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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

犬のお巡りさんと迷子のオメガ

夜の街は、思ったよりも静かだった。白石ハルは、自分の足音だけが響く細い路地を進んでいた。都会に引っ越してきたばかりで、慣れない街並みに完全に迷い込んでしまった。遠くの大通りから車のエンジン音が聞こえるだけで、この辺りは人の気配すら感じられない。


この街では、獣人と人間が共に生活をしている。特に獣人の中でも「犬型」は警察官として多く活躍しており、治安維持に一役買っていた。だが、街の空気には微妙な緊張感が漂っている。獣人の存在を当然のように受け入れる者もいれば、彼らの力を怖れる人間も少なくない。


「おかしいな……地図ではこの辺に……」


スマートフォンを握りしめた手がじっとりと汗ばむ。位置情報は狂いっぱなしで、頼りの地図アプリは役に立たなかった。狭い路地の入り組んだ構造に、どの方向に進めばいいのかもわからない。


少しずつ、不安が胸を占めていく。それ以上に、体が妙に熱い。


「まさか……」


思わず立ち止まり、壁に手をつく。嫌な予感がした。普段飲んでいるフェロモン抑制剤が切れたのだろうか?かすかな頭痛とともに、体の奥からじわじわとした熱が広がり始めていた。


その時だった。


「君、いい匂いがするね。オメガかい?」


低く響く声が後ろから聞こえた。ぎょっとして振り返ると、背の高い男が立っている。黒いスーツを着た獣人――明らかにアルファの匂いをまとった存在だった。


「い、いえ、大丈夫です……」


ハルはかすれた声で答えたが、男は口元に薄い笑みを浮かべながら一歩近づいてきた。


「本当に?迷ってるんなら、手を貸してやろうか?」


その言葉の裏には、明らかに別の意味が含まれていた。ハルは逃げ出したかったが、足がすくんで動けない。フェロモンのせいで自分が発する微かな匂いを、相手が感じ取っているのがわかった。


「大丈夫だって言って――」


「どうした、揉めてるのか?」


再び声が響いた。だが、先ほどの男とは異なる、落ち着いた響きだった。ハルが振り向くと、そこには黒い制服を着た獣人――警察官が立っていた。


大きな体躯に黒いラブラドールの耳と尻尾。目は鋭いがどこか穏やかさを感じさせる。胸には警察のバッジが光り、彼が「犬のお巡りさん」であることを示している。


「警察だ。何か問題があるなら、まず私が聞こう。」


その言葉は低くも威圧感がなく、むしろ穏やかだった。ハルは知らず胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。


黒いスーツの男は明らかに警察官の存在に動揺している様子だった。


「いや……別に。ただ道を聞いただけだ。」


男はそう言い残して、足早に去っていった。その背中が人混みに消えると、黒いラブラドールの耳がピクリと動き、警察官が視線をハルに戻した。


「怪我はないか?」


低く響く声だったが、不思議と優しさを感じさせる。ハルは、胸の奥に少し残る緊張を感じながら、かぶりを振った。


「……いえ、大丈夫です。ただ、道に迷っていて……」


弱々しく答えると、警察官はわずかに眉を寄せた。


「こんな時間に、一人で歩くのは危ない。特に……オメガの君には。」


その言葉に、ハルの体がびくりと震えた。抑制剤が切れたことに、相手は気づいている。獣人――特にアルファの嗅覚は鋭いと聞いていたが、実際に感じ取られたことに、ハルは恥ずかしさと怖さで俯いた。かすれた声で、彼は問う。


「……どうしてわかったんですか。」


「俺たちは嗅覚がいい。君のフェロモンの匂いが、少しだけ感じられた。」黒い耳を少し動かしながら、警察官は正直に答えた。「ただ、まだ抑えられている方だ。すぐに帰った方がいい。」


ハルはその言葉にうなずこうとしたが、足元がふらつき、壁にもたれかかるようにして倒れそうになる。警察官はすぐさま腕を伸ばし、ハルの体を支えた。


「無理するな。どこまで送ればいい?」


「いえ、本当に……大丈夫です。」


「こんな状態で一人で歩けるわけがない。君の住所を教えてくれれば、俺が送る。」


その言葉はあまりにも真っ直ぐで、断る気力を失ってしまった。彼の目には疑いも蔑みもなく、ただ「困っている人を助けたい」という純粋な意志だけが見えた。ハルは震える声で住所を伝えた。


「歩けるか?」


「……はい。」


ハルが答えると、警察官――黒川レンは一歩先に立ち、ゆっくりと歩き始めた。その背中は広く、どこか安心感を与えてくれるものだった。ハルはふらつく足取りで、彼の後を追った。



街灯がところどころ壊れた夜道を進む中、レンがふと振り返った。


「引っ越してきたばかりなのか?」


「……はい。まだ慣れなくて……。」


「それなら仕方ない。ただ、この街は入り組んだ場所が多いから、夜に一人で歩くのは危険だ。特に君みたいなオメガには、良くない状況も多い。」


ハルは「オメガ」という単語に引っかかりながらも、レンの言葉に耳を傾けた。獣人の存在が多いこの街では、オメガが狙われるケースが後を絶たない――そういう話を、引っ越し前に聞いたことがある。


「獣人……多いですもんね、この街。」


「そうだ。特に警察はほとんどが獣人だ。俺もそうだが、特性を生かして役に立てる場面が多い。けど、中には力を悪用するやつもいる。」レンはちらりとハルに視線を向けた。「さっきの男みたいにな。」


ハルは思い出すだけで嫌な気分になり、小さくうなずいた。


「……どうして警察官になったんですか?」


口をついて出た問いに、レンは少しだけ眉を動かした。


「どうして、か。そうだな……守りたいと思ったから、かもしれない。」


その言葉は意外に真剣で、ハルは一瞬だけ彼の横顔を見つめた。黒い耳が少しだけ揺れる。


「……そうなんですね。」


それ以上は聞けなかった。言葉を探す間に、レンが立ち止まった。


「ここでいいか?」


見上げると、自分の住むアパートが目の前にあった。ハルは少しだけ安堵しながらうなずいた。


「ありがとうございました。本当に……助かりました。」


レンは少しだけ首を傾ける仕草を見せ、静かに言った。


「困ったときは、遠慮せず警察を頼れ。俺たちはそのためにいるんだ。特に君みたいな立場の人間は、一人で抱え込むな。」


それはあまりにも優しい言葉だった。ハルは少し迷いながらも、「はい」と答えた。


「あの、お名前を伺ってもいいですか?」


「黒川、黒川レンだ。」


「黒川レンさん……ありがとうございました。」


レンが軽く敬礼をして、背中を向けて歩き出す。その背中を見送りながら、ハルは胸の中にじんわりと広がる温かさに気づいた。



ハルは仕事を終え、最寄り駅からアパートへ向かう途中だった。少し蒸し暑い夜のせいか、足取りは重く、気分も冴えない。人通りの少ない道を歩きながら、どこか不安が胸をよぎった。


この数日、何かに見られている気がする。


自分の足音の裏に、かすかにもう一つ別の音が混じるのを感じるたび、ハルは肩をすくめた。振り返っても誰もいない。それでも、不安は消えない。


「……気のせいだよね。」


自分に言い聞かせるように小声でつぶやいたときだった。


「こんばんは。」


突然、横から声がかかった。


ぎょっとして振り向くと、そこにはスーツ姿の獣人が立っていた。アルファ特有の威圧感を漂わせた男は、笑みを浮かべながらこちらを見ている。その目は、まるでハルを品定めするようにじっと見据えていた。


「いい夜だね、オメガさん。」


その言葉に、背筋が凍った。どうしてオメガだとわかったのか。抑制剤が効いていないのか。頭の中がぐるぐると巡る中、男が一歩近づく。


「そんなに怯えないで。君みたいな子が一人で歩いてるのは危ないと思ってね。送ってあげるよ。」


優しげな口調とは裏腹に、その声には明らかな意図が含まれていた。


「い、いえ、結構です!」


ハルは体を反射的に後ろへ引いた。けれど、男はさらに近づく。逃げる暇もない。


「遠慮することないさ。俺は親切なんだよ――」


「――そこで何をしている?」


その瞬間、鋭く低い声が響いた。


振り向くと、黒い制服を着た黒川レンが立っていた。ラブラドールの耳がピンと立ち、目は冷たく鋭い光を放っている。その威圧感に、スーツの男が思わず怯むのがわかった。


「警察だ。何をしている?」


レンがもう一度問うと、男は苦笑いを浮かべた。


「いや、ただ少し話してただけさ。」


「話すなら、明るい場所で話せ。」


冷たくそう言い放つと、レンは一歩前へ出た。スーツの男は居心地悪そうに視線を逸らし、足早にその場を立ち去った。


レンはその背中をしばらく見送った後、ハルに振り返った。


「また、夜道でトラブルか?」


その言葉に、ハルは肩を震わせた。


「ごめんなさい……」


消え入りそうな声で謝ると、レンは少しだけ眉を寄せた。


「謝る必要はない。ただ、君自身が気をつけないといけない。オメガが一人で歩くのは、本当に危険だ。」


その言葉には責めるような響きはなく、むしろ心から心配しているような色が含まれていた。


「……なんで、ここに?」


ハルが問いかけると、レンは少しだけ口元を緩めた。


「巡回だ。君の家の近くも見回るようにしてる。」


その答えに、ハルの胸の奥がかすかに揺れた。


「……そんなに迷惑かけてたんですね。」


「迷惑だなんて思ってない。ただ、助けるのが俺の仕事だ。それだけだ。」


その言葉はあまりにも真っ直ぐで、ハルは目を伏せた。


「……すみません、ありがとうございます。」


レンは小さくうなずくと、ふと少し柔らかい声で言った。


「こんな時間まで働いてたのか?」


「え、はい……」


「じゃあ、疲れてるだろう。家まで送る。歩けるか?」


その申し出にハルは一瞬迷ったが、レンの視線の強さにうなずくしかなかった。



二人は再び並んで歩き出した。レンの足取りはゆっくりで、ハルのペースに合わせているようだった。静かな夜道の中、二人の足音だけが響く。


「……本当に獣人って、嗅覚がいいんですね。」


不意にハルが口を開くと、レンは少しだけ耳を動かした。


「そうだ。俺たちは嗅覚や聴覚が鋭い。けど、それが周囲に怖がられる原因になることもある。」


「……怖がられる?」


「人間は、俺たちを“危険”だと思ってることが多い。アルファならなおさらな。」


レンの声には、自嘲のような響きが含まれていた。


「それは……」


ハルは何か言い返そうとしたが、言葉が見つからなかった。



しばらく二人は、互いに口を開かずに歩いていた。レンは時折、ハルの歩調を気遣うように視線を向けたが、ハルがそれに気づくたびに慌てて目をそらした。


やがてアパートの近くまで来た頃、ハルが小さな声で切り出した。


「さっき……怖がられるって言ってましたけど、そんな風には見えませんけど。」


レンが少しだけ眉を上げ、ハルを見下ろす。


「どういう意味だ?」


「その……黒川さんは怖くない、というか、なんだか……落ち着くっていうか……。」


最後の方はほとんど聞き取れないくらいの声になった。自分でも、何を言っているのかわからなかった。けれど、そう言葉にしてみると、それが本心であることに気づく。


レンはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「初めて言われたな。」


その言葉に、ハルは意外そうに目を見開いた。


「そうなんですか?」


「ああ。俺はアルファの獣人だ。それだけで、人間にはよく警戒される。」


レンの声は平坦だったが、その奥にはどこか諦めのような響きが含まれていた。


「警察官になってからは少しマシになったが、それでも“怖い”と言われることは少なくない。」


ハルは彼の横顔を見つめた。どこか疲れたような目をしていることに気づく。


「でも……さっき助けてくれたみたいに、黒川さんが怖いなんて、そんな風には思えないです。」


ハルがぽつりと呟くと、レンは一瞬だけ動きを止めた。そして、少し照れたように視線をそらす。


「そう言ってもらえるのは……悪くないな。」


その一言に、ハルはなぜか胸が温かくなるのを感じた。



アパートの前に着くと、ハルはレンに小さく頭を下げた。


「今日は本当にありがとうございました。黒川さんがいなかったら、どうなっていたか……。」


「気にするな。俺の仕事だ。」


そう言いながらも、レンの声はどこか柔らかい。


「けど、君も少しは気をつけろ。オメガが一人で出歩くのは本当に危険なんだ。」


「……はい。」


ハルは小さく頷いたが、その顔はどこか暗い。レンはその表情を見て、少しだけ言葉を選んだ後、続けた。


「君が悪いわけじゃない。けど、今の世の中では、オメガはどうしても狙われやすい。それを防ぐために、俺たち獣人の警察がいる。」


その言葉に、ハルは少しだけ表情を和らげた。


「黒川さんは、本当に頼りになりますね。」


「……そうか?」


「はい。でも、なんでそんなに親切なんですか?」


ハルの問いに、レンは少しだけ考えるような間を置いてから答えた。


「俺は、人間も獣人も守れる存在でありたいと思ってる。それが、俺が警察官になった理由だ。」


その言葉に、ハルはふと胸が締め付けられるような気持ちになった。


「守れる存在……。」


その言葉の重みを噛みしめるように反芻する。自分は、ずっと守られるだけの存在だと思ってきた。オメガとして弱いから仕方がないと、そう諦めていた。それが急に、どこか小さく感じられるような気がした。


「じゃあ、僕も気をつけますね。黒川さんに迷惑かけないように。」


ハルが少しだけ笑うと、レンも微かに口元を緩めた。


「それが一番だ。」



その夜、ハルは布団の中でふとレンの顔を思い浮かべた。


黒い耳と、どこか優しい目。怖いと思っていたはずのアルファ獣人が、自分を守ってくれた。


「……不思議な人だな。」


小さく呟きながら、いつの間にかハルは眠りに落ちていった。



以下、ハルの休日に非番のレンと偶然再会する場面を書いていきます。二人の距離がさらに近づくきっかけになるように、会話や小さなエピソードを通じて交流を深めます。



久しぶりの休日だった。


白石ハルは、洗濯物を干し終えると、やっと一息ついてソファに腰を下ろした。忙しい日々の中で、こうして何も予定がない日があるのは少しだけありがたかった。


けれど、何をするでもなく、時間だけが過ぎていく。新しい街で友人もまだいないハルは、結局家に閉じこもることになりがちだった。


「せっかくの休みだし……少しは外に出ようかな。」


そう自分に言い聞かせ、ハルは財布と鍵を持って外に出た。



小さな商店街に出たのは昼過ぎだった。


歩いていると、どこからか美味しそうな焼き菓子の匂いが漂ってくる。ハルは自然と足を止め、小さなパン屋のショーケースを覗き込んだ。


「どれにしようかな……。」


悩みながら目を動かしていると、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。


「それなら、ここはアップルパイがおすすめだ。」


振り返ると、そこには黒川レンが立っていた。制服姿ではなく、シンプルなシャツにパンツというラフな格好だ。黒いラブラドールの耳が揺れ、尻尾が少しだけ動いている。


「黒川さん……?」


思わず名前を口にすると、レンは軽くうなずいた。


「偶然だな。ここは俺の行きつけの店なんだ。」


「……そうなんですね。」


普段の厳格な警察官のイメージとは少し違う雰囲気に、ハルは少しだけ戸惑った。それでも、どこかほっとした気持ちが湧き上がる。


「今日は非番なんですか?」


「そうだ。たまには休みを満喫しようと思ってな。」


そう言うと、レンはショーケースの中を指差した。


「ここのアップルパイは絶品だ。もしよかったら、食べてみるといい。」


その勧めに、ハルは小さく笑って頷いた。


「じゃあ、それをください。」


店員に注文を伝えると、ハルは袋を受け取った。それを見て、レンが少しだけ口を開いた。


「もし、よければ一緒にどうだ?この辺りにいい公園がある。」


予想外の提案に、ハルは少し驚いたが、レンの穏やかな表情に引き込まれるように頷いていた。



近くの小さな公園に着くと、二人はベンチに腰を下ろした。レンは自分もアップルパイを一つ手にしていて、黙々とそれを食べ始める。


ハルも袋を開けて一口頬張った。甘くて優しい味が口の中に広がる。


「本当に美味しいですね、これ。」


そう言うと、レンは満足そうにうなずいた。


「だろう?ここに来るたび、つい買ってしまう。」


二人はしばらくアップルパイを楽しみながら、公園の木々や遊ぶ子供たちを眺めていた。穏やかな時間が流れる中、ハルがふと口を開いた。


「黒川さんは、普段からこんなに親切なんですか?」


「どういう意味だ?」


レンが少し眉を上げると、ハルは慌てて首を振った。


「いや、その……困ってる人にすぐ手を差し伸べてくれるっていうか。僕みたいに、迷惑ばかりかけてる相手にも……。」


その言葉に、レンは一瞬考えるように視線を遠くに向けた。そして、少しだけ肩をすくめる。


「迷惑だなんて思ったことはない。俺は、ただ人を守りたいだけだ。」


その言葉には嘘偽りがなかった。真っ直ぐな瞳が、それを証明しているようだった。


ハルは目を伏せる。

「守れる存在」――その言葉は、どこか眩しかった。


自分は、ずっと守られる側でしかないと思っていた。オメガとして生まれた瞬間から、それが当然だと教えられてきた。力がないから、危険だから、何かあればすぐに誰かの助けを求めなければいけない。そういう風に育てられてきた。


それが嫌だったわけではない。ただ、胸の奥にはいつも引っかかる感情があった。守られることに慣れ過ぎて、何もできない自分。目の前でレンのように堂々と「守りたい」と言える存在が、自分にはどうしても遠いもののように思えた。


けれど――。


「……守れる存在、か。」


その言葉を反芻すると、胸の奥で小さな違和感が動いた。守られるだけでなく、自分も誰かを守れるかもしれない、という可能性。それを考えた瞬間、なぜか息苦しさが少しだけ和らぐのを感じた。


ふと顔を上げると、レンはハルを見つめていた。真剣な視線だったが、どこか優しさも滲んでいる。


「君は、ずっと一人で抱え込んでいたんじゃないか?」


突然の言葉に、ハルは息を飲んだ。レンの言葉はまるで、心の奥を見透かすようだった。


「……抱え込んでいた、というか……周りに頼るのが、怖くて……。」


ハルは正直にそう呟いた。言葉にすることで、自分がずっと避けてきた感情が明確になる気がした。


「頼るのは悪いことじゃない。」


レンの声は低く、それでいて温かかった。


「俺も、誰かに頼ることがなければ、今ここにはいなかったかもしれない。」


「……黒川さんが?」


ハルは驚いたようにレンを見た。頼られる側だと思っていた彼から、そんな言葉が出るとは思わなかった。


「ああ。俺だって、いつも完璧じゃない。むしろ、不器用だと思う。」レンは少し肩をすくめ、続けた。「けど、助けてもらうことで、自分が強くなれたと感じたことは何度もある。だから、俺も誰かを守りたいと思ったんだ。」


その言葉に、ハルの胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「頼ることが、悪いことじゃない……。」


その言葉を繰り返しながら、ハルはふと視線を下げた。自分が抱えていたものが、少しずつ形を変えていくような気がした。それは怖さでもあり、同時に心地よさでもあった。


横にいるレンは、何も言わずに静かに待っている。そんな彼の態度に、ハルはほんの少しだけ勇気を出して口を開いた。


「黒川さんは……僕が、オメガだってわかったとき、どう思いましたか?」


唐突な問いだったが、レンは驚いた様子を見せずに答えた。


「正直に言えば……気を引き締めた。俺はアルファだから、無意識に君を怖がらせるかもしれないと思った。」


レンの低い声はどこか控えめで、それがハルには意外だった。


「怖がらせないように、気をつけてくれたんですか?」


「ああ。アルファとしての本能を抑えるのは簡単じゃないが、それ以上に、君を安心させたかった。」


その言葉に、ハルの胸が軽く震えた。彼の誠実さが伝わるたびに、自分の中の警戒心が薄れていくのを感じる。


「僕、アルファってもっと怖い存在だと思ってました。」


思わず本音がこぼれる。だが、レンはそれを否定しなかった。ただ静かにうなずいた。


「そう思われても仕方ない。俺たちは力がある分、それを誤解されることも多いからな。」


彼の言葉は穏やかで、ハルは不思議とその声に引き込まれるような感覚を覚えた。


「でも……黒川さんは、全然怖くないです。」


ハルがぽつりと呟くと、レンの目が少しだけ驚いたように細くなる。そして、彼はほんのわずかに笑みを浮かべた。


「そう言ってもらえるのは、嬉しいな。」


その笑顔は控えめで、それでもどこか優しさが溢れていた。



時間はあっという間に過ぎ、夕暮れが訪れた。


「そろそろ帰るか。」


レンがそう言うと、ハルは名残惜しそうに頷いた。二人で歩き出す道は、少しひんやりとした風が吹いていたが、それが心地よく感じられる。


ふと、ハルはレンの隣にいる自分が、まったく怖くないことに気づいた。それどころか、隣にいることで安心感を覚える自分がいた。


「黒川さん。」


不意に名前を呼ぶと、レンが振り返る。


「なんだ?」


「その……今日はありがとうございました。非番の日だったのに、僕に付き合ってくれて。」


ハルの言葉に、レンは首を振った。


「気にするな。君と話すのも、悪くなかった。」


それだけ言うと、レンはまた前を向いて歩き出した。その背中が大きく見えて、ハルは心の中でほんの少しだけ微笑む。



その夜、ハルは久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。


けれど、眠りについた時間は長く続かなかった。


夜中、ふと目を覚ますと、胸の奥にじわじわとした熱が広がっていることに気づいた。


「まさか……」


思わず手を額に当てる。嫌な予感がする。フェロモン抑制剤を飲み忘れていたことを思い出したのは、その直後だった。


体が熱く、重くなる。この状態では、一歩外に出ることすら危険だ。けれど、このまま誰にも知られずにやり過ごすことは――。


心臓が高鳴る音が耳に響く。


そのとき、不意にスマートフォンが震えた。


スマートフォンの画面に浮かぶ「黒川レン」の名前を見た瞬間、ハルは躊躇した。手に取るべきか、このまま放っておくべきか。


体の熱はますます高まり、頭がぼんやりとしてくる。この状態でまともに話せる自信はなかった。だが――彼の声を聞けば、少しは安心できるのではないか。そんな小さな期待が胸をよぎる。


ハルは震える指で通話ボタンを押した。


「……もしもし。」


か細い声でそう答えると、すぐにレンの低く落ち着いた声が返ってきた。


「白石。どうした?何かあったのか?」


その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。だが、すぐに自分の状況を思い出し、また息が詰まった。


「い、いえ……。なんでもないです。」


嘘をつこうとしたが、声が震えているのが自分でもわかる。レンは電話越しにその異変を察したのか、少し鋭い声になった。


「本当か?声が不安定だ。どこか具合が悪いのか?」


その問いかけに、ハルは答えられなかった。抑制剤を飲み忘れたこと、そして発情期が近づいている可能性――それを伝えるのが恥ずかしくて、言葉が出てこない。


「……白石。」


電話越しのレンの声が低く、けれど優しい響きを帯びる。


「困っているなら、ちゃんと言え。俺は君を助けるためにいる。」


その言葉に、ハルの胸が締め付けられる。どうしてこんなにも真っ直ぐに、助けを求めることを促してくれるのだろう。その誠実さが、余計に言葉を詰まらせる。


「……抑制剤を……飲み忘れてしまって……。」


小さな声でそう告げると、電話の向こうでわずかに息を飲む気配がした。


「今、どんな状態だ?」


「……熱くて……体が、思うように動かなくて……。」


そう言った瞬間、涙がじわりと目に滲んだ。こんな情けない状況を自分で口にするのが、苦しくてたまらなかった。


「落ち着け。」


レンの声は、まるで鎖のように散らばるハルの意識を繋ぎ止めた。


「すぐに行く。住所は覚えている。」


「えっ……で、でも……。」


「君を放っておくわけにはいかない。待っていろ。」


それだけ言い残して、レンは電話を切った。



部屋の中で一人、ハルはベッドに横たわりながら息を整えようとした。しかし、体の熱はどんどん高まるばかりで、呼吸が荒くなる。


体の奥から湧き上がる感覚に、ハルはぎゅっとシーツを握り締めた。誰かに見られるのが怖い。だが、一人でこれを乗り切るのも不可能だと思った。


数分も経たないうちに、玄関のチャイムが鳴った。


「白石。俺だ。」


その声に、ハルの体がびくりと震える。


「入ってもいいか?」


その問いに答える声も出せず、ハルは何とか扉の方を見た。


「返事がないなら……入るぞ。」


数秒後、鍵が回る音がして、レンが部屋に入ってきた。


目に映ったハルの姿に、レンの表情が一瞬硬くなる。


「思った以上にひどい状態だな。」


そう言いながら、レンはすぐにハルの隣に膝をつき、額に手を当てた。その掌の冷たさが、少しだけ心地よい。


「熱がかなり高い。抑制剤を……どこにある?」


「……切らしてて……。」


弱々しい声に、レンは小さく息を吐いた。


「仕方ない……ここでじっとしてろ。無理に動くな。」


そう言いながら、レンは手早く水を用意し、冷たいタオルをハルの額に置いた。


「ごめんなさい……。」


ハルが弱々しく呟くと、レンは静かに首を振った。


「謝るな。君のせいじゃない。」


その言葉に、ハルの胸がぎゅっと締め付けられる。


「本能に抗うのは簡単じゃない。だからこそ、誰かが支える必要がある。俺は、それをするためにここにいる。」


その声は優しく、けれど力強かった。


ハルはその言葉に少しだけ安心しながら、荒い呼吸を整えようと目を閉じた。


レンは熱ったハルの額に冷たいタオルを軽く押し当てながら、彼の顔を見下ろしていた。


「少しは楽になったか?」


その声に、ハルはうっすらと目を開け、小さく頷く。


「……黒川さんがいてくれて、よかったです……。」


その言葉に、レンの瞳が一瞬だけ揺れた。


「俺がいるのは当然だ。君を守るのが俺の仕事だと思っているからな。」


そう言いながらも、彼の声は少しだけ硬かった。ハルのフェロモンが部屋に漂い始め、その香りに自分の本能が反応し始めているのを感じていたからだ。


「……けど、」


ハルが弱々しく言葉を続ける。


「僕がオメガだから……黒川さんの負担になってるんじゃ……ないかって……。」


その言葉に、レンは思わず眉を寄せた。


「そんなことを気にする必要はない。」


声に少しだけ怒りが混じる。だが、それはハルを責めるものではなく、彼がそう思い込んでいることへの苛立ちだった。


「君がオメガだろうと、人間だろうと、俺には関係ない。君を助ける理由は、ただそれだけじゃない。」


「……それだけじゃない?」


ハルがかすれた声で繰り返すと、レンは一瞬だけ視線を逸らした。そして、静かに言葉を紡ぐ。


「……君自身が、大切だと思うからだ。」


その言葉に、ハルは息を飲む。胸の奥が大きく揺れ、体の熱がさらに高まった気がした。


◇◇◇


その夜、二人の間には言葉では表現できない何かが生まれた。それは単なるアルファとオメガの関係を超えた、もっと深い絆のようなものだった。


ハルは、胸の奥にずっとあった孤独や不安が少しずつ溶けていくのを感じた。そして、その隣には自分を守りたいと言い続ける存在がいる。その事実が、今までにないほどの安心感を与えてくれた。


「ありがとう……レン……。」


ハルが小さな声で呟くと、レンはその髪にそっと手を置いた。


「気にするな。俺にとって、君は守る価値がある人間だ。」


その言葉は、ハルの心の奥深くに刻まれた。



以下、サブタイトルを文章に置き換え、続きを執筆します。



翌朝、ハルは少し早く目を覚ました。体調は随分と良くなっていて、昨夜のレンの献身的な対応が思い出されるたびに、胸が温かくなる。

リビングに行くと、レンがキッチンで慣れた手つきで簡単な朝食を作っていた。


「おはよう、ハル。熱はもう大丈夫そうだな。」


振り返ったレンの声はいつも通り穏やかで、ハルは恥ずかしさを隠すように小さく頷いた。


「うん、ありがとう……。でも、なんだか申し訳なくて……非番の日だったのに。」


「気にするなって言っただろう。むしろ、お前が無事で良かった。」


そう言って笑うレンの表情は、まるで昨夜の疲れを感じさせないようだった。


「……レン、本当にありがとう。僕、あのままだったらどうなってたか……。」


「だから、何度も言わせるな。」レンは軽く肩をすくめる。「俺はお前を守るためなら何でもする。それが、俺のやり方だからな。」


その言葉にハルの胸はまた温かさで満たされた。レンの誠実さが、どれほど自分を支えているのか――それが改めて分かった気がした。



その日の午後、レンはいつものように職場へと向かった。だが、そこで彼を待ち受けていたのは、またしても人間と獣人の間で起きたトラブルの報告だった。


事件の内容はこうだ。人間が獣人に対して無理な要求を押し付け、それに獣人が反発したことから口論になり、結果として双方が暴力に発展したというものだった。


「黒川、現場に行って状況を整理してきてくれ。」


上司からの指示に、レンは頷いて現場へ向かった。だが、そこにいたのは怒りを露わにする人間と、苛立ちを隠せない獣人だった。


「獣人はいつだって自分の力を誇示して、俺たち人間を見下している!」


「そんなことを言われる筋合いはない!お前たちが俺たちを恐れて、勝手に距離を取っているだけだろう!」


どちらも譲る気配はなく、レンは溜息をついて二人の間に立った。


「いい加減にしろ。」


彼の一言で、現場の空気が一瞬にして静まった。


「獣人だろうと人間だろうと、力を誇示するために生きているわけじゃない。俺たち獣人は、その力を正しく使うためにここにいるんだ。」


レンの冷静な声に、二人は口をつぐむ。


だが、帰り際に人間の一人が呟いた言葉が、レンの心に引っかかった。


「……あんたみたいな獣人は珍しいよ。けど、それでも怖いものは怖いんだ。」



その夜、レンはハルと食事を共にしていた。仕事のことを何も話していないのに、ハルはふと尋ねてきた。


「レン、今日は疲れてるみたいだね。」


「そうか?」


「なんとなく、そんな気がするだけ。」


レンは少し迷ったが、正直に今日の出来事を話した。人間と獣人の間にある根深い偏見。それが解決しないまま、自分に向けられる恐怖の目。


「俺は仕事だから、できるだけ公平に対応しているつもりだ。けど、どうしても“獣人は怖い”って意識は消えないみたいだ。」


ハルはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「僕も……職場で、自分がオメガだって知られたらどうなるか怖い。だから、ずっと隠してるけど……それがだんだん辛くなってきてる。」


ハルの告白に、レンは静かに彼を見つめた。


「そうだったのか。」


「でも、レンと話してると、少しだけ楽になるんだ。」


そう言ったハルの表情は、どこか安心したようにも見えた。


「俺も、お前と話すときはそうだ。……お互い、大変なものを抱えてるみたいだな。」


「うん。でも、こうして話せるのは嬉しいよ。」


二人は静かに笑い合い、少しずつその距離を縮めていった。



その翌日、ハルはいつものように仕事をしていた。だが、頭の片隅にはレンとの会話が引っかかっていた。自分の正体――オメガであること――を隠している状況が、いっそう重くのしかかっている。


「白石さん、大丈夫?」


同僚が心配そうに声をかけてくる。ハルは慌てて笑顔を作った。


「すみません、少しぼーっとしてました。」


「最近忙しかったもんね。でも、無理しないでね。」


同僚の優しさが、逆に胸に刺さる。彼らは自分のことを何も知らない。もしオメガだと知られたら、態度が変わるのではないか――そんな不安が拭えない。



その夜、レンがハルのアパートを訪れた。最近、レンが仕事帰りに顔を出すことが増えていた。


「レン、今日はどうだった?」


ハルが出迎えると、レンは少し疲れた表情を見せたが、笑顔を作った。


「まあ、いろいろあったが、なんとかやり過ごしたよ。」


二人はリビングのソファに腰を下ろし、軽く晩酌を始めた。お互いに少しずつ話をする中で、レンがふと口を開いた。


「そういえば、今日も人間と獣人の間でトラブルがあった。」


「また……?」


ハルは眉を寄せる。最近、そんな話ばかり聞いている気がする。


「獣人側が力を誇示したわけじゃない。むしろ、人間側が過剰に恐れすぎているだけだった。だが、その恐怖がさらに事態を悪化させる。」


レンの言葉には疲れが滲んでいた。


「僕たち、人間側にも問題があるんだね……。」


「お互い様だと思う。」レンは肩をすくめた。「獣人側にも、人間を見下すやつがいる。どちらかが悪いわけじゃなく、相互の理解が足りないだけだ。」


ハルはその言葉に、小さく頷いた。


「でも、レンはそうやって頑張ってる。すごいよ。」


「俺がやっていることなんて大したことじゃない。むしろ、もっとできることがあるはずだと思っている。」


そう言うレンの横顔を見て、ハルは胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「……僕も、少しずつ変われたらいいな。」


小さな声で呟くハルに、レンは優しく微笑んだ。



その数日後の夜。


ハルが仕事を終え、自宅へ向かっていると、ふと気配を感じた。振り返ると、暗がりの中に人影が立っている。


「……誰?」


ハルが問うと、その人影がゆっくりと動き出した。近づいてきたのは、見知らぬ男だった。


「オメガだな……。」


低い声が響き、ハルの背筋が凍る。男は明らかにアルファ獣人で、異様な気配を漂わせている。


「……何の用ですか。」


必死に冷静を装うハルだったが、男の視線に射抜かれるような感覚を覚えた。


「ちょっとお前の匂いが気になっただけだ。」


男がさらに近づくと、ハルは後ずさった。逃げなければ――そう思った瞬間、体が硬直した。


「こんなところでオメガが一人なんて、無防備すぎるだろう。」


男が手を伸ばそうとした瞬間――


「その手をどけろ。」


鋭い声が暗闇を切り裂いた。


ハルが振り向くと、そこにはレンが立っていた。黒い耳が警戒心を表すようにピクリと動き、冷たい視線が男を睨みつけている。


「お前は……!」


男が怯んだ隙に、レンはハルの前に立ちふさがった。


「オメガを狙うなんて最低だな。俺が相手をしてやる。」


その声に、男は一瞬躊躇したが、やがて「チッ」と舌打ちをしてその場を去っていった。


レンはしばらくその背中を見送った後、ハルを振り返った。


「大丈夫か?」


その声に、ハルは涙がこぼれるのを感じた。


「……レン、ありがとう……。」


ハルの震える声に、レンは優しく微笑んだ。そしてそっとハルの肩に手を置いた。


「お前に何かあれば、俺が守る。」


その言葉に、ハルは心の奥で強い安心感を覚えた。



数日後、街中は騒然としていた。


獣人による犯罪組織が関与した違法取引のニュースが連日報道され、獣人と人間の間でくすぶっていた偏見が一気に表面化してきたからだ。


「やっぱり獣人は危険なんだよ。力が強すぎて、普通の人間じゃ太刀打ちできない。」


「いや、獣人がいなきゃ、こんな犯罪も起きなかったはずだ。」


道行く人々の声が耳に入るたび、ハルは心が痛む。仕事に向かう途中の彼は、周囲のざわめきから目を逸らすように早足で歩いた。


一方で、自分がレンの隣にいるときも同じような視線を感じることがある。


「人間と獣人が一緒にいるなんて珍しいわね。」


「いや、危ないんじゃないか?獣人は感情的になったら手がつけられないって聞くぞ。」


そんな声を耳にしたこともあった。


ハルは、レンがそれを聞いていないふりをしているのに気づいていた。だが、その背中がどこか重たそうに見えるときもある。



その夜、レンはハルのアパートを訪れていた。食事を終えた後、二人はソファに並んで座っていたが、レンがふと口を開いた。


「……ハル、お前も聞いてるだろう?最近の街の雰囲気を。」


ハルはレンの言葉に少し驚きながら頷いた。


「うん。なんだか、獣人への偏見が強くなってる気がする。」


「それだけじゃない。人間と獣人が共存すること自体に反対する声も増えている。」


レンの低い声には疲れが滲んでいた。


「仕事中にも言われるよ。“獣人は暴力的だ”“アルファなんて危険だから隔離するべきだ”ってな。」


ハルはレンの横顔を見つめた。彼の真面目さと誠実さが、そんな言葉にどれほど傷つけられているのかが伝わってくる。


「レンは……どうしてそこまで、僕たちのことを守ろうとするの?」


ハルが問いかけると、レンは少しだけ間を置いて答えた。


「俺は……人間も獣人も同じように生きられる世界がいいと思っている。俺たちの力が、恐怖じゃなくて信頼に繋がるものだと証明したいんだ。」


その言葉に、ハルは胸が熱くなるのを感じた。


「僕、レンみたいに強くなりたいな……。」


「強くなる必要なんてない。」レンは優しい声で続けた。「お前は、今のままで十分だ。俺にとって、お前は守りたい存在だから。」


その言葉にハルは思わず涙を浮かべた。ずっと孤独だと思っていた自分に、こんな風に真剣に向き合ってくれる存在がいる。それがどれだけ心強いことなのか、改めて思い知った。



翌日、ハルは職場でも獣人と人間の関係について話題になった。


「獣人と人間が付き合うなんて、無理だよ。考え方も違うし、身体的な差も大きすぎる。」


「でも、そういうカップルも最近増えてるんだよね?」


「増えてるからなんだって話さ。結局、どっちかが無理をするだけだろう。」


同僚たちの会話に、ハルは黙って聞いているしかなかった。自分がレンとどんな関係にあるかを明かせるはずもなく、心が痛むばかりだった。


その夜、ハルはその話をレンに打ち明けた。


「僕たちのことを話すつもりはないけど……ああやって勝手に決めつけられるの、やっぱり辛い。」


レンはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「お前が何も言う必要はない。だが……俺たちが一緒にいることで、少しでも偏見を変えられるなら、俺はそのために頑張りたいと思う。」


「レン……。」


レンの真剣な表情に、ハルは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。そして、自分も何かを変えたいという気持ちが芽生え始めるのを感じた。



事件の捜査は混迷を極めていた。獣人と人間の両方が関与した違法取引の背後には、何者かの意図が隠されていると考えられていたが、その証拠がなかなか掴めない。


レンはその日の夕方、警察署の会議室で報告書をまとめていた。その中に、現場で見つかった微かな匂いの記録があった。


「……この匂い……。」


レンは報告書を読むうちに、ある人物を思い浮かべた。それは、自分の直属の上司である藤原だった。



藤原は警察内でもベテランで、人間と獣人の共存を目指す姿勢が評判だった。レンも彼を尊敬し、信頼していた。だが、その匂いが藤原のものである可能性が高いと気づいた瞬間、レンの心には大きな葛藤が生まれた。


「何かの間違いかもしれない……。」


レンは自分にそう言い聞かせたが、心の中の疑念は消えなかった。



その夜、レンはハルに会うと、迷いを抱えたまま現状を打ち明けた。


「ハル……俺の上司、藤原さんが事件に関与しているかもしれない。」


突然の告白に、ハルは驚きながらも真剣な表情でレンの言葉を聞いた。


「レンが信頼している人なんだよね……でも、どうしてそんな疑いが?」


「現場で見つかった匂いが、藤原さんのものと似ている。それに、いくつかの報告書の内容に不自然な点がある。」


レンの声には明らかな動揺が滲んでいた。


「俺は彼を尊敬している。でも、もし彼が事件に関わっているなら……俺はどうするべきなんだろう。」


レンの姿に、ハルは胸が痛むのを感じた。自分だったらどうするだろうか――信頼していた人が自分を裏切ったと知ったとき、どんな行動を取れるだろう。


ハルは少しの間考えた後、静かに口を開いた。


「……レンが目指しているのは、人間と獣人が共存できる世界だよね?」


「……ああ、そうだ。」


「だったら、そのためにできることをするしかないと思う。それがどんなに辛くても、真実から目を背けないで……レンならできるよ。」


ハルの言葉に、レンはしばらく黙り込んだ。やがて小さく息を吐き、目を閉じる。


「……ありがとう、ハル。お前の言う通りだ。俺がやらなきゃいけないことを、ちゃんとやるよ。」


その言葉に、ハルはそっとレンの肩に手を置いた。


「僕も一緒にいる。レンがどんな決断をしても、支えるから。」



翌日、レンは藤原に直接話をすることを決めた。


「藤原さん、少しお時間をいただけますか。」


レンがそう声をかけると、藤原は柔らかい笑みを浮かべながら「もちろんだ」と答えた。その笑顔を見て、レンの胸にわずかな痛みが走る。


会議室に二人きりになった瞬間、レンは静かに切り出した。


「事件の現場に残された証拠について、お聞きしたいことがあります。」


藤原は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに「なんだ?」と平然と答えた。その態度に、レンはさらに確信を深める。


「現場で嗅ぎ取られた匂いが、藤原さんのものと一致する可能性が高いんです。それについて、何か説明はありますか?」


その問いに、藤原の笑顔が僅かに崩れた。


「黒川、お前は何を言っている?」


「藤原さん、俺はあなたを尊敬しています。ですが、真実を知るためにこの質問を避けることはできません。」


レンの真っ直ぐな視線に、藤原は重い息を吐き出した。


「……やはりお前には隠し通せなかったか。」



藤原は違法取引の背後で糸を引いていたことを認めた。彼は獣人と人間の共存を目指していたが、それを実現するためには「一部の力を持つ者が調整する必要がある」と信じていた。


「私は、この世界を変えるために動いてきた。だが、理想を実現するためには犠牲が必要だったんだ。」


その言葉に、レンは拳を握り締めた。


「そんなやり方で共存を語ることができるはずがない……!」


「ならば、お前が何を成し遂げられるというんだ?」


藤原の問いに、レンは力強く答えた。


「俺は、真実を明らかにし、人間も獣人も対等に生きられる世界を作る。それが警察官としての使命だ!」



以下、プロットに基づき続きを執筆します。まず「社会の混乱と新たな課題」からスタートします。



藤原の逮捕から数日後、街は騒然としていた。


ニュースでは、警察内部で獣人が犯罪に関与していた事実が連日報じられ、「獣人は信用できない」という意見が目立つようになった。一方で、「人間が獣人を過度に恐れている」という反論も飛び交い、対立は深まる一方だった。


「獣人は力が強いから危険なんだよ!」

「違う、獣人は人間と同じように生活しているだけだろう!」


道端で口論する人々の声が耳に入るたび、レンの胸は重くなる。自分たちが目指す「共存」とは程遠い現実に、苛立ちと無力感が募っていた。



ハルもまた、その空気を肌で感じていた。職場でも、事件に関する話題が絶えない。


「獣人と人間とか私には考えられないわ。」


その言葉に、ハルの胸はざわついた。自分がオメガであり、レンのようなアルファ獣人と親しい関係にあることを隠している現状が、ますます辛く感じられた。


「……白石さん、大丈夫?」


同僚の声に、ハルは慌てて笑顔を作った。


「え、ええ、大丈夫です。」


同僚は気づかない様子だったが、ハルは胸の奥にチクリとした痛みを覚えた。



その夜、レンとハルは久しぶりにゆっくり話をしていた。レンは仕事から帰ったばかりで、いつも以上に疲れた顔をしていた。


「レン……最近、辛そうだね。」


ハルが切り出すと、レンは少し驚いたような表情を浮かべたが、やがて力なく笑った。


「そうか……確かに、少しきついかもしれないな。」


レンは藤原の逮捕後、自分の行動が獣人全体への偏見を強めたのではないかと悩んでいた。事件を解決するための正しい行動だったとはいえ、その結果が社会に与えた影響を無視することはできなかった。


「俺がしたことが、結局、世間の獣人への恐怖を煽ってしまったのかもしれない。」


レンの言葉に、ハルは黙り込んだ。レンが自分の行動に責任を感じていることが痛いほど伝わる。それでも、ハルは思い切って口を開いた。


「でも、レンが藤原さんを止めなかったら、もっとひどいことになっていたかもしれないよ。」


「……そうかもしれない。でも、俺一人じゃ偏見を覆すことなんてできない。」


レンの弱音に、ハルはそっと彼の手に触れた。


「一人じゃ無理でも、僕がいるよ。レンがどんなに悩んでいても、僕はそばにいる。」


その言葉に、レンは一瞬驚いたような顔をしたが、やがて静かに微笑んだ。


「……ありがとう、ハル。本当にお前がいてくれてよかった。」



翌日、ハルは仕事の帰り道に、あるポスターを見つけた。それは「獣人と人間の共存を考える集会」の告知だった。


「……レンと一緒に行ったら、何か変わるのかな。」


ハルは自分でも驚くほど真剣にその文字を見つめ、レンに話してみることを決めた。



その夜、ハルはレンに提案した。


「レン、この集会、一緒に行ってみない?」


最初は消極的だったレンだったが、ハルの目が真剣であることに気づき、やがて頷いた。


「分かった。お前がそう言うなら、一緒に行こう。」


二人は共存の未来を目指して、一歩を踏み出す決意をした。



その日、ハルとレンは、街の中心部にあるホールで開かれる「獣人と人間の共存を考える集会」に足を運んだ。


会場にはすでに多くの人が集まっており、ざわざわとした熱気に包まれていた。獣人も人間も混じり合いながら、互いの視線を探るような、少し緊張感のある雰囲気だった。


ハルはレンの隣に立ちながら、少し落ち着かない様子で辺りを見回した。


「……こんなに人が集まるんだね。」


「そうだな。でも、全員が共存に賛成しているとは限らない。」


レンは会場の隅に立つ数人の男性を見つめた。彼らの表情には明らかな不満が滲んでいる。


「反対派の人間もいるみたいだ。何か問題が起きなければいいが……。」


その言葉に、ハルは少し不安を覚えたが、レンがそっと肩に手を置くと、安心感が広がった。


「大丈夫だ。お前が提案してくれた集会だ。意味のある場にしよう。」



集会が始まり、壇上ではさまざまな人々がスピーチを行った。獣人と人間のカップルが体験談を語り、互いの種族を超えて助け合った経験が紹介されるたび、拍手が起こる。


その一方で、偏見や恐怖に直面した苦いエピソードも語られ、会場は時折重い沈黙に包まれた。


「私たちはお互いを知らなすぎるんです。だからこそ、このような場を通じて、もっと理解を深める必要があると思います。」


壇上の女性の言葉に、ハルは深く頷いた。


「レン、僕たちも、何か話せないかな……?」


ハルが不安そうに呟くと、レンは驚いたように目を見開いた。


「お前が話したいと思うなら、俺は止めない。でも、無理する必要はないぞ。」


「……話したい。僕がオメガだってこと、レンがどれだけ僕を支えてくれているか……それを、みんなに知ってほしいんだ。」


その言葉には、ハル自身の決意が込められていた。レンはしばらく彼の顔を見つめた後、小さく頷いた。


「分かった。俺もお前の隣にいる。」



壇上に立つハルの姿に、会場がざわついた。彼は緊張で震えながらも、レンが隣に立っていることを確認し、深呼吸をした。


「こんにちは。僕は白石ハルといいます。オメガの人間です。」


その言葉に、会場の空気が一瞬にして変わった。ざわめきが広がる中、ハルは言葉を続けた。


「僕はずっと、自分がオメガであることを隠して生きてきました。それは、この社会でオメガがどんな風に見られるか、怖かったからです。」


声が震えそうになるのを必死で堪えながら、ハルは続ける。


「でも、僕には支えてくれる人がいます。それが、ここにいる黒川レンです。彼は獣人で、アルファで、警察官です。」


その言葉にさらにざわつく会場。レンは静かに前を向き、口を開いた。


「俺は、獣人であること、アルファであることを理由に、恐れられることが多い。だが、それが本当の俺の姿じゃないことを知ってほしい。」


レンの低い声は会場を静めるように響いた。


「ハルは俺を恐れず、俺の隣に立ってくれる。俺もまた、彼を守り支える存在でありたい。獣人と人間の関係は簡単じゃないが、俺たちのような関係が少しでも希望を示せるなら、俺はそれを証明し続けたい。」


レンとハルの言葉に、会場は静寂に包まれた後、少しずつ拍手が広がっていった。それは最初は小さかったが、次第に大きくなり、二人のスピーチは大きな反響を呼ぶこととなった。



その夜、二人は帰り道を並んで歩いていた。


「……緊張したけど、話せてよかった。」


ハルがぽつりと言うと、レンは微かに笑った。


「ああ。お前が話した言葉は、きっと誰かの心に響いている。」


「レンが隣にいてくれたから、話せたんだよ。」


そう言って笑うハルの顔に、レンは心の奥から安堵を覚えた。


二人の関係は、小さな一歩かもしれない。それでも、互いを支え合うその姿は、確かに希望を生み出していた。



集会から数週間が経った。


レンとハルのスピーチは予想以上の反響を呼び、多くの人々に希望を与えた。ニュース番組やSNSでも「獣人と人間の共存」についての議論が活発化し、レンとハルの名前が取り上げられることもあった。


「白石さん、本当にあのスピーチしたんですか?」


職場の同僚にそう聞かれたとき、ハルは少しだけ戸惑ったが、微笑みながら頷いた。


「はい、僕がしました。驚かせてごめんなさい。でも……自分のことを隠し続けるのが、もう嫌だったんです。」


その言葉に同僚は一瞬驚いたようだったが、やがて優しい表情を浮かべた。


「……なんだか、白石さんらしいですね。私たちも、もっとちゃんと理解しないといけないのかもしれません。」


その言葉に、ハルの胸がじんわりと温かくなる。少しずつだが、確実に何かが変わり始めている。それを実感できた瞬間だった。



一方、レンは職場での信頼を取り戻すために全力を尽くしていた。藤原の逮捕以降、警察内で獣人への偏見が強まる一方で、レンの誠実な姿勢が徐々に周囲の見方を変え始めていた。


「黒川、今度の案件、君の力が必要だ。」


上司にそう言われたとき、レンはわずかに驚きながらも、静かに頷いた。


「了解しました。全力を尽くします。」


事件は解決したが、社会にはまだ偏見や誤解が残っている。それでも、レンは自分の力を使い、人々の間に信頼を築いていく決意を固めていた。



その夜、二人は寄り添うようにソファに座り、静かな時間を過ごしていた。夕食を終えた後も特に言葉を交わすことなく、ただ互いの存在を感じていた。


ふと、ハルが小さな声で呟いた。


「レン、いつもありがとう。こうして一緒にいられるのが、本当に幸せだよ。」


その言葉に、レンはそっとハルを見つめた。


「お前がいるから、俺も頑張れる。お前がそばにいるだけで、それだけで十分だ。」


レンの低く優しい声が、ハルの胸に深く響く。その瞳にはいつもと変わらない誠実さと、今夜だけは少し特別な色が宿っていた。


ハルは静かにレンに寄りかかり、その温もりを感じながら小さく囁いた。


「レン……愛してる。」


その言葉に、レンの手がそっとハルの髪を撫でる。


「俺もだ、ハル。これからも、ずっとお前を守る。」


二人は自然と唇を重ね、互いの存在を確かめるように抱き合った。


その夜、二人は久しぶりに体を重ね合った。互いの不安や痛みを癒し合うように、そしてこれからも共に歩む決意を新たにするように。


温もりの中で囁き合った愛の言葉は、静かな夜の中で確かな絆として残った。



翌朝、ハルは目を覚ますと、隣に眠るレンの穏やかな顔を見つめた。その力強い腕が自分を包むように置かれているのを感じると、胸が温かくなる。


「これからも、一緒に歩んでいこう。」


小さく呟き、そっとその腕の中にさらに身を寄せた。


外の世界はまだ変わらないかもしれない。それでも、二人が一緒にいればどんな壁も越えていける――そう信じながら、新しい一日が始まった。

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