた。
「私が婚約者だった姫の話をすると、皆さん一様に『忘れろ』とおっしゃいます」
「でしょうね。私も言ったと思いますが」
「ええ。ですが後から考えると、アンジュ殿の『忘れろ』は、他の方と意味合いが異なる気がして」
「……いえ、違わないと思いますけど」
私は否定したが、ハクレイは切なさの混じった辛そうな笑みを浮かべて、緩く首を横に振った。彼の長い髪の毛の先が、その拍子にそろそろと跳ね動いた。
「他の方の『忘れろ』という言葉の裏には、『忘れて次に行け』という意味があるんです。大抵の場合、相手には娘さんか姉妹がいて、一度会ってみないかと誘われます。つまり私が姫を忘れることで、相手にも利益が生まれるわけです。でもアンジュ殿の場合は、いつまでも引きずっていては私自身が辛いのだから早く忘れてしまえと言う意味の……、私を慮って下さった『忘れろ』という意味に聞こえて」
「……買いかぶりすぎですよ」
今度は私が首を横に振る番だった。
確かに私はハクレイのことしか思っていなかったけれど、それでこんなふうに特別扱いされるのは困る。彼の中で特別な存在になるために、『忘れろ』と言ったわけじゃない。
私の否定を、月柏怜は強く否定した。
「いえ、そんなことはありません」
月柏怜がまた何かを言う前に、言葉を発する。
「カイエンさまだって炎雨林さまだって、きっと同じ意味で『忘れろ』と声をかけて下さると思いますよ」
そう言うと、ハクレイは困ったような笑みを浮かべた。
「あの二人は逆に何も言いませんよ。私に近すぎるからこそ、逆に姫のことには一切触れません。私の思い出話に、『うんうん』と適当な相槌を打ってくれるだけで、それ以外は何も」
それは裏を返せば、兄も、炎雨林も、二人してハクレイにとっての姫が大きな傷だと思っている証拠だった。傷が深すぎるとわかっているから、どうにもできないでいるのだろう。
人の心にひびを入れるのは決して気持ちの良いことではないと実際に学んだから、私は今度は直接「忘れろ」とは言わなかった。
けれど本当に、早く忘れた方がいいとは思う。
死者はもう還らない。
月柏怜がどんなに強く愛し続けていたって、婚約者の姫は永遠に蘇りはしないのだから。




