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2月16日。
自然と呻き声が漏れた。
眼の前に立ちふさがる巨大な積乱雲。雲の内側、下方に鈍い光が宿ったかと思うと次の瞬間、一気に上へ、左右へ広がっていった。ヘッド・アップ・ディスプレイは時おり緑一色染められる。レーダー波が雷雲に弾き返されているのだ。三雲は半ば無意識に操縦桿の左側についたボタンを何度も押し、レーダー探知距離を切り替えていた。
8マイル。
暗闇に緑色の数値が浮かび上がる。ヘッド・アップ・ディスプレイに積乱雲までの距離が表示されている。ヘッド・アップ・ディスプレイはパイロットに敵機の位置を示し、武器を誘導する道筋を示す。12センチ四方ほどの2枚の合わせガラスに映し出される緑色の文字だけで、戦闘機パイロットは外界の情報を全て読み取ることが求められる。
三雲の眼はその他の数値も素早く読み取っていた。篠崎と三雲のF-15、ジェリコ編隊は間隔を広げた緩い編隊飛行をしていた。時おり左前方を飛んでいる編隊長機のレーダーが機体を嘗める。気流が悪い。いくつもの雲が柱状に突っ立っている間を高度28000フィートで飛行している以上、緊密な編隊を組めば、空中衝突する恐れがある。三雲は編隊長機の右後方、500フィート程の距離を取っている。
『シン、ミッツ』
編隊長の篠崎が編隊内周波数で呼びかけて来た。F-15は極超短波帯(UHF)無線機を2台搭載している。チャンネル1は防空指揮所などとの交信用、チャンネル2は編隊内交信用の周波数にあらかじめ設定していた。編隊内と言っても飛行隊でモニタしており、秘話が可能というわけではない。
三雲はスロットルレバーの右脇についた無線機のスイッチに親指をかけ、後ろに2回下げる。スイッチの擦過音、ジッパーコマンドが篠崎への返答になる。
『眼の前の雲が見えるな?』
無線機の送信スイッチを後方に入れ、声を吹き込む。
「見える。かなりやばい」
『お前は右上。おれは左だ』
篠崎の意図はすぐに分かった。ほんのわずか前、防空指揮所から無線で入った報告を思い返していた。ヘルメットに仕込まれたイヤレシーバーから声が流れる。
《ジェリコ編隊へ、こちら〈クイックサンド〉》
篠崎がジッパーコマンドで応答する。
《不明機を捕捉。貴編隊からの方位27度、距離10マイル、不明機の高度25000フィート、針路195度、速度マッハ0・6》
送信スイッチを入れた篠崎がデータを復唱する。
《了解。ゼロ・ツー・セブン、十マイル、ツー・ファイブ、ワン・ナイナ・ファイブ、ポイント・シックス》
《なお、アンノウンの針路前方には巨大な積乱雲が発生している。急激な針路変更も予想されるので備えよ》
《了解》
《それが目標だ。視認せよ》
巨大な低気圧は大量の雷雲を含んでいる。千歳基地を離陸してから、洋上を北進するにつれて雲の量は増している。周囲ではそこかしこに稲光が閃いていた。閃光を内包する雲の姿は見た目も不気味だが、雷の直撃を受けた場合、機体に深刻な損傷を受けかねない。
三雲は乾いた唇をなめてから、送信スイッチを入れる。
「後続機は?」
5分待機組に就いていた三雲と篠崎の他に、千歳基地では30分待機組に就いているパイロットがいる。彼らは三雲と篠崎が発進すると同時に、30分から5分待機に繰り上げられる。
『無駄だ』
篠崎の返事は早かった。
『ここまで来るのに時間がかかる。奴らが何をしかけてくるかわからん。帰り道に悪さしないよう、お前がこちら側を塞いでおけ』
レーダーが捉えているのは1機だけ。機影でアンノウンが大型機だと分かる。アンノウンが高度を下げたらどう対処するのか。基地で事前に聞いた気象情報では雲底は1000フィートとなっていたが、さらに下がっていることも考えられる。アンノウンが何もせずに防空識別圏から遠ざかれば、防空指揮所は戦闘空中哨戒(CAP)か帰投を命じてくるだろう。
もう一度、ヘッド・アップ・ディスプレイにすばやく視線を走らせる。自機の位置、姿勢、速度などを確認する。編隊僚機として飛んでいる時は、常に編隊長機を目視している。編隊長機を見失って雲中に放り出されれば、最悪の場合、空間識失調に陥り、自機の姿勢が分からなくなる。頭上が空だと思い込んで操縦桿を引き、真っ逆さまに海に突っ込んでいったパイロットも少なくない。雲の下は風と雨が暴れまくり、海は沸き立っているだろう。
その時、眼の前に金色の壁が立ちふさがった。これまで眼にしたよりはるかに巨大な積乱雲に雷が走った。今は速度350ノット、時速650キロほどで高度28000フィートを水平飛行している。雲に突入するまで2分もかからない。
巨大な積乱雲に向かう自機のイメージを脳裏に描いた後、ヘッド・アップ・ディスプレイから自機の状況を読み取る。80。1・0。14500。エンジン出力は80%。機体にかかる重力加速度は1G。燃料の残量は14500ポンド。
三雲は左翼のやや前方に視線を向ける。編隊長機の右翼端、胴体後部の右側面に鈍く黄色に光る編隊灯を再確認する。
「了解」
『行くぞ』
篠崎のF-15が右主翼を跳ね上げて横転する。するりと三雲から離れて行った。間髪を入れず三雲は操縦桿を引いた。眼の前に迫った雲を避けるため、右に上昇して旋回に入る。それが篠崎を見た最後の姿になっている。