私の愛しい人 貴公子の恋
GLですが、まだまだ友達止まりです。
グリーンガルズ公爵令嬢、リヨネッタの幼少期は不遇の一言に尽きる。下劣な父とその愛人たち、そして意地の悪い使用人どもが彼女の人生を不幸なものにしていた。
だが、それはコーネルディアという少女との出会いによって一変し、リヨネッタはようやく貴族の令嬢としての生活を取り戻すことができたのだ。
「上手じゃないリヨネッタ!」
目を輝かせながら、コーネルディアはリヨネッタのピアノの腕を褒める。
「久しぶりだから緊張したけれど、指が覚えていてくれたみたい」
母がまだ元気だったころ、教えてくれたことがリヨネッタの中に根付いていた。読み書き、算術、いくつかの外国語……母の教えと、公爵家の書庫がリヨネッタを教育してくれたのだ。
「この調子なら半年後に社交界に出られるでしょう」
眼鏡を少し上げ、厳しいと評判のグラドエ女史が言う。
リヨネッタは公爵令嬢でありながら、一度も社交界に出たことがなかった。グリーンガルズ公爵に子供がいるらしいことは知られているが、黒い噂にまみれたグリーンガルズ公爵と表立って関わろうとする貴族は居なかった。
コーネルディアがリヨネッタに出会ったのもほんの偶然だ。持ち前の正義感、そして度胸と行動力でグリーンガルズ公爵家に喧嘩を売り、リヨネッタを救ってくれた。おかげで母の実家と縁を繋ぐことができ、父ルイースは隠居という形で僻地に、愛人どもや使用人たちはそれ相応の報いを受けさせて追い払った。
それがなければ、リヨネッタは今もなお苦しめられていただろう。
リヨネッタは感謝を込めながら、もう一度、コーネルディアが好きだというソナタを奏でた。
■
豪奢な金髪と空色の瞳、ゼスティバウス公爵令嬢コーネルディアは人目を惹く容姿を持っているが、その美しさよりも吊り上がった目と生意気そうな小高い鼻、赤い唇が魔女を彷彿させ、人々は勝手に恐れ震え上がるのだ。
街で一、二を争う大きな書店の中、コーネルディアの前で店長が頭を床にこすりつけて命乞いをする。
「も、申し訳ありません!! 申し訳ありません!! なにとぞ命だけはお助けを!!!」
周囲もふるふると震え、可哀そうな店長を憐れみの視線で見るだけだ。
「マーフの経済白書の場所を聞いただけでしょ。ないならないでいいのよ」
コーネルディアは家門のために経済の本が見たいというリヨネッタのために品ぞろえが豊富だというこの書店に来ただけだ。場所がわからないので店員に尋ねただけでこのありさまだ。
(本屋なら大丈夫だと思っていたのに、ここでもこういう扱いなのね……)
圧倒的な軍事力を持つゼスティバウス公爵家。そしてその当主は『北の悪夢』と評される大将軍だ。その蛮勇を人々は称えて尊敬するが、それはあくまでヒーローとしてだ。気高い狼に憧れる人はいるが、隣に座りたいという奴はそうそういない。
大将軍の凶悪面によく似たコーネルディアはまさに恐怖の対象だった。
流行りのカフェ、仕立て屋、宝石店……どこでもそうだったが、さすがに書店は違うだろうとタカを括っていた。
「本当に申し訳ございません!!魔王の刑罰書という御本は取り扱っておりません!!」
店員は冷や汗をかきながらペコペコと謝る。
「ま、魔王? ち、違うわよっ!!」
とんだ聞き違いにコーネルディアは訂正する。しかし店員は聞いていない。がばっと跳ね起きると、渾身の推薦図書を力説する。顧客に添う本を提供することこそが彼のポリシーだった。
「か、代わりに『拷問大全集』と『毒草、毒虫を使った刑罰』、『刑罰の王国史』がございますっ!! 綿密に描かれた繊細な図っ! 著者の解説つきの逸品でございます!」
「そんなもの要らないわよっ!!!」
とんでもない勘違いに思わずコーネルディアはそう言い捨て、書店を後にした。
なお、このあと「例の悪女は拷問の本を探している」「なんなら魔王を呼び出そうとしている」と噂になり、コーネルディアはさらに恐れられることになった。
「慣れっこだけれど、こう誤解され続けると動きにくいわね」
馬車の中でフーっとため息を吐くコーネルディアにリヨネッタは眉を曇らせる。一緒に行く予定だったが、大勢の人がいる場所はまだ緊張するため、コーネルディアだけが書店に行ったのだった。
「コーネルディアは優しくて素敵な人なのに、変に誤解されるのは悲しいわ。ゼスティバウス公爵様にお願いしてなんとかして頂けないかしら」
リヨネッタにとってコーネルディアは恩人だ。彼女の優しさをリヨネッタは身に沁みして知っている。
「それはダメよ。『北の悪夢』のお父様がしゃしゃり出てきたら余計に怖がるもの」
コーネルディアは言い切った。すでに経験済みだ。
「そう……なのね」
リヨネッタは俯く。
「心配しないで。これでも悪女って案外楽なのよ。何をやってもこれ以上悪くなりようがないから世間の目を気にすることはないしね」
コーネルディアは笑う。
リヨネッタは唇をぎゅっと噛んだ。リヨネッタが救われたのはコーネルディアの行動のおかげだ。グリーンガルズ公爵家に押し入って居座り、無礼だという理由で父の愛人をぶちのめし、意地悪な使用人を折檻した。酷い行動ではあるものの巷にはびこる噂の方が酷いため、コーネルディアの評判が下がることはなかった。
良かったと思うとともに、コーネルディアが普通に出歩けないことが悲しい。何かできないかとリヨネッタは考えた。
「……コーネルディア。お忍びで出かけないかしら。髪を染めて服を着替えるの。そうすれば、大丈夫だと思うわ」
「ステキね! せっかくだから赤毛にするわ。一度、染めて見たかったの」
コーネルディアは乗り気になった。
■
赤毛になったコーネルディアは巻き毛を一つにまとめ、強面を隠すために丸メガネをつけて町娘に扮装した。リヨネッタは染めてもすぐに色が落ちてしまったため、髪の色は変えずに頭巾をつけることにした。
馬車を路地に待たせ、二人は町娘になった気分で散策した。赤毛で眼鏡姿のコーネルディアは誰からも恐れられることなく、買い物を満喫できた。
浮かれた様子のコーネルディアを見てリヨネッタも嬉しくなる。しかし、ある女の怒鳴り声がその幸せな気持ちを粉々にした。
「平民風情が私の邪魔をするなんてどういう了見!!?」
「ごめんなさいごめんなさい」
角を曲がった場所で人だかりができていた。
馬車の窓から目を吊り上げた黒髪の女がヒステリックに叫ぶ。彼女が睨みつけるのはまだ年端も行かない子供だった。やせこけた子供は石畳に額をこすりつけ、泣きながら許しを乞うている。
コーネルディアは思わず飛び出した。
「ちょっと! 子供相手にこんな真似はやめなさいよ」
コーネルディアは身をかがめて子供を抱き起そうとした。しかし、貴族に歯向かう恐ろしさを良く知っている彼は動かなかった。
「その子供がわたくしの馬車を止めたのよ!! 三大公爵家の一つ、ゴルディアム家に招かれたわたくしをね!!」
女は高らかに言い放つ。自慢げに女の赤い唇が弧を描いた。
途端に周囲がざわめく。
「ゴルディアムに招かれるってことは、かなりの上位貴族じゃ……」
「可哀そうだが、あの子供と娘っ子、良くて鞭打ちだな」
人々の囁き声は女を高揚させた。
「お前、適当にあの平民を鞭で適当に打ちなさい。それで勘弁してあげるわ」
女は部下の一人に命じる。だが、コーネルディアも黙っていられない。すくっと立ち上がって女を睨みつけた。
「鞭打ちですって? できるものならやってみなさいよ。私はゼスティバウスよ!!」
コーネルディアの声は良く響いた。だが、その声はただの虚勢にしか見えなかった。
「っ……オーホホホ。まさかゼスティバウスとは恐れ入ったわ。北の悪夢の名前を出されたら引っ込むしかないわねぇ」
女は嫌な笑みを浮かべながら高らかに笑う。
「あの娘、正気か!? よりによってゼスティバウスを騙るなんて!!」
「黙っておけば鞭打ちで済んだのに、ゼスティバウスの悪女に知られたら一族郎党皆殺しだぞ……」
人々は真っ青な顔でざわめく。女は楽しそうに笑い続けた。
「ふふふ。処罰はゼスティバウス家にお任せした方がいいわね。あなた、本当にバカねえ。わたくしの部下に素直に鞭を打たれておけば良かったと後悔するわよ」
高笑いを響かせ、女は馬車を再び走らせた。
人だかりはすぐに消えた。ぐずぐずしていると自分たちまでゼスティバウス家の悪女に目を付けられてしまうと怯えたからだ。
それは助けたはずの子供も同様だった。
「……ゼスティバウス家に睨まれちゃったじゃないか! どうすんだよ!!」
だが、それを止めたのは彼の影に隠れた小さい女の子だった。
「レオンにいちゃん。そんなこと言っちゃだめだよ。このひとがいなけりゃ、兄ちゃんがムチ打たれてたよ。わるいのは、リルだよ。あたしが、ばしゃにひかれそうになったから」
リルと名乗った女の子はわんわんと涙を流した。レオンと呼ばれた男の子は泣いている女の子をぎゅっと抱きしめた。
「……ごめんなさい」
レオンは一言、そうコーネルディアに謝った。
コーネルディアは自分の悪名がこんな小さい子にまで恐れられていることに愕然とし、また三大公爵家の重みを初めて感じるのだった。
■
セレニア大陸、ガルグレス王国は王家の他に三つの公爵家が支配者として存在する。軍事のゼスティバウス家、経済のグリーンガルズ家、そして最後に政治のゴルディアム家だ。彼らが持つ大小の船団、他国との太いパイプ、地方との強い結びつきが国を支えていた。
政治のゴルディアム、当主ザカリーは宰相の座に就き、その息子マリウスはその補佐として内務府の三席の地位にいる。副宰相までもう一歩といえば、彼の実力のほどがわかるだろう。若いながら、その力量は歴代のゴルディアムの中でも際立っていた。
「マリウス。さきほどのオランド伯爵令嬢との見合いはどうだった。侍女にも優しい女性でお前の理想にも合うだろう」
「はぁ……。優しいそぶりは私や父上の前だけですよ。門番の報告によれば、色よい返事がもらえなかったことに腹を立てて自分の侍女を扇で打っていたそうです」
すらりとした長身にザカリーに似た明るい髪、母親に似た細い眉と落ち着いた目元、派手さはないが、整った顔立ちをしていた。才気あふれる彼は次代のゴルディアムを率いるにふさわしい人物でザカリーの自慢だ。
様々な家門から縁談が舞い込んでいるが、マリウスはそれを丁重に断っている。先ほどのオランド伯爵令嬢もそうだ。楚々とした黒髪の美女で今度こそマリウスの気に入ると考えていただけに、ザカリーは残念がった。
「裏表の激しい人間だったとは……。女はわかりにくいな」
「美しいとそれに惹きつけられて本質を見失いがちですからね。むしろ、あの女性を勧めてきた父上に失望しました。人を見る目はあったはずですが」
マリウスの視線がザカリーを刺す。
「わ、わたしが疑い始めたらきりがないからな。片目をつむるくらいでちょうどいい。特に女に関してはな」
ごほんとザカリーは咳払いをした。実際、ザカリーの人を見る目は確かだ。彼が引き抜いた人材はいかんなくその実力を発揮しているし、疑惑を抱いた人間はやはり何かしらの隠し事をしていた。ただし、男に限るが。
「官吏に女性が登用されていなくてほっとしました」
女人禁制というわけではないが、男ばかりの職場は縁談に不利に働くこともあって志望者はほとんどいなかった。
「わたしの女の見る目のなさはさておき、はやく伴侶を見つけてくれ。そうでなければ王子たちに縁談を勧められん」
ザカリーはため息を吐く。王に王子たちの縁談を勧めても、マリウスが一人身なのを口実にかわされてしまっている。
「ああ、もちろん分かっているだろうが、絶対に貴族でなければいかん。平民はもってのほかだ。それはわかっているな?」
「ええ、もちろん」
マリウスは目を伏せた。
恋をしたいとは思っていない。だが、せめて尊敬できる人と添い遂げたいというのは贅沢だろうか。
(だが、貴族令嬢は誰も同じだ。媚びを売るか着飾るか、虚栄心ばっかりの化け物どもだ)
■
王都にあるレナーク孤児院。
近くに流れる川でリヨネッタと赤毛になったコーネルディアが二人で洗濯していた。レオンとリルを送り届けた先が人手不足の貧しい孤児院で、なんとなく手伝う流れになったのだ。
しかし、コーネルディアは洗濯板の扱いに悪戦苦闘し、隣でテキパキとこなすリヨネッタを憧れの目で見る。
「すごいわねえ。リヨネッタ。まるで流れるような手つきよ」
「家でもやっていたから慣れているの。コーネルディア、無理ならそっちもやるわよ」
「……もう少し頑張ってみるわ」
コーネルディアは玉の汗をかきながらも力を込めて衣類を掴む。懸命に頑張るコーネルディアをリヨネッタは彼女らしいと微笑んだ。
「夕食だよー!」
声を張り上げるのは院長のミュラーだ。恰幅の良い熟年の女性で子供たちは彼女をマンマと慕う。
「も、もう食事なの!? まだ終わって……あら?」
コーネルディアが気付いたときには、洗濯ものの山はすでになくなり、残るはコーネルディアが持つ一枚となっていた。
「コーネルディア、先に行って子供たちの配膳をお願い。後は私がやるわ」
コーネルディアは恥ずかしさから顔を紅潮させ、リヨネッタにお礼と謝罪をして言われた通り食堂へと向かった。
食堂は子供たちの声でごった返し、コーネルディアは子供たちにせっつかれながら配膳をしていた。
「髪を引っ張らないで! エプロンもダメ!! 手元が狂うわ!!」
コーネルディアの必死の訴えもむなしく、子供たちは自由気ままだった。
「手元が狂っても大丈夫さ。子供たちはうまく受け取るよ。なにせ、こんな上等な飯は食べたことがないんだからね」
ミュラーは大きな体を震わせて笑う。
「それにしても、噂は当てになんないもんだね。ゼスティバウス家のご令嬢ってのが、いきなり寄付してくるなんてさ。てっきり処罰を受けると思っていたのに、小麦粉や果物、野菜をどっさりくれるんだからたまげたよ」
ゼスティバウス家の報復に怯えるレオンとリルを安心させるため、コーネルディアは侍女に命じて荷馬車一杯の寄付を持ってこさせたのだ。
「ふふ、ゼスティバウス家のご令嬢は優しくて素晴らしい人ですわ」
リヨネッタは微笑む。コーネルディアは顔を真っ赤にした。
「あたしも認識を改めたよ。きっと、レオンやリルの姿に心を痛めたんだろうねえ」
ミュラーの顔が曇る。痩せた足に腕、ロクに食事をさせてやれないことに罪悪感が募った。
「大丈夫よ。明日も明後日も、食材にことかかないわ」
「そいつは嬉しいねえ。お前たち聞いたかい。大事に食べな!」
ミュラーの言葉に子供たちは大喜びになる。
食事の後は洗い物、その次は小さい子たちの寝かしつけ、掃除、一息を付けるのは夜遅くだった。
「大変だっただろ。でも、本当にありがとうねえ。いいとこのお嬢さんたちっぽいのによくやってくれたよ。特に銀髪のアンタ。どっかで下働きでもやっていたのかい? 手際が良すぎてびっくりしたよ」
ミュラーは欠けたカップに白湯を注いでリヨネッタとコーネルディアに振る舞った。それがミュラーにできる最大限のもてなしだった。穴の開いた壁、壊れた屋根、ガタついた机に背もたれが壊れた椅子……ここにまともなものは存在しなかった。
「下働き……そうですわね。似たようなことをやっていましたわ。それにしても、孤児院は国から定額の給付金があると聞いていますが、修繕が追い付いていませんの?」
リヨネッタは首を傾げてミュラーに尋ねた。
「私も気になっていたわ。レオンもやせこけて、満足にご飯を食べられていなかったし」
コーネルディアが街で助けた男の子の姿を思い出して言う。
「良く知ってるねえ。でも、どこの孤児院もウチみたいにカツカツだよ。経済を担うグリーンガルズ公爵家がマトモに機能してないのが理由ってお上が言ってたよ」
ミュラーの発言にリヨネッタがせき込む。コーネルディアは目を真ん丸にした。
「なんだい。知らないのかい? グリーンガルズ公爵家ってのは、ガルグレス王国の屋台骨の一つさ。経済……つまりはお金の流れを管理しているところでね。当主がとっても悪い奴で、そいつのせいで我が国の懐事情がよくないのさ」
ミュラーはそう笑った。ボロボロな家屋でも、子供たちが笑えているのはミュラーの明るさのおかげなんだろう。
「それは……存じませんでしたわ。ですが、ご安心ください。これから先、不自由はけしてさせませんから」
リヨネッタはそうはっきりと告げた。
「そうなのかい? それは嬉しいねえ……」
ミュラーはそう言って目を細めた。子供たちがひもじいと泣かなくても済むのなら、たとえ一時であろうとも嬉しい。だが、長い経験から期待はもはやしていなかった。
「さあ、そろそろ寝ようじゃないか。客間なんてないからあんたたちはあたしの部屋を使いな。ベッドが一台しかないのは許しておくれよ」
ミュラーはパンと手を叩いて話を逸らした。
「一台……」
驚いて目を瞬かせるリヨネッタに反してコーネルディアは乗り気だ。
「あら素敵じゃない! 子供のころから誰かと一緒に寝るのに憧れていたのよね」
父母や兄たちはコーネルディアを愛してくれているが、広いベッドで眠るのは寂しかった。平民は親も子も同じベッドで寝るという話を聞いてとても羨ましく思ったものだ。
浮かれた様子のコーネルディアと緊張気味のリヨネッタ。ミュラーは楽しそうに笑って二人を自室に案内した。
狭くて固い寝台に薄っぺらい布団、だが、人と一緒に入るとそれだけて温かい。コーネルディアの寝息が聞こえ始め、リヨネッタも瞼を閉じた。
■
翌朝、二人は名残を惜しまれつつ孤児院を離れた。しばらく歩いたところで迎えに来た馬車に乗り込み、二人は互いに顔を見合わせた。
「孤児院の支援は国の仕事よね? なぜそこにグリーンガルズの名が上がるのかしら」
コーネルディアが怒気を滲ませ、険しい顔で言う。
対してリヨネッタは涼しい顔だ。
「わかりやすい悪玉だから隠れ蓑にされたか、もしくは本当に父が関わっていたかだと思いますわ」
コーネルディアは絶句する。そして口惜しさを滲ませた。
「グリーンガルズの公爵は引退しているのに!! 」
公爵は下劣な人間だったが、リヨネッタは全くの逆で、コーネルディアは彼女ほど優しくて心が綺麗な人を知らない。
彼女は自分を不当に扱った公爵の愛人たちや使用人を許し、奉公先まで世話をしていた。家臣たちと力を合わせ、傾いたグリーンガルズ公爵家を建て直しているのをコーネルディアは知っている。
唇を尖らせるコーネルディアをリヨネッタは優しく慰めた。
「すぐに悪名は消えませんわ。それに家臣たちも家門を盛り立ててくれていますし、叔父の支援もありますもの。なにより、あなたが私を応援してくれているから私は大丈夫よ」
リヨネッタはそう微笑んだ。まっすぐな彼女の言葉にコーネルディアは少し照れてしまう。
「あ、あたりまえでしょ。と、友達なんだから」
コーネルディアは急に恥ずかしくなり、どもりながら答えた。だが、リヨネッタに頼りにされていることが嬉しく、がぜんとやる気が湧いてきた。
「内務府に直接問いただしてくるわ。揺さぶりをかければ動きがあるはずよ」
「ダメよ。コーネルディア。貴族の令嬢がそんな真似をしたら噂になるわ。これはグリーンガルズの問題だもの。私が片をつけるわ」
リヨネッタは焦った。自分のせいでコーネルディアが汚名を被るようなことはあってはならない。
「あら、大丈夫よ。悪女のコーネルディアが何をしても、これ以上悪く言われようがないもの」
コーネルディアはむしろ楽しそうに笑った。
■
吊り上がった目、不満そうに尖らせた唇、美しいが意地が悪そうな顔立ちに内務府は縮み上がった。
(ヒェッ……。あの悪女で有名なコーネルディア嬢だ)
(店員の接客が気に入らないからと言って大暴れしたとか聞くぞ)
コーネルディアはその外見から誤解を招きやすかった。例えば、微笑んだつもりでも何かを企んでるように見えるし、優しい言葉をかけても変に裏読みされる。
以前はそれがコンプレックスだったが、今はそれが武器となる。
「福祉の担当者って誰?」
「ふ、福祉でございますか?」
まるで悪魔が愛を語るような違和感に人身御供で前面に対応を任された気弱な役人は聞き返す。
「そう。王都中の福祉関連の施設で給付金が滞っているの。誰かが横領しているみたいだから、責任者をだしてちょうだい」
ソファにふんぞり返り、コーネルディアは威圧する。
慌ただしくなる内務府で呼び出されてきたのはラグバス伯爵だ。
「ゼスティバウス公爵令嬢、一体どこの誰から与太話を聞かされたかは存じませんが、万事滞りなく進んでおります」
ぺこぺこ頭を下げながら彼は言った。
「聞かされたんじゃないわ。私がこの目で見たのよ! レナーク孤児院でね!!どこの孤児院、救貧院も食物庫は空だというじゃない!! 施設の畑で取れた野菜でなんとか食いつないでいる状態よ! あなた、責任者の癖にそれすらも知らないの?」
コーネルディアが睨みつけるとラグバス侯爵はぶるぶるっと体を震わせた。
「た、大変申し訳ありません!! 部下の調書を鵜呑みにしておりました! ただちに調べさせますので!!」
「迅速にね。この私を待たせたらただじゃ置かないわよ」
コーネルディアはそう言って凄んだ。
悪女呼ばわりに傷ついたのは過去の事、いくら品行方正に努めて訂正し回っても、すべてが無駄だった。
それならばいっそ、悪女でしかできない立ち回りで生きていこうとコーネルディアは思ったのだ。
品行方正な令嬢ならば正面切ってこんなことはできないだろうし、凄んでも怖くはないだろう。だが、悪女と呼ばわれるコーネルディアなら話は別だ。
(ゼスティバウス公爵令嬢が怒鳴り込みに来たってすぐに噂で広まるだろうし、内務府の中でも調査が始まるはずよ。さぁーて誰が罠にかかるかしら)
コーネルディアはほくそ笑んだ。
一方、リヨネッタはコーネルディアと別れた後、着替えてからレナーク孤児院に再び戻って来た。
(コーネルディアの行動でこっちにも何かしら動きがあるでしょうし、中にいた方がわかりやすいわ)
理由はそれだけではない。泣いている子供たちの顔が浮かんで中々離れがたかったのだ。お腹が空いて泣いている子供たちが、かつての自分や小さな弟に見えた。
助けて欲しいと願った時に手を差し伸べられなければ、それは一生心の傷となってしまう。人を信じられず、嫌って憎んで、そしてそんな自分が嫌になっていくのだ。
(少しずつ、自分を好きになっていきたいわ)
リヨネッタが孤児院の子供たちの手を取るのは、かつて可哀そうだった自分を救うためでもあった。
まだまだ道は遠いが、いつかは自分の存在を手放しで喜べる日が来るだろう。
子供たちの小さな手を握りながら、リヨネッタは自分のために微笑んだ。
■
オランド伯爵家は貴族の序列で言えば上位に当たる。有名な商会と豊かな領地が財産を潤していた。しかし、当主はあくなき野心の持ち主でさらなる欲を胸に抱いていた。
「ゴルディアム家との縁談はならなかったか」
葉巻を吸いながら、伯爵家当主、オリバーは言う。
「お父様!! こ、このわたくしが振られるなんてそんなのありえません!! きっと、ケリーの無作法がマリウスさまの気に障ったんですわ!!」
当主の娘、デライラは目を血走らせながら怒り、ヒステリックに叫んだ。美女だと称えられ、甘やかされてきた彼女はマリウスに振られたことが受け入れられなかった。付き添いで来た侍女ケリーのせいだと思い込んだデライラはケリーを懲罰室に入れ、罰を受けさせている。
「理由はどうあれ、縁を結べなかったのは事実だ。グリーンガルズ公爵が引退し、種々の権利を奪われた今、他の三大公爵と手を結ぶ必要があるのはお前もわかっているだろう」
オリバーはため息を吐いた。
(デライラの性格は苛烈だが、見た目は抜群の美女だ。マリウスの年齢なら喜んで飛びつくだろうと思っていたが、無理があったか)
下劣で悪徳なグリーンガルズ公爵は一部の腐敗した貴族、裏社会にとってこれ以上ない庇護者であり、金づるだった。
オリバーが思考を巡らす中、デライラは父にねだった。
「まだ完全に嫌われたわけではありませんわ。何かきっかけがあれば、マリウスさまはわたくしを欲しいと思われるはずです。お父様。もう一度チャンスを作って下さいませ!」
「わかったデライラ。しかし、正攻法だけが手段ではない。手のものに探らせてあの小僧の弱みを握れ」
性格が看破されているのなら、演技をする必要はない。むしろ、それを生かしてマリウスを引き込めばいい。オリバーはそう考えた。
「わかりましたわお父様。必ずやマリウスさまをわたくしのものにしてみせますわ」
デライラは自分の誇りにかけて父親にそう宣言した。
■
ゼスティバウス公爵令嬢が内務府を荒らしまわったという話はマリウスの下にも届いた。呆れた顔の側近がマリウスに報告する。
「福祉局が横領したとかなんとか……あのゼスティバウス公爵令嬢のことですからね。ただの難癖だと思いますが」
「ふむ。令嬢の悪名は私も知っているが、彼女の兄、デミアンは学校で主席争いをした仲だ。彼の妹なら根はそう悪くはないだろう。レンド。一度視察に行くぞ。ゼスティバウス公爵令嬢が名前を挙げたのはどこの孤児院だ?」
「レナーク孤児院と聞いています。ただちに視察の準備を致します」
「いや、忍びで行く。誰にも知らせるな」
マリウスはそう言って外套を羽織り、執務室を出た。
辻馬車を拾い、御者に目的地を告げてマリウスはレナーク孤児院に向かった。
しかし、レナーク孤児院に着いたとき、マリウスは御者が場所を間違えたかと思った。看板の文字がほとんど読めず、さびた柵、壁面が崩れた建物に傾いた屋根にマリウスは絶句した。
「リヨネッタさまあー!! へんなひとがいるー!!」
立ち尽くすマリウスを不審人物と勘違いした子供が声を上げる。
「へ、へんな人だと?! 子ども、おかしなことをいうんじゃない。私は……」
マリウスは声を上げた赤毛の少年に訂正を求めようとしたところで、孤児院から指導員らしい若い女性が出てきた。銀髪の少女、リヨネッタだ。コーネルディアと別れた後、一時的に帰宅し、身支度を整えてから食材を持って戻っていた。
そんなこととは知らないマリウスはその女性──リヨネッタを見た瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。
一つにまとめた美しい銀の髪、抜けるような白い肌にアメジストの神秘的な瞳がきらめく。化粧もなく、飾り一つもつけず、古着のドレスを着ただけなのに、どんな貴族の令嬢よりも美しく思えた。
「ケラル。どうしたの? あら、初めて見るお顔ですわね。こちらに何か御用でも?」
「あ……し、失礼しました。私は……マリウスと申します。ふ、福祉局のものです。給付金が滞っていると聞き、詳細をお伺いしたく参りました」
マリウスは思わず嘘をついた。福祉局は内務府の管轄の一つであって、マリウスが専任しているわけではない。だが、自分が上位貴族の人間と明かしてしまうと、この美しく健気な女性と大きな隔たりができる気がしてしまった。
「まあ、それはとても嬉しいですわ。このままだと年も越せなくなってしまいます。どうか、良きようにお取り計らいくださいませ」
リヨネッタは目を輝かせて微笑んだ。
その声、顔、すべてにマリウスは魅了される。
「お任せください。あ、あの、お名前をお伺いしても?」
「リヨネッタと申します。マリウスさま。もし、お時間があるのでしたら、視察がてらお昼をご一緒しませんこと? 今日のシチューは力作ですの」
「あ。あなたが作ったのですか?」
「ええ、掃除も洗濯も全部自分たちでやりますの。マリウスさまのお口に合うかわかりませんが、お仕事の一環としてぜひ、味わってくださいませ」
「ありがたく頂きます」
「嬉しいですわ」
リヨネッタは慣れた手つきでケラルを抱き上げると、マリウスを中へと誘った。外見に負けず劣らずのおんぼろでマリウスは福祉局の役人たちに憤りを覚えた。
(ゼスティバウス公爵令嬢の噂は当然犯人の耳にも入っているだろう。ここにいれば何か手掛かりがつかめるかもしれない)
マリウスは絶品のシチューに舌鼓を打ちながらも、リヨネッタの忙しさを目の当たりにして驚いた。走り回る子供を諫め、喧嘩を止め、泣き出す子供をあやし、小さい子供の食事を手伝う。目まぐるしく動く彼女にマリウスは驚くばかりだった。
「いい娘だろ」
突然話しかけられてマリウスが顔を上げるとそこに恰幅の良い女性──ミュラーが立っていた。
「惚れて当然だけど、あの子を泣かせたらあたしが絶対に許さないから覚えておきな」
ガッハッハと豪快に笑いながらも、その鳶色の瞳に強い意志があった。彼女は本当に慕われているらしい。
そして、彼女に嘘をついている自分が無性にやるせなくなった。
食事を終え、マリウスはリヨネッタとミュラーに挨拶をして孤児院を後にした。
「ああ、良かった。お帰りが遅いから心配しましたよ」
戻るなり、補佐官のレンドがたんまりと書類を抱えて入って来た。そしていつもの鋭い観察眼で指摘する。
「あれ。今日は暑かったのですか? お顔が真っ赤ですが……」
「……水を一杯持ってきてくれ。冷やしてから仕事にかかる。それと、ラグバズ侯爵に孤児院の不正の調査をしっかりやれと伝えろ」
孤児院の様子から見てゼスティバウス公爵令嬢の言葉は信憑性がある。詳しく調査しなければならない重要な事案だ。しかし、妙に力が入ってしまう自分にマリウスはは恥ずかしくなる。
脳裏にリヨネッタの綺麗な顔、美しい声がこびりついて中々離れなかったからだ。
■
マリウスが帰った後、リヨネッタはコーネルディアがつけてくれた護衛の一人に尾行をさせた。彼が現役の武官なら難しかっただろうが、文官だったのが幸いだった。
護衛からの報せはコーネルディアの屋敷で二人で聞いた。
「ゴルディアム家……三大公爵の一つですわよね」
「お兄様と主席争いをした方よ。正義感が強くて曲がったことが大嫌いなんですって。福祉局は内務府の管轄だから直接動いてくれたんじゃないかしら」
コーネルディアは兄から聞いた人となりから推察する。
「それならとても頼もしいですわね。それに子供好きみたいですし」
「あらそうなの?」
「いっぱいレオンたちと遊んでくれましたわ。大人の男の人に遊んでもらえる機会がないから、子供たちはそりゃあ喜んでましたの。帰る時に子供たちが大泣きしてなだめるのに苦労しましたけど」
くすくすとリヨネッタは笑う。
「へえ、人は見かけによらないものねえ」
なんらかのパーティで偶然目にしたマリウスの堅物そうな姿を思い浮かべながらコーネルディアは言った。
次の日、マリウスはまたレナーク孤児院に来ていた。リヨネッタは驚きつつも、来訪を歓迎して中の様子を見せた。
リヨネッタは特に何の感情もなく、孤児院の現状を見て役人に動いて欲しいという一心だったが、リヨネッタの懇切丁寧な対応がマリウスの心を大いにかき乱していた。
自分に語り掛けてくれる声、向ける笑顔、それだけでマリウスはいけないとわかっているのに心が浮かれてしまう。
そして忙しくなく働くリヨネッタの姿に心を打たれた。すすだらけになりながら火を焚き、ずぶぬれになりながらの洗濯、どれほど豪華なドレスを着た女性も、リヨネッタの美しさに敵わないとマリウスは思った。
その日もまた、マリウスは食事をごちそうになった。
食材はゼスティバウス公爵家が用意してくれているらしい。マリウスは件の令嬢を見直しつつ、自分の身分を隠さなかったら表立って支援で来たのにと悔やんだ。
マリウスが眉間にしわを寄せたのをリヨネッタが気遣う。
「あら、今日のシチューはお口に合いませんでしたか?」
「いえいえ。少し仕事のことで悩んでいただけです。今日の食事も絶品ですよ」
「それは良かったですわ」
リヨネッタは微笑む。マリウスも微笑み返す。
ミュラーはそれをやれやれと肩を落としながら見た。
(あの坊やったらリヨネッタに惚れちまったねえ。身分差の恋なんて苦しいだけなのにさ……)
その日の夜、ミュラーはリヨネッタに尋ねた。
「リヨネッタ。あんたはマリウス様の事どう思っているんだい? あの坊やはあんたに惚れてるよ」
言われたリヨネッタは目を真ん丸にして暫く呆けていた。そして、咳払いした後、ため息を吐きながら答えた。
「……マリウス様は位の高い方でしょう? 町娘相手に本気になるとは思えません」
「どうかねえ。でも、身分差の恋は苦しいだけだからね。もし、何か言われたらきっぱりと断る方がいいよ」
ミュラーはリヨネッタにそう忠告した。
リヨネッタはその夜、布団の中でマリウスのことを考えた。明るい色の髪、優し気な眼差しと頼もしい姿。一緒にいると楽しく、気負わずにいられる。
(コーネルディアと同じで優しくて親切、そしてとっても心が綺麗な方だわ)
好ましいと思ったのは、その共通点があるからだろう。そのどれもがリヨネッタにないものばかりだ。
こういうとき、リヨネッタは無性に自分のことが嫌いになる。子供たちを救いたいという気持ちは同じだが、どうにかして復讐してやろうという怒りが芽生える。
(マリウス様が私を好きだというのもミュラーの見当違いよ。だって私はこんなにも醜いんですもの)
レオンとリルをひこうとした女、孤児院からなけなしのお金を奪いとった悪人、そのどもれが憎たらしくてたまらない。人を救うよりも前に憎悪が心を支配してしまう。そしてリヨネッタはそんな自分が大嫌いなのだ。
■
■
真四角の古くはないが新しくもない建物の中、福祉局のラグバズ伯爵は常に怯えていた。なぜかゴルディアム家のマリウスやゼスティバウス家のコーネルディアから最優先で不正を調べろと突っつかれており、今や寝る暇もない位忙しい。帳簿を調べさせ、出入り業者の洗い出し、金の流れを丹念に部下たちと調べていた。
「ラグバズ伯爵。お忙しいようですな」
「ああ、オランド伯爵。御用でしたら二か月後にお聞きします。なにしろ今はてんてこまいでして」
「話は聞き及んでおります。僭越ながら、私がお手伝いしようとやってきた次第です。なにしろ、書庫の管理者というのはヒマなものでね」
「おお!! そうでしたか!! それはぜひにでもお願いしたい。ええと、どの部分をお願いしようか……」
ラグバズ伯爵は使用をぺらぺらとめくった。
「めんどうですので、こちらの帳簿を半分頂いていきますよ。そうすれば、ラグバズ伯爵も楽でしょう。ずっと部屋に引きこもりでお屋敷にも帰っていないと伺っておりますし、ここは少し休まれては?」
「それは本当に助かります!! 実は明後日、結婚記念日でして……」
「それは大変だ! 引き継げるだけ引き継ぎましょう」
オランド伯爵の言葉に愛妻家で人の良いラグバズ伯爵は涙を流して喜んだ。彼は真面目で勤勉、実務能力は人並み以上だったが、人を疑うことを知らない珍しい人間だった。
オランド伯爵はラグバズ伯爵から引き継いだ資料を貰い、自分たちへの手掛かりがないか部下に念入りに調べさせた。
「それにしても、ゼスティバウス家の娘がなぜ孤児院の不正に気が付いたのか気にかかるな」
「噂によると広場で孤児院の子供が令嬢の名を騙ったそうです。報復するつもりで孤児院を調べたのかもしれませんね」
「命知らずな子供のせいで厄介事が増えたな。中の様子を調べる必要がありそうだ。誰かバンスを呼んで来い」
オランド伯爵はそう命令した。
バンスは給付金を孤児院に届ける小役人でオランド伯爵の手先だ。髭面の太った男で、酒浸りが災いしてか、常に顔が赤い。
「バンス。孤児院でなにか異変がないかお前も見てこい。福祉局と孤児院の窓口だったお前なら怪しまれずに奥までもぐりこめるだろう」
オランド伯爵は福祉局の小役人、バンスに命令した。
担当の役人、バンスは改ざんした資料をもとに、本来の百分の一の金額を孤児院に渡す手はずだったが、バンスはさらにそこから金をくすねていた。オランド伯爵の計算でギリギリ運用ができるくらいの料金に抑えたのをさらに減らしていたのだ。
調べれば、バンスがくすねていたこともわかってしまうだろう。そうなればオランド伯爵に始末されかねない。
「なんとかせにゃあ、俺が消されちまうっ」
バンスは冷や汗をかき、頭をかきむしってた。
■
マリウスは時間を見つけてはレナード孤児院に向かい、リヨネッタの手伝いをした。といっても洗濯や炊事ができるわけではないので書類仕事や力仕事、そして子供たちの遊び相手だ。
多忙な日々の中の安らぎにマリウスは心を躍らせていたのだが、今日はその束の間の余暇も奪われていた。
「素敵な演奏でしたわね。マリウス様がロドシュ楽団を好んでいらっしゃるとバドラー侯爵夫人から伺って嬉しかったですわ。わたくしも好きですから、ご一緒できて本当に良かったです」
マリウスの前に黒髪の美女、デライラが微笑んでいる。場所は演奏会場の上階にある会員制レストランだ。母と懇意にしているバドラー侯爵夫人に懇願され、数人の令嬢と演奏会に行くはめになったのだ。そして、なぜか参加したのはデライラだけだった。
「演奏は一人で行く方が好みですな。その旋律だけの世界を楽しめますから」
マリウスがぴしゃりというと、デライラの美しい顔が少しだけ歪んだ。
「で、ですが、大勢で音楽を楽しむのも良いものですわ。そうですわ。今度ぜひ、わたくしのサロンに来てくださいませ。自分で言うのもなんですが、才のある人間に惜しみなく援助しておりますのよ」
デライラは自慢げに言った。
「ほう。それは素晴らしい。資産階級の人間ですかな?」
「あらまさか。下位貴族ですわ。資産階級とはいえ平民に音楽を愛する才能はありませんもの。ですが、没落していても高貴な血はたしかです。わたくしは彼らを差別することなく、サロンに招き入れているのですわ」
デライラは誇らしげだ。その美しい顔にマリウスは反吐がでそうだった。そして、頭に浮かぶのはリヨネッタの歌声だ。高価な楽器などなくても、彼女の唇が奏でる声はとても素晴らしいものだった。彼女が教えている子供たちもそうだ。天上まで声が届きそうな高音を持つ少年、小さい指でダイナミックな演奏をする少女……レナード孤児院は才能の宝庫だ。
デライラはマリウスが不快そうに顔を顰めたのを見て焦った。
(なにが不味かったのかしら。資産階級を下に見たことかしら?機嫌を取る必要がありそうね)
「マリウスさま。わたくしが紅茶をお注ぎしますわ。こうみえても家では下のものに自ら紅茶を振る舞っていますのよ。なにせ、彼女たちはわたくしの家族のようなものですもの。ねえ、メア」
デライラはそう微笑んで側にいた侍女に同意を求めた。前回の侍女、ケリーを鞭打ちの上で追い出し、新しくデライラ付になった侍女だった。
彼女は笑顔で応えた。
「ええ。そうですわ。デライラお嬢様は本当に優しくて……皆から慕われております」
「その割には、前に見た侍女と顔ぶれが違うようですね。ケリーと言ったかな。彼女はどうした?」
マリウスはメアを睨んだ。
「え……あ」
「ケリーを覚えて下さったのですね。嬉しいですわ。彼女は実家に戻っております。なんでも、弟さんが病気になったとかで、お見舞金を渡して送り出しましたわ」
デライラは笑顔で嘘を吐く。
「それはすばらしい。では、さっそく紅茶を頂こうか」
マリウスが言うと、デライラは笑顔になった。見事な刺繍の袖をまくることもせず、そのままポットを両手で持ち、マリウスのティーカップに注ごうと動いた。そして袖のレースが彼女自身のティーカップにどぼんと浸かり、色鮮やかなレースは紅茶色に染められた。
マリウスは席を立った。
「デライラ嬢。慣れないことはするものではありません。紅茶は結構です。屋敷に戻られて着替えた方がよろしいでしょう」
「え……あ、こ、これは緊張してしまっただけで、マリウスさま。お待ちになって」
デライラはマリウスを呼び止めたが、マリウスは立ち止まることはなかった。
周囲の客たちからくすくすと笑い声が漏れる。
「笑っては可哀そうですわよ」
「だって自信満々に紅茶を注ぐといってあの体たらくですもの。きっと、家で紅茶を振る舞っているというのも嘘ですわ」
「ゴルディアム家の小公爵さまも気が付いて呆れてしまったのでしょうね」
噂好きなご婦人方が嘲り笑う。
一人残されたデライラは顔を真っ赤にさせ、メアを蹴り飛ばした。
「お前がこんなドレスを用意するからでしょう!! ただで済むと思わないで!!」
■
レストランから出たマリウスは、なぜか無性にリヨネッタに会いたくなって馬車を走らせて孤児院に向かった。
子供たちはマリウスを笑顔で迎え、何を言わずともリヨネッタの場所まで案内してくれた。
「あら、マリウスさま」
リヨネッタが微笑む。汚れたドレスを纏いながらも、彼女はとても美しかった。
「近くまで来たものですから寄ってみました。何か手伝えることはありませんか?」
「まあ、いつもありがとうございます」
リヨネッタはいくつかの力仕事をマリウスに頼んだ。楚々としている姿とは反対に遠慮がない。そのギャップすらも好ましいと思えてくるのだから、自分でも驚く。
(煤だらけにして煙突掃除か……。父上や母上が聞いたら気絶するな)
作業が終わったら堆肥を畑へ運ぶ。臭いし重労働だが、子供たちは手分けして一生懸命足と手を動かす。
(オランド伯爵令嬢は彼らのことなど微塵も考えないだろうな。しょせん、貴族の女なんてそんなものだ)
「マリウスさま。ティータイムの時間ですわ。休憩を致しましょう」
リヨネッタがマリウスを呼びに来る。その姿が見えた時、マリウスはどくんと心臓が高鳴った。
彼女が入れてくれたお茶、そして手作りのお菓子はけして高価なものではないが、とても美味だった。そしてついつい見惚れるのはリヨネッタの所作の美しさだ。どこかの侍女といっても通用する。
以前、マリウスはリヨネッタが子供たちに呼ばれていなくなったときに、ミュラーに彼女の素性を尋ねたことがあった。
しかし、ミュラーも知らないという。
(何か訳ありなんだろうが、ゴルディアムなら彼女を守ってあげられる。高等教育を受ければ家庭教師の職にもつけるし、自分で店を立ち上げることもできるだろう)
マリウスは綺麗なリヨネッタの横顔を見ながら思った。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、外は街灯が灯りはじめた。
マリウスは渋々とながら孤児院の門を開けた。
「マリウスさま。お気をつけて」
リヨネッタはマリウスを門の外まで見送ってくれた。
「ありがとう。リヨネッタさん」
マリウスは後ろ髪をひかれながら孤児院を後にした。その姿を福祉局の小役人、バンスが見ていた。ちょうど、孤児院に向かっていた馬車の中、門から背の高い男が出てくるのを見て路肩に馬車を止め、ひっそりと見ていた。
(あれは……ゴルディアム家の小公爵じゃないか。一体なんでまた平民の娘なんぞと話し込んでいるんだ?)
バンスの目がリヨネッタを見つけた。珍しい銀の髪、遠目であるが、マリウスとずいぶん親密そうだ。
バンスは口の端を上げ、すぐにオランド伯爵屋敷へと向かった。
横領と重税で調度品を買い集めた豪華な部屋でオランド伯爵はバンスの報告を楽しそうに聞いた。
「いい知らせを良く持ってきてくれた!! あの若造が平民の娘に懸想するとはなあ。ずいぶんと面白いことになったものだ」
デライラとの婚姻でゴルディアム家を取り込もうと考えてはいたが、ザカリーとマリウスの性格もあり、好き勝手に動けないのが懸念点だった。ところが、思わぬところでマリウスの弱みが見つかり、オランド伯爵は笑いが止まらない。
(この切り札をいつ使うかは悩みどころだな)
その様子を壁一枚隔ててデライラが聞いていた。白い肌は怒りで赤く染まり、ぎりりと白い歯が音を立てる。
(マリウス様がわたくしに興味を示さなかったのはその下賤な女のせいだったのね。平民風情が身の程知らずにもマリウスさまに近づいたらどうなるか教えてやるわ!!)
翌日、馬車を飛ばしてレナーク孤児院にやってきた彼女は、窓越しに庭で子供たちを遊ぶリヨネッタを一目見てマリウスの思い人だと分かった。デライラが今まで見た中で一番美しかったからだ。
悔しさにぎりりと唇を噛んだ彼女は、馬車から飛び出して孤児院に押し入った。
「あら。どなたでしょう?」
リヨネッタは手を止めてデライラを見上げる。神秘的な紫の目、透き通るような肌、絹のように輝く銀髪……どれもデライラにないものばかりで嫉妬の炎が一気に燃え上がった。
「お前のような下賤な存在に名乗る名前などないわ!! そこに跪きなさい。よくもお前のような人間がマリウスさまをたぶらかしたわね!!」
デライラは会うなり、リヨネッタの頬をパアンと打った。芝生に倒れるリヨネッタに子供たちが駆け寄り、口々にデライラを非難する。
「何するんだよ!!」
「リヨネッタさま。だいじょうぶ?」
騒ぎを聞きつけてミュラーがやってきた。
「何やってんだい!! いきなりやってきてウチの大事な子を傷つけるとは絶対に許さないよ!!」
デライラに臆さず、ミュラーは怒鳴りつけた。相手は貴族だがミュラーは黙っていられなかった。
「平民が伯爵家のわたくしにたてつく気?」
「ここはゴルディアム公爵家からも支援を受けているんだ。それに、リヨネッタは小公爵さまのお気に入りだよ。そっちこそ引っ込んだらどうだい!!」
ミュラーが強気に出れたのはマリウスの存在が大きい。身分差の恋に苦しむのはわかっていても、若い二人を応援してやりたい気持ちも本当だ。
だが、ミュラーの言葉はデライラの怒りを増幅させるだけだった。
「お前たち、この娘を縛り上げなさい!! 屋敷で存分に痛めつけてやるわ!!!」
デライラの号令でオランド伯爵家の騎士たちがリヨネッタを取り囲んだ。リヨネッタが口を挟もうにも、猿轡を噛まされ、後ろ手に縛られて身動きが取れなくなってしまった。
止めようとするミュラーや子供たちは蹴散らされ、リヨネッタは馬車の荷台に乗せられてオランド伯爵家へ連れていかれてしまった。
打たれて身動きができなくなったミュラーを子供たちは泣きながら手当てをし、子供たちのうち一人が走り出し、一路ゴルディアム公爵家へと助けを求めに向かった。
■
伯爵家に連れていかれたリヨネッタは猿轡をかまされたまま椅子に座らせられていた。鞭を持って来させている間、デライラはぎろっと恐ろしい目でリヨネッタを睨む。
(何か誤解があるわね。グリーンガルズ公爵家の人間だと伝えたいのに猿轡があるから話せないわ)
リヨネッタは冷静だった。
父の愛人たちの暴力で育った彼女にとってデライラなど怖くなかったのだ。
「デライラさま! ゴルディアム公爵家のマリウス様がいらっしゃいました!!」
「……もう気が付いたの」
ふるふると震えながらデライラはリヨネッタを睨みつけ、部屋を出て行った。
応接間でデライラを待っていたのは恐ろしい顔のマリウスだった。冷静沈着な彼らしくなく、野生の獣のような気迫がそこにあった。吞まれそうになりながらもデライラは笑顔を向けた。
「来てくださって嬉しいですわ。お茶は何をお飲みになります? それともお酒の方がよろしいかしら」
「ふざけるのもいい加減にしろ。お前がリヨネッタさんを攫ったことは知っているんだ」
マリウスの地を這うほどに低い声が響く。
「ほほ……大層なご執心ですこと。あの平民はわたくしの大事なものを盗んだ罪で捕縛しました。平民が貴族のものを盗んだ場合、その裁可はその貴族に委ねられますわよね?」
デライラは薄く笑った。
「ああ、そうだな。だが、同格、もしくは上位貴族が介入できるのを忘れているのか? 早急にリヨネッタさんを解放しろ!!」
マリウスはデライラに怒鳴りつける。だが、デライラは引かなかった。彼女には勝算があった。
「マリウス様。今の発言を……そうですわね。ユナ側妃殿下がお聞きになったらどうなると思います?」
にやっとデライラは怪しく微笑む。
マリウスの顔が一転して青くなった。
「困りますわよね。なにしろ、国王陛下がユナ側妃を迎えるとき、『平民』という理由であなたのお父上が最後まで反対しましたものね」
オホホホと狂ったようにデライラが笑い出す。一瞬にしてマリウスから表情がなくなった。デライラはそれを楽しそうに見る。
「たかが平民の娘ごときに血相を変えて伯爵家に乗り込むなんてとんだ醜聞ですわ。お父上の立場も悪くなりますわよね」
「……私にどうしろというんだ」
「わたくしを妻に迎えて下さい。そしてあの娘を王都から追放してくださいな。それだけで済むのですからお安いものでしょう?」
デライラはにっこりと微笑む。マリウスの心が得られずとも、ゴルディアム公爵夫人の名さえ貰えればいい。後からじっくりとこの人の心を自分のものにしてやるわとデライラは買ったばかりの宝石を愛でるようにマリウスの端正な顔に手を添えた。
マリウスは目を閉じた。様々な思いが交錯する。
「……わかっ」
しかし、最後まで言えなかった。
「デライラさまっ!! 大変でございます!! ゼスティバウス公爵家の騎士団がぐるりとお屋敷を囲み、砲口がこちらに向けられております!!」
「え!? なぜ!?」
デライラは声がひっくり返った。
そしてその答えを聞くまでもなく、知らせを持ってきた執事を蹴倒して、豪奢な金髪の少女、コーネルディアが入って来た。
「あんたがデライラ?」
「……ゼ、ゼスティバウス公爵令嬢」
デライラはかすれた声でその名を呼ぶ。悪名高き傲慢な令嬢だ。一体何が彼女の気に障ったのだろうか。恐れるデライラにコーネルディアの怒号が響き渡る。
「よくもわたくしの親友を攫ったわね!! どこにいるのよ!! さっさと出しなさいよ!!!!」
ゼスティバウス公爵令嬢コーネルディアはゆっさゆっさとデライラを揺さぶった。
「し、親友? あの平民が!?」
デライラは驚いて声を上げると、コーネルディアが変な顔をした。
「平民? リヨネッタはグリーンガルズ公爵家の令嬢よ。三大公爵家のうち二つ、ウチとグリーンガルズを敵に回してただで済むと思わないでよね!!」
「グ、グリーンガルズ!!!? あの平民が!?」
聞き返すデライラにコーネルディアは再び変な顔になった。
「だから平民じゃないってば!!」
思いっきり訂正するコーネルディアに、問いかけるのはマリウスだ。
「リ、リヨネッタさんがグリーンガルズ公爵令嬢というのは本当ですか?」
「あら。あなたは確か……えーっと、兄と主席を争っていたゴルディアム公爵家の方ですよね。リヨネッタの素性はわたくしが保証しますわ。それが何か?」
コーネルディアの返答にマリウスは一気に気が抜けた。
「それは…良かった」
■
オランド伯爵家の悪事は暴かれ、資産は没収。当主自ら謝罪行脚した。デライラは孤児院のレオンとリルに謝罪させられた。そして厳格な修道院に入れられたが、コーネルディアを恐れる彼女は「むしろここが一番安全!!」と胸を撫でおろした。なにしろ、赤毛の平民がコーネルディアの扮装と知らされた彼女は、一晩で白髪に変貌するほど怯えたからだ。
また、マリウスの思い人が実はグリーンガルズ公爵令嬢だという話は社交界ですぐに噂になった。息子から仔細を聞かされたザカリーが、ユナ側妃一派をけん制するためにワザと流したのだが、公爵令嬢が自らすすんで洗濯や炊事を子供たちのためにするというストーリーはリヨネッタの美しい見た目もあって新聞社や雑誌に取りざたされ、一躍有名人となった。
一方、オランド伯爵家にゼスティバウス公爵令嬢コーネルディアが押し入ったという話も広がったが、それまでに流れた悪評の方が酷かったため、特に誰も気に留めなかった。
そして、コーネルディアが怯えられる日常も変わらない。
「ひぇっ……ゼスティバウス公爵令嬢っ!!」
「お邪魔するわよ」
今日も今日とて店で怯えられるコーネルディアだが、むしろ今は開き直って悪女ライフを楽しむことにしている。リヨネッタはやはりそれについて顔を曇らせるのだが、大事なリヨネッタをすぐに助けに行けるのだから悪女でいいのだと実感するのだった。
(大好きよ、リヨネッタ。あなたを必ず守るわ)