11.スーツの女
「…きみは、タクミくんだよね?」
その声は、優しくもどこか芯の通った響きを持っていた。俺は警戒しながら、スーツ姿の女性を見上げた。整った顔立ちに、知的な雰囲気を漂わせている。その目は、俺の心を全て見透かすかのように真っ直ぐで、少しだけ居心地が悪かった。
「……そうですけど。誰ですか、あなたは?」
「はじめまして。私は橘薫と申します。気軽にカオルさんって呼んでね。」
「は、はぁ…」
「私は政府の関係者で、少しタクミくんのお話を聞きたいと思い、君を探してたんだ。」
「政府…?」
カオルと名乗る女性の言葉に、俺はさらに身構えた。政府?なぜ俺のところに?心臓がバクバクと不規則に脈打つ。何かの間違いであってくれと、心の中で願った。
カオルは俺の戸惑いを見透かすように、河川敷の草むらに腰を下ろした。柔らかな草が、彼女のグレーのスーツに少しだけ付着した。
「そう身構えないで。大丈夫、タクミくんにとって、悪い話じゃないから」
彼女はそう言うと、持っていた小さなタブレットを操作し始めた。そして、画面を俺の方に向けて見せた。そこに映し出されていたのは、昨日俺が体験したあの事故のニュース記事だった。
燃え盛るファミレス、ひっくり返ったタンクローリー。そして、その写真の隅に、小さく映り込んでいる俺とシオリの姿。
「…それで、なにが言いたいんですか?」
俺は震える声で尋ねた。カオルはタブレットをしまい、俺の目を見て話した。
「昨日の事故の件、本当に大変だったね。いや、事故っていうか、あれは『インパクト』が原因で起きた副次的な被害、という認識かな。私たちは。」
「インパクト…?」
「そう。日本全国で、昨日の午前2時30分頃に、赤い空が目撃された。その後、2時45分に稲光みたいな眩しい光が空全体に広がった瞬間、謎の衝撃波が走った。政府はこれを『インパクト』と名付けた」
カオルは淡々と説明しているが、彼女の言葉は俺が昨夜体験した出来事と完全に一致していた。
あの時、空が赤く染まり、そして光った瞬間、俺とシオリはモールの看板から弾き飛ばされた。あれが衝撃波だったのか。
「その衝撃波で、街の窓ガラスが割れたり、ちょっとした建物の損壊はあったけど、深夜だったこともあって、怪我人はほとんど出ていない。ただ、山の土砂崩れや、車を運転中に衝撃波に驚いてハンドル操作を誤った事故がいくつか報告されてる。タクミくんが遭遇した事故は、その一例ってわけ」
「あの、タンクローリーの運転手の方は無事だったんですか…?」
俺が聞くと、カオルは少しだけ表情を和らげた。
「ええ、安心して。タクミくんのおかげで無事よ。あと、運転手さんから話を聞いたら、光と衝撃波に驚いてハンドルを誤ったことが分かったから、タクミくんたちのせいで事故が起きたなんてことは誰も思っていない。むしろ君たちは、人命救助のために現れたヒーローだよ。SNSで拡散されてた写真、あれ、実は動画もあったんだ。それを見て、私はタクミくんと、もう一人の女の子の存在に気づいた」
カオルはそう言って、再び俺の目を真っ直ぐに見つめた。まるで、俺の心の中を覗き込んでいるかのような、その強い視線に、俺は身体を固くした。
「…なんで、そんなに詳しいんですか?」
「政府は昨日のインパクト以降、その原因と影響について調査を始めた。衝撃波の被害もさることながら、それ以上に奇妙な報告が多数寄せられている。それは、『夢を見ていたら、いつのまにか現実の世界にいた』っていうものだ」
カオルの言葉に、俺は息をのんだ。
夢と現実の境界が曖昧になっているのは、俺だけの現象ではなかったのか。
「最初はね、夢遊病か、イタズラかなって思ってた。でも、報告数が尋常じゃない。各地で、夢の中から現実世界に転移したって話や、夢の中に現実世界が現れた、とか。似た報告が相次いでる。中には、急に現れた知人を車で轢いてしまった。しかし、知人は霧のように消えてしまう。慌てて知人に連絡をとる。知人は夢の中で同様に車に轢かれ、その瞬間ベッドで起きたらしいの。どう?興味深くない?で、私はその中でも、君たちが関わった事故に注目した。君たちの超人的な能力…あれは、夢の世界の君たちだから使える能力だけど、重なった現実世界でもその能力を発揮することができるんじゃないかと思って。あくまで私の推論なんだけどね。」
カオルは確信に満ちた目で俺を見ている。
俺は何も言い返せなかった。確かに辻褄が合う。まてよ、まさか、今も夢の世界に入れば、昨日のように現実が重なり合ったままなのか?
「この話、まだ政府の他の人間は知らない。知っているのは、ごく一部の関係者だけ。そして、タクミくんの存在に気づいているのは、私だけだよ。だから安心してほしい。私は君に、危害を加えるつもりはない。ただ、この謎の現象について、君の力を借りて、解明したいと思ってる」
「……どうして、僕なんですか?」
「だって、君は他の誰よりも、夢の世界で過ごす時間が長い。だからそこで超人的な能力を身につけることができたんじゃないかな?君が知っている、君が体験したことが、この奇妙な現象の解明に繋がるヒントになると私は信じている。それに…もし、この現象を悪用しようとする人間が現れたら、どうする?君の力は、その時こそ必要になる」
カオルはそう言って、俺に右手を差し出した。
「どうかな?私に協力してくれない?君の身に何か起きた時は、私が全力で助けることを約束する。もちろん、君が望むなら、夢と現実を元のとおり引き剥がす方法も一緒に探す。君が困った時は、いつでも頼ってくれて構わない。だから…君が知っていることを、私に教えてくれない?」
彼女の言葉は、俺の心を強く揺さぶった。このまま、誰にも相談できず、一人でこの異常な状況と向き合っていくのか。それとも彼女に全てを打ち明け、力を借りるのか。
シオリのことが頭に浮かんだ。彼女も、俺と同じようにこの現象に巻き込まれている。きっと、不安なはずだ。彼女を守るためにも、この異常な状況を早く理解する必要がある。
だが、政府関係者と名乗る女性に、全てを話してしまっていいのだろうか。本当に信用できるのか?
俺は彼女の手をじっと見つめ、大きく息を吐いた。
「…すみません。少し、考えさせてください。まだ、色々と僕自身も調べたいことがあるんです。それに、僕だけの問題じゃない。あの子にも、相談したいんです」
俺の言葉に、カオルは少しだけ驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「分かった。無理は言わない。私も、あなたに全てを話してほしいなんて、最初から思ってないから。また、連絡する。だから無理しないでね」
そう言うと、彼女は名刺のようなものを俺に手渡した。そこには、シンプルなデザインで、名前と電話番号だけが記載されていた。
「君の好きな時に、連絡してくれればいい。私はいつでも君からの連絡を待っているから」
そう言い残し、カオルは去っていった。
俺は手に残った名刺を握りしめ、再び河川敷に寝転がった。さっきまで見ていた青空は、いつの間にか厚い雲に覆われている。
「シオリ…どうすればいいんだ…?」
俺は心の中で、彼女に問いかけた。
この名刺に書かれた連絡先に電話をすれば、俺たちの日常は、大きく変化してしまうかもしれない。でも、このまま何もしなければ、この世界は、一体どうなってしまうのだろう。
風に揺れる草の音だけが、俺の耳に届いていた。