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ツケは回った──承認欲求の果て

作者: イチジク

彩音の笑顔は、夜の画面に小さな灯火のように揺れていた。コメント欄は波のように流れ、スパチャの光がちらちらと弾ける。彼女の声は柔らかく、しかし遠い。画面の向こうに無数の孤独な眼差しがあることを、彩音は知っていたかもしれないし、知らなかったかもしれない。

タカシは薄暗い部屋で、その声を追った。スクリーンの光は瞳に宿り、スパチャが飛ぶたびに胸の奥に小さな灯がともる。だが今夜――その灯は燃え残った灰のようにくすぶっていた。彩音は、彼の名前を呼ばなかった。

指先が震え、呼吸が荒くなる。心臓の鼓動が耳を打ち、視界の端で波紋が広がる。呼ばれるはずの名前は、砂漠の風にさらわれる砂のように消えた。氷の下で亀裂が走るように、彼の世界は音もなく崩れた。

翌日。駅前のカフェ。窓際に座る彩音を見つけた瞬間、街の喧騒は薄膜の向こうに遠のいた。客たちの笑い声も、店員の動きも、彼にとっては霞む背景だった。彩音はスマホを手に、誰かに微笑んでいる。だがその笑顔には、配信画面の光は宿っていなかった。

タカシの足音は硬く、呼吸は途切れ、指先はポケットの奥で震える。視線がぶつかる。氷の下で眠っていた黒い魚が、一気に跳ね上がった。

倒れる音と、カップの割れる乾いた響き。悲鳴。椅子のきしみ。スマホのレンズが稲妻のように光を放つ。ニュースサイトは即座に見出しを打つ。「人気VTuber襲撃」「ファンの狂気」。匿名掲示板ではざわめきが渦を巻き、「事務所は管理責任を果たせ」と声明が投稿される。だがその速さと冷たさは、逆に現実の重さを空虚にしていた。

取調室。タカシは椅子に沈み、震える手を膝に置いた。視線は宙を漂い、かつての配信画面を幻のように追う。スパチャの色。名前が読まれなかった瞬間。光が抜け落ちた暗がり。それが、彼の全てだった。

彩音は病室で目を覚ます。白い壁、滴る点滴、静かな呼吸音。窓から射す陽光が埃を金色に染め、彼女の手の甲を照らす。スクリーン越しに人の孤独を吸い上げ、金に変えた日々。数字に酔い、笑顔を売ってきた年月。そのすべてが胸に刺さる。

ベッド脇のテーブルに、一通の封筒。差出人は書かれていない。震える指で開くと、紙には短く一言だけが綴られていた。

――救われました。

それだけ。言葉の余白が、彼女の胸を静かに満たす。

彩音は小さく呟く。「ツケは回った」

声はかすかに震えたが、どこか澄んでいた。

世界はまた動き続ける。SNSは新たな話題へと移り、街の喧騒は元に戻る。だが彼女の心の奥には、氷が割れて光が差し込む感覚が残った。贖いの始まりは、誰に知られることもなく、ただ静かに息づいていた。

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