6.夜の散歩
あの夜以来、俺は夢の中でシオリと会うことが少しずつ増えた。
シオリは、金縛りにあった夜は、噴水を潜り抜けて、こちらに俺を探しに来てくれているみたいだ。
「ねぇ、タクミくん、今日はどこに行くの?」
今夜も、俺が夜空に飛び立とうとしたしゃがんだ瞬間、背後からシオリの声が聞こえた。振り向くと、彼女は地上から数センチではあるが確かに宙に浮かんでいた。
「えへへ、結構練習したんだ」
まだぎこちない動きで、まるで水の中にいるかのようにゆっくりと腕を動かしている。
俺は少し驚いたが、
「今日は、シオリに空の飛び方を教えるよ」
俺は笑顔でそう言うと、彼女の隣に並んだ。彼女は不安そうに俺の顔を見上げる。
「私にも、飛べるかな?」
「大丈夫。俺が教えてやるから」
俺は彼女の手を取り、自分の手のひらを地面に向ける。
「いいか、まずはこの手のひらからもっと熱い風を出すイメージだ。手のひらの温度を上げて、その温度差で空気をたくさん流すんだ」
彼女は真剣な表情で頷き、言われた通りに両手を地面に向けた。
「手のひらが、かなり熱くなってきた……」
「そう!その調子!」
俺は彼女の背中を支えながら、ゆっくりと浮かび上がらせる。
「次に、その風の向きを調整するんだ。前に進みたいなら、少し後ろに傾けて……」
訓練は数時間続いた。最初は少し浮くだけで精一杯だったが、次第に彼女はコツを掴んでいった。夜空をまるで歩くかのように、ゆっくりと、しかし着実に進んでいく。
「すごい!私、飛んでる!」
その声は、現実世界では決して聞くことのできない、純粋な喜びで満ちていた。その表情は、病院のベッドで絶望に打ちひしがれていた彼女とは、きっと別人のようなんだろう。
「どう?楽しい?」
「うん!すごく楽しい!」
シオリは満面の笑みで、まるで子供のように空中でくるくると回ってみせた。まだ俺のように自由自在には飛べないが、人が走る程度の速度で、ゆっくりと夜空を移動できるようになった。
それからというもの、俺たちはふたりで夜の街を飛び回った。俺のお気に入りの遊びである「間違い探し」に、シオリも加わるようになった。
「タクミくん、見て!あの交差点の信号、赤と青しかないよ!」
「ほんとだ!俺、気づかなかった!」
シオリは興奮した様子で、指をさした。その横顔は、好奇心で輝いていた。彼女といると、一人では見つけられなかった小さな違いに気づかされる。
この夢の世界は、俺だけの場所から、ふたりだけの特別な場所に変わっていった。
ある晩、俺たちは海沿いを飛んでいた。月明かりが海面にきらきらと反射し、まるで銀の道が続いているようだった。
「ねえ、海って、夢の中でもしょっぱいのかな?」
シオリがそう言って、海面を覗き込んだ。俺はいたずら心が芽生え、彼女より少しスピードを上げて海面に近づいた。
「どうかなー?」
俺は片足を海面ギリギリまで下げ、勢いよく蹴り上げた。ザバッと音を立てて、水しぶきがシオリに向かって飛んでいく。
「きゃっ!つめたっ!」
シオリは驚いて悲鳴をあげた後、俺を睨みつけた。
「タクミくん、ひどい!」
「ははは! シオリもやればいいじゃん!」
俺は笑いながら、さらにスピードを上げて逃げる。シオリも悔しそうにしながら、俺を追いかけてきた。追いかけっこはしばらく続き、夜空にふたりの笑い声が響き渡った。現実では、こんなにも無邪気に笑うことなんて、もうないだろう。そう思うと、胸が少しだけ痛んだ。
追いかけっこに疲れて、俺たちは山の上にある、一番高い木のてっぺんの枝に腰掛けた。冷たい夜風が心地よく、眼下には光の海が広がっている。月明かりが、ふたりの姿を優しく照らしていた。
「ねぇ、タクミくんは、どうしてそんなに空を飛ぶのが好きなの?」
シオリが静かに尋ねた。俺は少し考えてから、答えた。
「俺は、現実でなんでもできるわけじゃないから。バイトもして、友達と遊ぶ時間も削って……。でも、ここに来れば、誰よりも自由になれる。何でもできる。だからかな」
シオリは何も言わず、ただ静かに俺の言葉を聞いていた。しばらくの沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私ね、この夢の世界に来るまで、ずっと自分が世界で一番不幸だと思ってたの。歩くことも、外に出ることもできなくて……。友達もいなくなって、毎日が苦痛で……。でも、タクミくんと会って、一緒に空を飛んで……。私、初めて空を飛んだ時、生きているって、こんなに楽しいことだったんだって、思い出したの」
シオリの声は震えていた。俺は、彼女の言葉に胸が締め付けられるような気がした。俺の夢の世界は、現実からの逃避だったのかもしれない。でも、シオリにとってのこの世界は、生きる希望を見つける場所だったのだ。
「私、タクミくんと出会えてよかった」
シオリはそう言って、俺の肩にもたれかかった。俺は何も言わず、ただ静かに、彼女の小さな肩を抱き寄せた。
ふたりで、月明かりを浴びながら、静かに夜景を眺めていた。
この夢の世界が、いつまでも続けばいいのにと、心から願った。




