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敵対空域  作者: 伊藤 薫
第1章:消失
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[4]

 2月17日。

 三雲はベッドに寝たまま、天井を見上げていた。眼はすっかり覚めていたが、身体が重い。昨夜は飲みすぎたようだった。

 枕元の小さな窓に眼を向ける。外はまだ暗い。

 三雲が住んでいるのは、千歳市内にある2階建てのマンションだった。2階の一室で間取りは1DK。寝室はベッドを入れただけでほとんど一杯になる。6畳の和室。4畳半と板張りの台所。

 寝室のテーブルに中身が半分ほど残ったワイルド・ターキーのボトルと汚れたコーヒーカップが置いてある。最近は酒の勢いを借りなければ眠れず、どんなに疲れていても夜明け前に目覚めてしまう。

 三雲は携帯端末のアラームを止めてベッドから起き上がった。パジャマからウォームアップスーツに着替え、ウィンドブレーカーを着て玄関のドアを開ける。途端に肌を刺すような冷気が襲ってくる。冬はロードワークに最悪のシーズンだが、三雲にとっては子どもの頃から欠かすことが出来ない日課だった。マンションの階段を軽いステップで駆け降りた。

 リズムを変えずに走り始める。

 眠気はドアを開いた途端に吹っ飛んでいた。足を踏み出す度に筋肉がギシギシ鳴る。白い息が顔の左右に分かれて飛び去っていく。ピッチを上げる。血液が脚を巡る。心地良いうずきが全身を満たす。30分走り続ける。今はひたすら無心になる時間が欲しかった。

 マンションに戻った頃には汗がこめかみを伝い、冷たい空気を吸い続けた肺が痛んだ。

 部屋のドアの脇に小さな猫がいる。模様は黒と白のブチ。子猫なのか発育不良なのか分からないが、ひどく痩せていた。このマンションに引っ越して3か月ほどしてから、よく姿を見せるようになった。牛乳を与えるうちに時おり玄関で待っているようになった。

 小首をかしげた猫が丸い眼で三雲を見上げている。逃げようとはしない。三雲が牛乳の入った小さなボウルを持ってくるまで、じっと待っている。

「また、タダ飯をたかりにきたな」三雲は言った。

 猫は小さな鳴き声で返事をした。

 三雲がドアを開ける。猫はそのまま玄関の近くから動こうとしない。台所の冷蔵庫から牛乳の入ったパックを取り出して、冷蔵庫の上にある猫用の小さなボウルに牛乳を注いだ。自分が使っているコーヒーカップは2週間や3週間、洗わなくても平気だったが、なぜか猫のボウルはこまめに洗っている。

 猫の前にボウルを置いた。猫が顔を突っ込み、髭の先端を白く濡らしながらなめ始める。三雲は手にしたパックに直接口をつけ、冷たい牛乳を飲んだ。牛乳をなめている猫を放っておき、ウォームアップスーツを脱いで洗剤と一緒に、洗濯機に突っ込んだ。

 バスルームで熱いシャワーを浴びた後、タオルで身体を強く拭きながら下着をつける。玄関からドアの郵便受けに差し込まれた新聞を取った。コーヒーを淹れようとポットで湯を沸かしている間、テレビの電源を入れてニュース番組を見る。男性アナウンサーの声を聴いた瞬間、三雲は鳩尾の辺りがかすかに痙攣するのを感じた。

「昨日未明、北海道の北東、オホーツク海においてアメリカの民間貨物機が墜落しました。機長と副操縦士2名の安否は今のところ確認できておりません。墜落したのはニューヨーク発ソウル行きフライングタイガー航空192便で、これまでに入ってきました情報を総合しますと、午前2時半ごろ空中で爆発を起こし、墜落したものと見られております」

 三雲は静かなショックを受けていた。

 昨夜、ホット・スクランブルで一緒に上がった編隊長―篠崎・一尉が操縦するF-15がオホーツク海の洋上で行方不明になった。その近くで同じ時刻に民間の航空機が墜落していたとは。淹れたコーヒーを飲みながら、その後も番組を見ていたが、F-15の行方不明に関するニュースは報道されなかった。事故が起きたことを知らせる第一報は出てもおかしくはないはずだが、何か理由でもあるのだろうか。

 コーヒーを飲み終えた後、三雲は寝室で飛行服に着替えてジャケットをはおる。三雲が勤務する千歳基地では飛行服を着たまま通勤することが許可されている。部屋を出ようとした時、ジャケットのポケットに入れていた携帯端末が鳴った。

 通話に出る。聞き覚えのある声が耳朶を打った。

「《ミッツ》、俺だ。《テツ》」

 三雲は思わず顔をしかめた。脳裏に《テツ》というタックネームを持つパイロットは1人しかいない。

 池谷徹・一等空佐。三雲が航空学生だった頃、池谷は浜松基地で行われた基本操縦後期課程の教官だった。航空徽章ウィングマークを手にしたばかりでヒヨコ同然だった三雲は池谷から散々にしごかれた思い出しかない。池谷は今、市谷の航空幕僚監部に勤務しているはずだった。

「何の用です?」

「市谷の役人が俺にお前と篠崎のことを聞きに来た」

「役人?誰です?」

「防衛書記官だ。気を付けろ」

 通話が切れた。

 三雲は首を傾げる。かつての教官が忠告してきたのは、どういう風の吹き回しなのか。防衛書記官といえば、市谷の内部部局にいる上級職だ。その書記官が自分や篠崎のことを聞いているという。三雲は違和感を覚えた。昨夜の事故について聞て回っているのだろうか。なら自分はすでに三沢基地の第2航空団から聴取を受けている。何をどう気をつければ良いのか、考えても皆目分からなかった。

 三雲は玄関のドアを開ける。玄関先に猫の姿は無かった。足元に置かれた空のボウルをしまい、ドアに鍵をかける。

 三雲は空を見上げる。雲が多い。ひとつ溜息をついてから基地に向かった。

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