1.もう一つの日常
放課後の喧騒が満ちる高校の教室で、俺は窓の外をぼんやりと眺めていた。茜色に染まり始めた空の下、グラウンドではサッカー部が声を張り上げ、ボールを追いかけている。遠くには部活を終えた生徒たちが、三々五々、笑いながら帰路についていた。
そんな、なんの変哲もない日常の風景を眺めていると、隣の席に座るユウキが、わざとらしくひそひそ声で話しかけてきた。
「なあ、タクミくん、今回のテスト結果どうでしたかな?」
ユウキは、まるで悪徳商人のようにニヤニヤと笑いながら、俺の肩を小突く。
「うーん、なんとかギリギリ、って感じかな」
俺がそう答えると、ユウキは大きく目を見開いて叫んだ。
「えっ!うそ!お前、ダチ思いの俺が補習に付き合うって言ったじゃん!この裏切者ー!」
その大声に、クラスの何人かがこっちを見た。ユウキは恥ずかしがるどころか、さらに大袈裟に嘆いてみせる。
「俺はタクミのために、この青春の貴重な時間を犠牲にしようと決意したというのに……」
アヤカがクスクス笑いながら、ユウキの頭を教科書で小突いた。
「バカはほっといてさ、タクミ。帰り、駅前のバーガー食べてかない?」
「ごめん、アヤカ。今日はバイトなのよ」
そう言って笑いかけると、アヤカは分かりきっていたとでもいうように、少しだけ口を尖らせる。
「えー、また!?タクミ、バイトばっかじゃん」
その声には少しだけ拗ねたような響きが含まれていた。俺は苦笑いしながら机に広げていた教科書を片付け始めた。放課後の時間、みんなと遊びたい気持ちは確かにある。特に、ユウキとアヤカと3人で遊ぶのは、くだらなくて、でも何よりも楽しい時間だ。でも、今はバイトを休むわけにはいかない。
「ごめんな、また今度な」
「ほんとだよ、次の休みは絶対だからね!」
アヤカの声が、教室の片隅に響いた。
時計が夜の22時を指す頃、「ありがとうございましたー!」と威勢のいい声でバイト先のコンビニの自動ドアが閉まるのを見届け、俺は大きく息を吐いた。
身体に馴染んだバイト着から、着慣れた制服に着替える。バイト中は、ひっきりなしに鳴る「いらっしゃいませ!」と「ありがとうございました!」の声、そしてレジを打つ電子音で、頭の中が満たされていた。でも、店を出た途端、それらの音は一気に遠ざかり、代わりに夜風が火照った身体に心地よかった。
自転車のペダルをこぎながら、ふと夜空を見上げた。月明かりに照らされた雲が、ゆっくりと形を変えていく。満月が、まるで俺のことを見守ってくれているかのように、穏やかな光を放っていた。
家に帰り、風呂で汗を流して自室に戻る。俺はいつものようにスマホを手に取った。いつもの動画サイトを開くと、そこにはパルクールの動画。軽々と壁を駆け上がり、ビルの屋上を飛び移っていく。そのしなやかな動きに、俺は思わず息をのんだ。
「……ここをこう捻って……いや、ここからこう、か?」
画面の中の動きを真似て、自分の身体をひねったり、膝を曲げたりしながら、ブツブツと呟く。まるで、動画の動きの一つ一つを、自分の身体にインストールしようとしているかのようだった。
動画を見終えると、俺は布団に入った。スマホのタイマーをセットする。午前5時に設定されたタイマーの画面をじっと見つめ、俺は小さく息を吐いた。
「よし!」
心の中で小さく呟き、目を閉じた。
そこは夜の住宅街の屋根の上。冷たい風が頬をかすめ、月明かりが瓦屋根の凹凸をはっきりと浮かび上がらせる。瓦の冷たい感触が、手のひらから伝わってきた。
「イメージはバッチリだ」
俺は静かにそう呟くと、瓦屋根の上を走り出した。足音がまったくしない。まるで、俺の存在がこの世界に溶け込んでいるかのようだ。助走をつけたまま踏み込み、隣の家へと大きく跳躍する。空中で、もう一度、動画の動きを思い出しながら身体を捻ると、完璧な姿勢で着地した。そのまま勢いを殺すように一度転がってから、再び走り出す。
眼下には、静まり返った夜の街が広がっていた。街灯の光が、まるで宝石を散りばめたように見える。現実では絶対に味わえない、身体が軽やかに宙を舞う感覚。俺は、夜の街を舞台に、どこまでも自由に駆け抜けていけるこの楽しさに、完全に没頭していた。
壁にぶつかりそうになった瞬間、片足で壁を蹴って身体を回転させ、飛び出たエアコンの室外機をも器用に避ける。バック転のようなアクロバットな動きを組み入れながら、次から次へ、家から家へと飛び移っていく。
「気持ちいー!」
思わず、そう叫んでしまった。その声は、夜空へと吸い込まれていった。
得意げに赤い屋根をバック転しながら走り抜け、後ろも見ずに大きくジャンプした。
次の瞬間、俺の目の前には屋根はなく、崖のような坂に向かって真っ逆様に落ちていく。
「あららー?」
俺は慌てるそぶりもなく、空中で両手を広げた。まるで、鳥が羽を広げるかのように。地面ギリギリで反転し、そのまま空高く飛び上がった。
月明かりに照らされた雲の中を自由に飛び回りながら、俺は開放感と爽快感に浸った。全身を包み込むような、この夢の世界。ここだけが、俺が「俺自身」でいられる場所だった。
スマホの朝を告げるタイマーが、けたたましく鳴り響く。
「うーん、はいはい、分かりましたよっ」
雑にタイマーを止めて頭をボリボリとかきながらベッドから起き上がった。カーテンを開けると、窓の外には青い空が広がっていた。
「ふわぁ……」
大きなあくびをしながら、俺は今日も一日が始まることを自覚した。