09 疑念
夜、一人で自宅に戻ったブーヴは、魔王城で魔法による治療を受けたものの多少痛みの残る右手を庇いながら暖炉の火を熾し、ランタンに火を点すと、食事の準備を始めた。
敦は警護の関係でしばらく魔王城のゲストルームに寝泊まりすることになっていた。
野菜を切っていると、うっかり二人と一羽分用意してしまい、ブーヴは苦笑した。
敦やチュン子のいないテーブルで一人食事をしていると、ブーヴはとても寂しい気持ちになった。
娘達が独り立ちし、妻を亡くしてからの一人暮らし。慣れてきたと思っていたが、敦やチュン子との生活を経験して、昔の賑やかな生活を思い出してしまったようだ。
夕食を終え、暖炉の火を見ながらハーブリキュールを一口飲むと、ブーヴは一昨日の夜のことを思い出した。
あの時、自分は確かに剣で腹部を突き刺された。
腹部から流れる大量の血を敦に見せないよう隠しながら膝をつき、うずくまった。
そして、敦が逃げるための時間を少しでも稼ごうと、気力を振り絞り、必死に立ち上がろうとした。今までの戦場での経験上、あれは明らかに致命傷だった。
しかし、今のブーヴの腹部に刺し傷はなく、ちょっとした打撲の跡が残っているだけだった。
「治癒魔法か……」
ブーヴは一人呟いた。
あの時、意識が遠のく中で感じたのは、温かい光の中、腹部の刺し傷がみるみる塞がり、治っていく感覚。戦場で幾度となく世話になった治癒魔法による治療の感覚だった。
しかし、治癒魔法は魔法使いの魔力に左右されるとはいえ、致命傷がほぼ完治するなんて聞いたことがなかった。今回の右腕の骨折ですら、複数回の治癒魔法による治療を要し、しかもまだ痛みが残っているくらいだ。
あの場には、賊の他には敦しかいなかった。ブーヴに治癒魔法を使うとしたら、敦しかいない。
しかし、異世界から来た敦に魔法は使えないはずだ。先日、所長も同じことを言っていた。
そうすると、一体誰が自分を治療したのか。そして、老鬼神が見たという「目映い光」とは……
今日の所長と憲兵分隊長の話では、賊が気絶していた理由も含め、これらに関する話が一切なかった。
いきなり賊の背後にいるエルフの話を持ち出すことで、まるでこれらの話を避けているかのようだった。
ブーヴは、テーブルの上に置いている「折り鶴」を見つめた。
これは、市場で食材を買ってきたときの包み紙を使って敦が折ってくれたもので、敦の元いた世界の美しい鳥を象ったものだそうだ。
そういえば、ナクァツァーシという魔獣は美しい鳥のような姿をしていると聞いたことがあったな。ブーヴは朧気な記憶を辿りながらハーブリキュールを飲み干した。
どうも、所長や憲兵分隊長は何かを隠しているような気がする。特に根拠はないが、ブーヴの長年の勘がそう告げていた。
「情報収集してみるか……」
ブーヴはそう呟くと、風呂の用意に向かった。
† † †
翌朝、ブーヴは早めに魔王城に登庁すると、敦が泊まっているゲストルームへ向かった。
ゲストルームの前には、兵士が2名立っていた。部屋の前だけでなく、そこへ至る廊下の要所にも複数の兵士が配置されていた。いずれもブーヴが所属する高齢者ばかりの警備隊ではなく、魔王直属の近衛兵だ。
エルフに狙われているとはいえ、政治や軍事と無関係な一少年に対する警護としては過剰ともいえる配置に、ブーヴは訝しんだ。
「ああ、ブーヴさん、おはようございます!」
部屋に入ると、敦が昨日と変わりない笑顔でブーヴに挨拶した。敦の肩にはいつものようにチュン子が留まっていた。
少し雑談した後、ブーヴが敦と一緒に警備隊の詰め所へ向かおうとしたところ、部屋の出入口の兵士に制止された。
「魔王様の命により、安全確保体制が整うまで、ナカアツ様にはこの部屋に待機していただきます」
兵士は、丁寧だが有無を言わさぬ表情でブーヴに言った。
「仕方ないな……仕事の合間にちょくちょく顔を出すよ」
ブーヴは、寂しそうな顔の敦に笑顔でそう言うと、ゲストルームを後にした。
王命による軟禁か。ますます怪しくなってきたな……ブーヴは内心で疑念を深めながら、警備隊の詰め所へ向かった。
続きは明日投稿予定です。