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2月16日。北海道。千歳基地。
深夜の緊急発進待機所でディスパッチャー席の電話が鳴った。ディスパッチャーについていた二等空曹は受話器を耳に当てた途端に大声を出した。
「スクランブル!」
身体が自動的に反応した。眼を開いた三雲篤・二等空尉は背を倒してあった椅子から飛び起き、走り出した。けたたましくベルが鳴り出した時には格納庫に続く扉を押し開けようとしていた。しかし、扉の開閉バーを押したのは編隊長機のパイロットである篠崎真・一等空尉の方がほんのわずかに速かった。同期に先を越された形になり、三雲は思わず顔をしかめた。
アラートパッドに隣接する格納庫には、三雲の乗機に割り当てられた航空自衛隊の主力戦闘機F-15J〈イーグル〉の846号機が武装、離陸前点検を全て終えた状態で置かれていた。中射程ミサイルAIM-7「スパロー」を2発、短射程ミサイルAAM-5を4発、20ミリ機関砲に500発の実弾を搭載している。
〈イーグル〉は全体として、巨大なひし形をしている。その大きさは機体上部からの投影図面積で、ほぼテニスコート1面分に相当する。操縦席の両側に張り出している空気取り入れ口は大人がしゃがむとすっぽり入ってしまうほど大きい。
三雲が操縦席にかけられた梯子の前まで来た時、846号機の機付長である安土啓介・一曹もと2人の機付整備隊員が駆けつけてくる。ラダーを駆け上がり、狭いコクピットに身体を入れる。梯子を持った安土が機体から離れるのを見て、立ったままジェット・フューエル・スターター(JFS)のT字ハンドルを引いた。甲高い音が格納庫に響き渡る。
ようやく〈イーグル〉に装備されているACEⅡ射出座席に腰を下ろす。腰から上が機体から飛び出すような格好になる。続けてハーネスに両腕を通し、ヘルメットを被る。酸素マスクのホース、無線のコード、Gスーツのホースと連結する。JSFハンドルのわきで準備完了のライトが点灯する。三雲は間髪を入れず右舷エンジンに直結させる。メインジェネレータが電源を供給し始め、計器が一斉に生き返る。
発進直前の点検では、一瞬の気の緩みも許されない。安土は機体各部から安全ピンを抜き、機首や胴体下部のパネルが閉まっているか確認する。武装担当の2人は赤外線追尾式ミサイルの感知部からカバーを取り外す。
三雲も計器の点検を続ける。両舷のエンジンが始動し、APG63レーダーのウォーミングアップが終了する頃には約3分半が経過していた。コクピット内のセットアップが全て完了し、三雲は涙滴型風防を閉じた。
機首の右側に出た安土が親指を上げる。機体と兵装の準備が整ったのだ。三雲は左右の拳から親指を突き出し、外側に向かって開く動作をした。車輪止めが外され、再び顔をあげた安土が敬礼を送って来る。
スロットルレバーを前進させる。左手をヘルメットのひさしに当て、答礼した。〈イーグル〉は航空燃料の燃える臭いを周囲にまき散らしながら、ゆっくりと格納庫を出て行った。戦闘機パイロットであることに喜びを感じる瞬間だった。空気を切り裂き、滑走路を疾走する時。光るディスプレイに囲まれて、全てを知り尽くしたコクピットに座り、ハーネスを付けている時。今は周囲の金属が力に満ちて突進する4万ポンドの馬力で震えている。
三雲は外界と眼の前に据え付けられたガラス板―ヘッド・アップ・ディスプレイを交互にすばやく見比べた。
2機の〈イーグル〉が長さ3600メートルの滑走路に入りかけていた。2本の滑走路を占有する千歳基地は基地の面積も最大を誇る。地上から約6メートルの高さにある狭いコクピットで、エンジンを安定させる。左側が離陸方向になる。三雲のヘルメットに無線を通じて耳に馴染んだ声が聞こえて来た。
『頑張れよ、ミッツ』
《ミッツ》は三雲の固有識別符号だった。三雲は斜め後ろにある第201飛行隊の指揮所を振り返った。1階に照明が灯っている。ガラス張りのオペレーションの中で手を振っているシルエットが見えた。飛行班長の堀井修二・三等空佐。
三雲は無線機のスイッチを2度鳴らす。正式な通信方法ではないが、世界中の戦闘機パイロットが使用しているジッパーコマンドと呼ばれる応答法である。
編隊長機の篠崎が緊迫した声で管制塔を呼んでいる。
「千歳管制塔、こちらジェリコ0・1、緊急発進を許可されたし―」
ジェリコ0・1が今夜限りで、編隊長機に付与されたコールサインだった。三雲はジェリコ0・2である。2機編隊で飛ぶ場合、編隊長機のコールサインがそのまま編隊のコールサインにもなる。
『準備完了か?』
「さっさとやってくれ」
『ジェリコ0・1、緊急発進。方位330度、高度3万フィート、最大速力、離陸後、〈クイックサンド〉と周波数〈R〉で交信せよ(コンタクト・クイックサンド・チャネル・ロメオ)』
管制塔が「以上」と告げ、篠崎がジッパーコマンドで応じる。
篠崎機は滑走路に乗り入れ、左に機首を振り向ける。アフターバーナーを点火し、コンバット・ローリング・テイクオフに入る。青く光る滑走路灯が浮かび上がる中、篠崎機はまばゆいアフターバーナーの炎を曳きながら闇に吸い込まれていく。滑走路の中央付近でふわりと浮き、そのまま脚をたたんで加速する。直後、ほとんど垂直に上昇を開始した。
アフターバーナーの光に幻惑されるのを避けるため、三雲は前方から視線をそらした。透明な風防に計器板のわずかな光が反射し、大きく歪んでいる。計器をもう一度確認してから、三雲は前方に視線を戻す。
三雲は滑走路に機体を出す。機首が滑走路のセンターラインに乗ると同時に、スロットルレバーを一杯に前進させる。アフターバーナーに点火する。
2基のF100ターボファンエンジンを炸裂させ、〈イーグル〉は急上昇した。薄い空気を吸い込み、航空燃料と外気を混ぜ合わせ、その混合物を爆発させて後方に噴出する。大地が遠ざかる。千歳基地の管制塔を瞬時に追い越して、高速で飛ぶ〈イーグル〉の下を滑走路が流れて行った。
垂直に上昇して数秒後、高度5000フィートを通過した。
前方に無限の暗黒が広がる。三雲は操縦桿を引いた。〈イーグル〉の機首が浮かび上がる。離陸直後に機首、胴体に取り付けられた3本の脚を引き上げる。機速が320ノットを超える。さらに操縦桿を引いた。上昇角度を60度に保ったまま、2基のエンジン排気口からアフターバーナーの炎を閃かせる。
〈イーグル〉は漆黒の中を突き進んだ。