第一章 谷<地獄>を下る
第一章 谷を下る
2029年、5月25日、谷口賢二は白い壁が奥まで連なる、長く退屈な廊下を歩いていた。別にいつもこんなことを考えているわけではない。いつもなら『ブレインフレーム』に対する論文を読みながらこの廊下を歩くため、こんな廊下に一ミリの興味を持ったことはなかった。
ブレインフレーム、人間の脳を摘出し、それに脳を搭載し、新たな人類として進むための世界主導のプロジェクト。その計画が始まり今日で4年がたった。
世界中の多くの人間が機械の体に乗り換えたが、その大本であるCBR社の研究員の大半はブレインフレームに乗り換えていない。
別に、危険性はないという研究データも出ているし、多くの場合、乗り換えることに好感を持っているだろう。
しかし、CBRの研究者ももちろん暇ではないし、ブレインフレームに慣れるまでの二週間を無駄にしたくないという思いがあるのだろう。私ももちろん乗り換えてはいない。谷口はそんなことを考えてながら目的の場所に向かう。
しかし、今日に限って上から膨大に降ってくる資料とレポートの山がないと言うのは珍しいことだ。ブレインフレームの誕生日と言うことで上層部も浮かれているのかもしれない。谷口はユーモアの少ない脳みそで嫌味な上層部が人工皮膚の体を寄せ合い、酒を酌み交わしている図を想像しようとするが、その断片くらいしか見えず、別に面白くもなかったのですぐにその反吐の出る想像を中断した。
目的の部屋、研究室2025の扉に着く。谷口は壁と同じ、それ以上に不愛想な扉の前に立ち、横にあるタッチパネルに自分の首から垂れるカードキーを当てる。
エレベーターが自分のいる階に付いたときの、跳ねるような滑稽な機械音と共に目の前の扉が蛍光色に光り、静かに扉が開く。
それと同時だった。広い研究室を響いたのは扉の音と対照的な、聞いたことも無い音量でなる破裂音と、女性の不快な甲高い叫び声。
谷口はその聞いたことのない音が発砲音だと気付くのに数秒かかった。昔、新宿の劇場で見た洋画のワンシーンで鳴り響いたものより三倍は大きい発砲音に気圧され、硬直してしまう。
こういうときの谷口はとても想像力が高い。ここで硬直をしたままでは次の標的は自分だと容易く想像できた。
咄嗟に近くにあった研究室長の机に隠れ、その机の下から奥で起こっている凄惨な事件を垣間見る。
この机の主が白衣を真っ赤に染め、倒れている。それを揺さぶって起こそうとしているのは谷口の後輩のロングヘアの女性。室長の安否を危惧しているのだろう。しかし、その顔はその勇敢な行動とは裏腹の、恐怖をあらわにしている。狼狽する彼女の視線の先には白い壁とは対照的な黒く、重々しい、鉄の塊。
谷口は光が引き寄せられるように凝視した銃から視線をずらし、グリップに掛かる手から肩へ首へとさかのぼり、その殺人者の顔を拝む。その顔は谷口が見知った顔だった。先ほど想像したCBRの幹部の一人だ。名前までは憶えていないが、良く廊下ですれ違っていた。
幹部は数枚の資料を銃とは逆の手に抱えている。彼はその資料をじっと見つめ、
「ここの旧型はそこで野垂れ死んでいる奴とお前、あと一人だな」
と、後輩に、銃口を先ほどよりも近づけながら教師が出席を取るように質問する。口調から相手を見下している、そのような上下関係を感じたため、谷口は教師という直喩を脳内でしたのだろう。
谷口は出欠できていないあと一人が自分であることが想像できた。この研究室のメンバーは彼らをのぞいたらあと一人だからだ。呼吸が荒くなる。心拍数も上がる。今は何かを考え続けることでしか冷静さを保てなかった。
谷口は無理やり幹部が放った言葉を脳内で数十回繰り返し思い出す。ある違和感が脳のどこかに引っかかった。銃声の主の放った『旧型』という言葉。
『旧型』、ブレインフレームに乗り換えていない人の蔑称だ。CBR社ではその言葉を使うことは禁止とされている。その言葉を、まさか幹部が使うとは谷口には想像できなかった。
そして彼はこうも続けた
「お前たち『旧型』は見ているだけで吐き気がする。人工皮にすら蕁麻疹が出るほどの不快感。なぜ、お前ら『旧型』はこんなにも不愉快極まりないのだ」
明らかに彼の発言は逸脱していた、街角で言えば通報されること間違いなしの狂った発言だ。
谷口は、幹部がまだ人間としての肉体を持つ人間を少し嫌っていたことを噂などで知っていた。それは会社の売り上げが彼らのせいで上がらない。そう思っての嫌悪であると谷口は勝手に思いこんでいた。
しかし、幹部のしている行動、先ほどの発言からその考えが間違いであったことに気付いた。あえて自分の会社で働く研究員を殺す必要もない。殺してしまえば収入もない。
つまり、これはブレインフレームの副産物なのだ。どんな理由かは分からないが、時間が経つほど人間への憎悪が高まる、そのような欠陥がブレインフレームにはあったのだ。
その結論に至った谷口は迅速に次の行動に移る。幸運なことに隠れたのは研究室長の机だ。心臓と同じ感覚で震える手を無理やり制御し、幹部に気付かれないよう、音を立てずに机の抽斗を開ける。そこには多くの資料がファィルに閉じられ入っていた。谷口は膨大な研究データを速読する。何年もブレインフレームの研究データに触れてきたことで今必要な情報が何なのか、瞬時に選別することが可能だった。紙ずれの音すら起こさぬように資料をめくる。
無味乾燥な二回の発砲音が鳴る。床に重いが生々しく、柔らかいものが倒れた振動が、谷口の腰を下ろした部分にも伝わる。しかし、谷口はそんなことも気に留めずただ資料を読み続ける。
資料の選別を終え、数十枚の資料と机の上にあった室長のノートPCを抱え、その部屋を後にする。PCはまだシャットダウンしたばかりなのだろう、少し温かい。
部屋から出るときだった。静かな開閉が売りの扉の滑る音に幹部は気付いてしまった。まだ人工感が残る面貌を扉の方に向ける。自然とは言えない動きでゆっくりと口角がと眉が下がり、不快感を露わにする。まるで毒虫が一匹増えてしまったように。
谷口はその人工皮の作り出す表情に人間以上の殺意を感じた。殺意の視線から逃れるように研究室から飛び出る。その直後の発砲。
殺意をなぞるように弾丸は飛び、谷口の肩を貫通するはずだった。
しかし、目の前の白い扉は谷口を守るように静かに閉まる。部屋の内部で硬質な音を数回立ったのを谷口は聞いた。
すぐにあの幹部は追ってくるだろう。谷口はエレベーターに向かおうとしたが、逃亡者を隔離するならエレベーターの前に見張りを配置するだろうと思い、東に向かうことをやめ逆の方に向かい、非常階段を目指す。多くの研究員の死体が転がっていた、しかし彼はその一人一人を弔う余裕などなかった。彼らは谷口にとって路傍の石でしかなかった。飛び越えられる者もいれば、踏みつけられる者もいた。
少し進んだとき少し先から誰かの話し声と足音が聞こえた。谷口は下に転がる重なった死体の中に潜り込み、石を演じる。まだ生暖かく、しっかりと人の重みを残していた。ただ正面から来た二人組が通り過ぎるのを待つ。垂れてきた赤黒い血は谷口の顔を撫でるように滴る。それは彼にとっては好都合だった。赤くなればさらに違和感なく石を演じきれる。
しかし、谷口には少しの危惧があった。人間の目の役割をするブレインフレームのカメラの新型カスタムパーツにはサーモグラフィー機能が搭載されている。それを使用されれば、路傍の石が毒虫の生き残りということが彼らにはすぐにわかってしまうだろう。
上から垂れる血の雫の数をカウントし、馬が走るように素早くなった鼓動をその雫のテンポに合わせていく。これで体温が少しでも下がることを期待した。
その二人組はいつの間にか通り過ぎていた。谷口はその数十秒が、描写枚数を増やしたアニメーションのように長く引き伸ばされたように感じた。自分の上に乗る、先ほどより少し冷たくなった死体を捨てるようにどかし、また歩き出す。
非常階段につながる扉の前には誰も立っていなかった。白い手術室で血を見ながら執刀を続ける医師が、残像を消すために緑の布を見るように、谷口も非常扉の緑のライトを見て、今まで見てきた死体の残像を取り除いた。大きく深呼吸する間もなく緑色に照らされた扉を静かに開ける。
二〇階から見る景色は圧巻で、上を見ると驚くほどの星々が空気を読まずに輝いている。
しかし、下を俯瞰すると、上に浮かぶ夜空が少し前に夕日を置き忘れて行ってしまったように赤く光っているところが点々とあった。遠くから叫び声も聞こえる。
その光景を見た谷口は今日こそが、古い映画で見たような新人類が旧人類と袂を分かつX-dayだったことにようやく気がついた。
赤黒く染まった白衣に似合わない黒いブーツで、高い金属音を規則的に鳴らしながら下へと降りていく。谷口は多くの死体が転がる地獄はもう上で見てきた。それなのに、彼は段を降りるごとに地獄の底に向かっているような気持ちに襲われた。
階段を降りたところで私達、旧人類が助かる術などどこにあるのだろうか。谷口のなかで絶望感はぬぐえないほど膨らみ続ける。
しかし、手に持った資料と未来を示すかのように温かいPCに一縷の望みを託し、彼は地獄へと足を踏み入れた。