労働者
「聞いたよ、大丈夫かい」
ちょび髭の店主は俺の前に、ウィスキーの入ったグラスを置いて訊いた。俺はグラスを手に取り、大きなため息をつく。
「大丈夫も何も、無職さ」
店主は苦笑いを浮かべた。
「街に転がる石ころもありがたがる時代じゃな、炭鉱夫なんて真っ先にお役御免だよ」
持っていたグラスを呷る。
「今日はゆっくりしていくといいよ」
店主はそう言って、また酒を注いだ。
俺が琥珀色で満たされたグラスを眺めていると、店主は小さく声を上げて後ろの棚から新しいグラスを取り出した。
「久しぶりじゃないですか、何します?」
「僕もウィスキーをもらおうかな」
店に入ってきた老齢の男は、小さく会釈をして隣に座った。
「この人はね、偉いとこの所長だよ」
店主は酒を出しながら、俺に男の話を始めた。
どうやらこの恰幅のいい老ぼれは、鉱物不足改善を担っている実験に携わっているらしい。
ちょび髭は「そうだ」と呟き何かいい仕事はないか、老人に尋ねた。すると男は、思い出したようにつらつらと話し始めた。
「いや、治験体を探していてね。あと2、3名いればいいサンプルが取れそうなんだが」
太った男は、眉を上げて尋ねる。
「君もどうだい?」
呆れて店を出ようと立ち上がると、男は80と、こぼした。
「2日で80万だ」
数字で硬直した俺に、男はそう続けた。
いくら汗水を垂らしても、2日でそんな額貰ったことがない。酒もたらふく飲めるし、タバコだっていくらでも買える。しかし、そんな上手い話があるのだろうか。
古くなった脳を懸命に動かしていると、男は席を立った。
「もしやりたいなら、明日の9時に街外れの研究所へきてくれ。楽しみにしているよ」
久々に浴びる白い太陽は殺傷力の塊で、身体に無数の汗を走らせながら俺は研究所行きのバスに乗り込んだ。
バスは揺られては止まりを繰り返し、1人また1人の乗客が減っていった。車内の密度が低くなるにつれ、窓から見える景色は徐々に荒れ果てていく。
終点のアナウンスが聞こえ外に出ると、干からびた土地にはサボテンと不釣り合いにSFチックな建物があった。
真っ白な要塞に近づくと、薄いガラス扉がひとりでに開いた。中から出てくる空気は身震いをするほど冷たい。外見だけでなく内側も相当近未来的で、入ってすぐのところにある受付には見たことのない機械があり、左の方にある階段は今では珍しいエスカレーターという代物だった。
受付の女性と話していると、昨日の男が動く階段から降りてきた。
「時間通りだ。では早速、いこうじゃないか」
そう言ってエスカレーターに乗った男を見失わないように、白衣の後ろ姿を追う。
しばらく歩いていると、白衣の男は突然壁の前に止まった。訝しんでその背中を見ていると、急に壁が横にスライドした。老人は突如現れたスペースに平然と乗り込み、俺にも入るように促す。
言われるがまま乗り込むと壁が閉じると同時に、身体が浮くような感覚に襲われた。
隣に立っている男は一切驚いた様子を見せず、手を差し伸べている。
しわだらけの手を払い立ち上がると、次は重力に押し潰されそうになった。やはり、老齢の男は微動だにしない。
いつのまにか開いていた壁から、男は外へと出ていく。初めての経験に戸惑いつつも、白衣を必死に追った。
周りの風景は、上と変わらず白い。ただ違うのは廊下の広さと、壁に等間隔に設置されたドア。そして、その部屋を覗ける大きなガラス窓。
はめ殺しの窓の向こうには既に人がいる。
周囲を観察していると、尻餅をついた。
「大丈夫かい」
どうやら男にぶつかったようだ。俺は黙って尻をはたくと、彼が体を向けてる先に目をやった。
そこには見慣れたドアとガラス窓がある。
ドアノブに手をかけた男は、どうぞと誘う。言われるがまま入った部屋には、中央に簡素な椅子と赤いボタンのついている机が置いてあるだけだった。
「契約の説明をするので」
と彼は俺を椅子に座らせ、机に書類を1枚出した。
「まず、労働期間は2日、給与は80万で、」
額を確認しただけで、俺はすぐに紙にペンを走らせた。
男は嬉しそうに紙をしまい、代わりに液体の小さな瓶を置いた。
「飲んでください」
ガラスの容器を開けると、甘ったるい香りが鼻の奥に触れる。吐き出しそうになりながらも飲み込むと、白衣姿の男は「何かあればボタンを押してください」とだけ言い残して、部屋を後にした。
男が出ていった後は、壁にある溝を迷路のようになぞることしかやることがなかった。
くぼみに沿って部屋を半周した頃、突然、刺されたような痛みが腰を襲った。驚きのあまりその場に膝をついたが、痛みが顔を潜めることはない。それどころか、激痛は強さを増しながら出口を探している。
先程の男の言葉が再生され、藁にもすがる思いでボタンを押すと同時に痛みは爆発し、血と共に尿道から溢れでた。
肩で息をしながらその場にへたり込んでいると、手袋をした女たちが入ってきた。
彼女たちは俺に目もくれず、白い床に広がった血の海の中から小さな粒をいくつも拾い上げ、シャーレへ入れた。女たちは取り残しがないかを確認すると、机に先程の瓶を置いて部屋から去った。
血で滲んだズボンに目をやり、息を飲む。
俺はもう一度ボタンを押した。すると、今度は見慣れた老人が入ってきた。
落胆した表情を浮かべた男に辞めさせてくれと頭を下げると、彼は首を横に振って外に出た。
後を追うようにドアノブをいくら動かしても、扉はびくともしない。
まだ痛みが残っている身体に鞭を打って、俺は椅子に座った。
おぞましい瓶はまだ机に鎮座している。だが、別にこれを飲まなくても、時間が経てば金は手に入る。
ならここ座っていればいい話だと、たかを括っていると扉が開いた。
「飲まなきゃ、契約はなかったことになるぞ」
そう吐いた老人に今生最大の罵声を浴びせようとすると、「契約だ」と遮った。
眉をひそめている俺に、
「契約には1日10本飲むと書いてある」
と続けた。次々に浮かぶ不満を外に出そうとした瞬間、またもや男が先に口を開く。
「無理なら、報酬はなしだ」
男は強く扉を閉めた。男がさっきまでいた場所に向かって俺は遮られた分の言葉を思い切り投げつけた。
罵倒の種類が枯れた頃、俺はまたあの忌まわしい瓶と向き合った。いくら眺めても中身は減らないし、どれだけ経っても身体は痛みを記憶している。頭を抱え唸っていると、脳内にひと筋の稲妻が走った。
瓶を一気に呷る。
するとあの恐ろしい痛みが腰に突き刺さった。内部を襲う猛獣の攻撃を堪え、ボタンを押す。
またドアノブが動き、女たちが入ってくる。彼女らは床で悶える俺を静かに見ている。
痛みがピークに達し、雄叫びを上げるとまた血だまりが出来上がった。
女たちはこれ以上出ないことを確認して、機械的に粒を拾い上げている。
粒拾いに夢中になってる馬鹿どもをよそに、俺は開いたままの扉から外へと飛び出した。後ろから聞こえる声は遠のいていく。
どこに向かっているのかもわからないまま、走っていると野太い声と騒がしい足音が迫ってきた。
身体は既に根を上げているが、ここで止まるわけにはいかない。必死に床を蹴った。
長い廊下を走り続けてようやく、解放の印が見えた。
俺は勢いよく扉を蹴破り外へ….。
そこに広がっていたのは、逃げ回っていた廊下と同じ風景だった。
立ち尽くしていると、強引に地面に寝かしつけられた。
「連れて行け」
痛みが意識を奪っていく中で、老齢の男の声がした。
目を覚ますと俺は四肢の自由を奪われたまま、椅子に拘束されていた。それに鼻に違和感がある。
もう一度外へ出ようと、もがいていると忌々しいあの声が聞こえた。
「残念だが、契約なのでね」
鼻の管から何かが、身体に入り込む。
とめどない叫びが部屋中に反響した。