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『ミッツ、右に急旋回しろ』
両耳を覆うヘッドフォンに怒鳴り声が響いた。
三雲はヘッド・アップ・ディスプレイの照準環に捉えていたロシア空軍機―スホーイSu-27《フランカー》を諦め、操縦桿を倒すと同時にラダーペダルを踏み込んだ。〈イーグル〉の機体が大きく右に傾き、眼の前の光景が左へ吹っ飛ぶ。
青い空が灰色に変わる。
『ミッツ、4時の方向をチェックしろ(チェック・フォー・オクロック)』
パイロットが方位を知らせる場合、時計の文字盤を利用する。正面が12時、右の真横が3時、背後が6時、左の真横が9時を表す。
三雲は射出座席の上で前傾姿勢を取り、それから首をねじって右の後方を見た。戦闘機のコクピットから後方を見る場合は一度、身体を前に倒す。射出座席の上で背中を伸ばしたまま背後を振り返っても、視界は限定されてしまい、十分なチェックができないからだ。
視認。
「見えた」三雲は口許のマイクロフォンにコールした。
右側のやや下方。特徴のある二葉の垂直尾翼を持った戦闘機が見える。旋回を切りながら上昇して〈イーグル〉の背後に食いつこうとしている。
Su-27。先ほど三雲が照準環に捕えていたスホーイの編隊僚機に違いなかった。戦闘機は最低でも2機がペアとなって行動する。
三雲は操縦桿を右に倒したまま、わずかに引き上げた。〈イーグル〉の機首が上がる。上体を前傾させて首をひねり、後方に眼を向ける。頸筋が伸び切って震えている。奥歯を食いしばる。
Su-27が左後方へ回り込んで下方に潜り込もうとしている。ヘッドフォンからは耳障りな電子音が鳴り続けていた。レーダー警戒装置の警報だった。断続的に鳴り続けている警告の間隔が次第に短くなっている。スホーイのレーダーが照射範囲を狭め、三雲機の後尾を的確に狙いつつあることを示していた。
尻がむず痒くなる。三雲はさらに操縦桿を引き、旋回半径を小さくする。まだスホーイを視界の隅に捕えていた。巴の旋回戦の場合、敵機を見失った時は自機の真後ろを捉えられたことを意味する。すなわち撃墜。
苦しくても、生き残るためにこの一瞬を踏みとどまるしかない。
スホーイは射出座席の上端に隠れそうになりながらも、まだ機影を見せていた。敵のレーダーがこちらを捕らえかかっているが、ミサイルは発射しない。現在の位置関係なら敵がミサイルを発射しても振り切れる。それは相手も分かっているので無理に発射しない。
「ミッツ、交戦する」三雲は口許のマイクロフォンにコールした。
敵機のヨーヨー機動を旋回で切り返す。2機は典型的なシザース運動に入る。その時から三雲は分かっていた。〈イーグル〉はいずれ失速するだろう。敵機を見上げるように首をのけぞらせる。だんだんと頭上から後方に視線が移る。
やがて敵機が真後ろについた。レーダー警戒装置が甲高くわめき立てる。
身体が自然に反応した。
急激に操縦桿を引いてスロットルを絞る。〈イーグル〉が空中で一瞬、棒立ちになる。速度計を確認する。ほとんどゼロになっている。三雲は天を見上げ、眼をしばたたいた。何が起こっているのか。考えている余裕はない。祈るような思いで操縦桿を付いた。
〈イーグル〉は震えながら、次第に機首を下げる。左手はスロットルレバーの点火位置まで押し出している。ターボファンエンジン特有の着火までのタイムラグがもどかしい。
風防ガラスの眼の前を排気口からオレンジ色の炎を閃かせてSu-27が駆け抜ける。主翼に吊るしたミサイルはすでに安全装置を外してある。AAM-5赤外線追尾式ミサイルの弾頭に内蔵された感知部が敵機のエンジンから出る赤外線に反応する。耳元でオーラルトーンが弾ける。目標を完全に捉えたことを知らせる音だった。
「発射」
三雲は操縦桿の発射スイッチを2度押す。主翼下のパイロンについているレールを滑り、ミサイルが飛び出した。
完璧な攻撃だった。
三雲はスロットルレバーについているレーダー管制スイッチを切り換えた。
ヘッド・アップ・ディスプレイに眼を落とす。敵機と自機の距離が表示されている。4キロ。この距離で発射された赤外線追尾式ミサイルはSu-27の排気熱をしっかりと捉えている。スホーイに逃げ場はなかった。不意に、ヘッドフォンの中に怒鳴り声がした。
『ミッツ!急旋回しろ!9時上空に敵機』
三雲はとっさに操縦桿を左に入れ、左側のラダーペダルを蹴った。続けて操縦桿を前に倒しながら、上空を見上げた。左に旋回を切ったため、9時上空から襲いかかってきた敵機をまともに見上げる格好になる。
眼を見開いた。透明な風防いっぱいに敵機が覆いかぶさってくる。
先ほど逃がしたもう1機のスホーイ。三雲は旋回を切り続ける。だが、すでに遅かった。スホーイの右翼、付け根あたりからオレンジ色の炎が閃いた。30ミリ機関砲が火を噴いた。風防が真っ赤に染まる。やがて周囲の背景が白濁して消えた。
ヘッドフォンに声が響いた。
『ミッツ、被撃墜。ゲームオーバー』堀井が言った。『昼だ。飯にしよう』
三雲は溜めていた息をそっと吐いた。操縦桿とスロットルレバーにかけていた両手をだらりと下げる。周囲を見渡す。白い壁が広がっている。マイクロフォンと一体になったヘッドフォンを外し、風防の枠に引っかけた。
6本の柱で支えられた戦闘機用の模擬操縦訓練装置の中で、三雲は射出座席と自分の身体を固定していたベルトを外し、ゆっくり立ち上がった。三雲は戦闘機乗りとしては背が高い方だった。身長183センチ。濃いグリーンのフライトスーツに包まれた身体は引き締まっているが、首は太い。パイロットたちはGに抗い、敵機を探し求めて首を振るうちに必然的に首が太くなる。
三雲は正確に再現された〈イーグル〉のコクピットを見下ろす。グリーンやアンバーのランプが並んだ計器パネルはまだ電気が通っている。三雲は部屋を出る。
もう1機のスホーイ。気づいて当然だったはずだ。廊下を食堂に向かう間、胸奥に苦いしこりが残っていた。