01 私が皇城に舞い戻ってきた理由
『あの花が欲しいの』
背伸びをしても届かない位置にある花だったから、私は目当ての花を指差してそう言った。そうやって指差せば、誰かが摘み取ってくれるだろうと思ったのに、下男たちは互いにおろおろと顔を見合わせるだけで、動こうとしない。
『? どうしたの?』
私が首を傾げていると、知らない声が割り込んだ。
『――その花はとても綺麗ですが、強い毒性を持っているのです。ですから彼らはあなたのおねだりを聞くべきかどうか、逡巡しているのでしょう』
私の疑問に答えてくれたのは、いつの間にか近くに居た、見知らぬ少年だった。誰かへの贈り物なのだろう。手に花束を抱えている。
年齢は恐らく私より、五つ、六つ年上。
かっこいいというより美しいという言葉の方がふさわしい、大人びた面立ちをしている。間違いなく、良家の子息だろう。
『そうだったの?』
私が問うと、下男たちは勢いよく頷いた。どうやら、正解だったらしい。
私は言う。
『じゃあいらないわ。そんなものを持って帰ったら、お母さまたちが心配するもの』
すると少年が、自身が抱えていた花束から可憐な白い花を一輪引き抜いて、私の髪に挿してくれた。
嬉しくはあったけれど、あまりに突然の出来事に、私は目をぱちくりさせてしまう。そんな私に少年が優しく微笑みかけた。
『あなたが欲しかったものの、代わりにはならないかもしれませんが』
私はぶんぶん首を横に振り、彼の言葉を否定する。
『うぅん、そんなことないわ。とってもかわいいもの。ありがとう。えぇと――白いお花のお兄ちゃん!』
――それが私と彼の、最初の思い出。
□
私と兄は八つも年が違い、性別も違い、また七年もの音信不通だった時期がある割には、かなり仲のよい兄妹だと思う。
だが今、私と兄は、あえて他人の振りをしている。
事実を伏せているせいで、事情を知らない周囲に兄の嫁にさせられそうになっていても、それでもあえて黙っている。
おかげで状況が日に日にややこしくなっていくけれど。
――これはつまり、そんな話だ。
私は現在杏珠と名乗っているが、これは偽名のようなもので、本名は杏子という。
偽名を使用している理由は単純で、「アンズ」として生まれた私はもうこの世のどこにもいないからだ。「アンズ」は表向きには死んだことになっている。
私の死を偽装したのは、大好きな兄と母。父は私が死んだと信じたまま死んでいった。兄と母は、文字通り命を賭けて皇帝たる父さえ欺き通してくれた。
そう、私はもともと公主――つまり皇帝の娘としてこの世に生を受けた女だった。
父帝には母を含む三人の妃がいた。
隣国から嫁いで来た双子の王女姉妹である第一妃、第二妃と、国内の有力貴族の娘で第三妃となった母。
彼女たちはそれぞれ二人ずつ子を産んだ。
すなわち第一妃が第一皇子と第三皇子を産み、第二妃が第二皇子と第四皇子、そして母が第五皇子である兄・海燕と唯一の公主となった私を産んだ。
さて、我が国では必ずしも第一皇子が帝位に就けるわけではない。皇帝の指名によることもあれば、平和な代だと皇子同士の話し合いで決まることもある。父帝などは、末皇子として生まれながら、兄二人を真正面から堂々と斬殺して帝位に就いている。
ただ、如何なる場合であっても、女性――公主に皇位継承権が与えられることはない。
これだけ皇子がいるのだ。他の時代であれば、女である私は捨て置かれていただろう。
しかし父帝は、私を、私だけを目に入れても痛くないほどにかわいがった。
自惚れではない。父帝の膝に乗ることを許されていたのは私だけだったし、私だけは、たとえ何も用がなくても「お父さま!」と無邪気に呼びかけることが許されていた。兄も含めた他の子どもたちには、そんな親子らしい振る舞いを一切許可しなかったのに。
自らが帝位に就くため、実兄二人を躊躇いなく斬り捨てた、という話からもわかるように、父帝の根は冷徹で、誰かを愛するということを知らないような人だった。
――そしてその滅多にない父の寵愛が、私をひどく追い詰めた。
異母兄たちは全員が全員、我こそが皇帝になるのだという野望を持っていた。彼らの母親である第一妃、第二妃も、自分の子こそを皇帝にすることを切望していた。
彼らはそれぞれ敵同士であったが、第一妃と第二妃が姉妹であったせいか、互いに協力して、私と兄を追い詰めることもあった。
――そんな彼らがもっとも恐れ、常に一丸となって敵視したのは、皇位継承権を持たない公主たる私だった。
私だけが、異様なまでに父に愛されていたから。
例えば父帝が私の母である第三妃を寵愛しているという事実がそこにあったなら、彼らもまだ納得がいっただろうと思う。
けれど父帝は母のことを、他の妃たちと同様に「子どもを生ませるための手駒」としか認識していなかったし、同母腹である兄の存在も基本的に無視していた。
彼らにとってはまったく理由のわからない寵愛が、彼らの焦燥を駆り立てた。
私は物心ついたときから異母兄たちに苛められていた。父の目の届かないところで小突き回されるのは日常茶飯事だったし、毒だって何度も飲まされた。
当然、母と兄は父に危機を訴えたが、父はまともに取り合ってくれなかった。
私を溺愛していたとはいえ、そもそもが弱肉強食を地で行く人だ。そこまでは甘くなく、それくらい自分たちで対処しろ、というところがあったが、一番はよくわからなかったからだろうと思う。――皇位継承権を持たないはずの私を、異母兄たちが害そうとする意味が、父にはよくわからなかった。だから私たちの訴えを、真剣に聞いてくれなかった。
けれど異母兄及び妃たちの殺意は日に日に増していく。
――このままではそう遠くないうちに殺されてしまう。
そう私の身を案じた兄と母によって、私は七歳のときに病気で死んだことにされた。
そしてひっそりと地方へと逃がされた私は以来アンズではなくアンジュと名乗り、地方貴族の屋敷の下働きとして、我儘なご主人さまにこき使われる日々を送っていた。
……生存を気取られないため、皇城を出た私は兄や母と会うことができないどころか、手紙の一つさえ出すことができなかった。
けれど三年前――私が十三のころ、唐突に父が死んだ。
父は後継者を指名しておらず、水面下ではとっくに泥沼だった帝位継承権争いが、表面化すると同時に激化した。
兄は早々に母と共に城を追われたが、異母兄たちは追放だけでは飽き足らず、兄と母が逃げ込んだ母の実家を襲撃し、火を放った。祖父母や使用人もろとも皆殺しにする作戦で、祖父母も母も助からなかったが、悪運の強い兄は急死に一生を得て助かった。
そのとき、私はちょうどその場にいた。二人が母の実家に戻ってきたと聞き、過酷すぎた勤め先から夜逃げして駆けつけていたのだ。
七年間も音信不通だったのだから、とっくに忘れられているかもしれないという不安もあったが、燃え盛る屋敷からなんとか這い出してきた兄は、顔を煤けさせたまま私を見てとびきり嬉しそうに微笑むと、骨が折れてしまいそうなほど強い力で抱き締めてくれた。……何年経っても、兄は優しくて偉大だった。まるで太陽のような、私の自慢の兄。
感動の再会を果たした私たちはその後、行商人の真似事をして国内を転々としてまわった。頼れる親類もいなくなってしまったし、あの地に留まっていては異母兄たちの追っ手に捕まってしまうかもしれない、ということではじめた旅だったが、これが案外楽しかった。
私は七年の内にすっかり平民として生きることを覚え込まされたし、兄は大らかな上、どんな環境にも適応できる器用さを持っていたから、元公主・皇子の組み合わせでも、平民として生きていくことは苦ではなかった。太陽みたいに明るい性格の兄が勧める品はよく売れ、おかげで金にもあまり困らなかった。
そんなふうに過ごすうちに、兄には恋人ができて、兄の恋人も私たちの旅に加わった。兄の恋人はかわいくてとても優しい人で、私は三人で過ごす日々が大好きだった。
このまま平穏に生きていくこと。それだけが私の、私たちのささやかな望みだったのに。
――平穏に生きていくためには、兄の身分が重すぎた。
旅を続けて、二年ほどが過ぎた、初秋。
皇位を巡って争い続けていた異母兄たちが全員死んだ。母妃たちも含め、お互いに罠を仕掛け合った結果、誰も生き延びることができなかったのだ。
父帝の兄たちも子を残す前に父に殺害されている。つまり直系皇族はもういなかった。
――城を追放されて以降、生死不明の扱いになっていた兄以外は。
臣下たちは、兄という一縷の望みに縋るしかなかった。全国各地に似顔絵の描かれた張り紙が貼られ、兄を探すための兵があちこちに派遣されるようになった。
けれど兄は名乗り出なかった。
異母兄たちはまったく信じていなかったが、兄は皇位にこれっぽっちも興味・関心を抱いていなかったし、何より皇位に就くということは、私や恋人との別れを意味していた。
私はともかく、恋人と別れることなど考えられなかっただろう。兄は本当に恋人を愛していたし、恋人もまた兄を愛していた。比翼連理とはこういうことを言うのだなと、思わず感心してしまうくらいに仲のよい二人だったけれど、皇帝になると、兄が恋人と結ばれるのは不可能だった。身分差以外にも、彼らの間にはもう一つ、誰にもどうしようもできない問題があった。
最初に張り紙を見てしまったときから、兄の心には常に葛藤が付き纏っていたと思う。
……皇帝になりたい、なりたくないではなくて、他に誰もいないという葛藤。
他国を併呑して大きくなってきたこの国は、その歴史上、昔から様々な派閥に別れており、それを押え込んで従えさせられるのは直系に生まれた皇帝だけだった。それ以外の誰が帝位に就いても国が荒れることが予測できていたから、兄は冷徹になりきれなかった。……もともと、とても優しい人だから。
「皇位継承権が誰もいないって、この国はどうなるんだろうねぇ……」
「都の方では治安が悪化してるって……」
そんな民の不安げな声を聞き続けながら、兄を探す兵たちから逃げまわり続けること、半年。
兄はとうとう決意した。
私と恋人を諦めて、国の行く末を一人で背負う決意を。
兄が皇子だと知らずに恋に落ちたその人に、兄は、ごめんな、と泣きながら何度も何度も謝った。一生幸せにすると誓ったのに、永遠に傍にいてやれなくてごめん、と。
兄の恋人はぼろぼろ泣きながら、気丈に首を横に振って答えた。
泣かないで、カイエン。あなたの愛がどこにあるかは、ちゃんと知っているから。だから何も、何も気にしないでお城に戻って、お城でちゃんと、幸せに生きてね、と。
そのやりとりを陰で聞いていた私もひっそりと泣いた。そして兄が追放されたときには何もしようとしなかったくせに、都合のいいときだけは頼ろうとする臣下たちを恨んだ。呪いをかけるように恨まずにはいられなかった。
兄にとって帝位がどうでもいいことなど、兄の次に私がよく知っている。私と兄の恋人と、三人で生きていくことの方が、ずっと幸せに違いないのに。
兄は私たちに好きに生きるように言い残して、一人で城に戻って皇帝になった。
残された私たちは、途端に抜け殻になった。
自分たちのことは気にしないで、なんて、精一杯の強がりに決まっていた。
兄の恋人は兄に対する恨みこそ一言も漏らさなかったけれど、片翼をもがれたせいで毎日さめざめと泣いていた。私も兄という太陽を失って、生きる気力の大半を失ってしまった。
生きる屍となって無為に日々を過ごしている内に、新皇帝即位の報が耳に入った。
新皇帝となった兄の評判は悪くはないようだったが、噂を聞くたび、私の胸は不安でいっぱいになった。皇城が怖いところだというのは、元公主である私こそよく知っている。より大きな権力を求めて、数多の策謀が渦巻いている。皇城とはそんなところだ。
臣下たちの傀儡にされていないだろうか、私がされたように、兄を邪魔だと感じる者たちに、毒など盛られていないだろうか。
私が心配していることを、兄の恋人も心配していたらしい。いや、私の不安が伝播してしまったのか。
兄が去って、一月半が経ったころ。
私は兄の恋人に泣きじゃくりながら懇願された。どんなに遠くからでもいいから、元気な姿を一目見たい、と。
私は『いいですよ』と頷いた。私も兄の無事を確かめたいと思っていたけれど、兄の恋人がこの人でなければ、一緒に行こうなどとはとても思わなかっただろう。命の危険と隣り合わせの皇城に、信頼できない人は連れて行けない。
私と兄の恋人は、兄の無事を確認してから、兄不在の新しい人生を歩み出すことに決めて、皇城に下働きとして潜り込んだ。
城の最下層員である下働きなら、年中募集している上、ろくに身辺調査もされないことを、私はよく知っていた。第一妃、第二妃たちの嫌がらせで、私たちは女官を取り上げられており、一番下っ端の宦官や下男に世話を焼かれていたからだ。そのときに、下男たちの事情をあれこれと聞いていたことがここで役に立った。
結果、二人とも無事に採用された。私は洗濯下女として、兄の恋人は、別の部署の下働きとして。
皇城は長居するところではない。だから、目的を果たしたらすみやかに去ろう――そう思っていたのだが、皇城の最下層にいては、兄の姿を一目見るどころか、兄に関する信憑性のある噂を集めることすら難しかった。
身分制がきっちりしているゆえなのだろうが、とかく上の階級の人間と関わる機会がない。焦る気持ちとは裏腹に、私たちは二ヶ月間もずるずると皇城に居続ける羽目になり、もう諦めようかと思っていたところ、兄はある日、向こうからやってきた。
梅雨が明け、綺麗に晴れた、六月の半ばのことだった。




