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正解と信じていた、不正解。



 -------洋樹と口論になってから1週間が経った。


 この間、洋樹は私のアパートに1度も来ていない。


 洋樹が浮気をしてから、罪悪感からか、ケンカになってもいつも洋樹が折れてくれていた。


 こんなにケンカが長引いた事はなかった。


 パソコン越しにいつも通りに働く洋樹を見ながら、ふと『私たちは、このまま終わっていくのだろうか』と考える。


 それで良いのだろうか。


 洋樹を許せないのに別れないのは、いつか洋樹を許せる自分になれると願っていたから。洋樹を信じることが出来ていた自分に、きっと戻れると信じていたから。


 いつか、きっと。


『いつか』って、いつなんだろう。


 洋樹も私も、許されようと、許そうと努力をしているのに。


『きっと』という言葉は希望でしかなく、確約されている事柄など1つもない。


「はぁ」溜息を一つ吐き、視線をパソコンに戻すと、メール受信通知が来ていることに気付いた。


 送信者は、洋樹。


 マウスを動かし、メールを開く。


【今日、家に行ってもいい?】


 洋樹は私と、仲直りしたいと思っているのだろうか。それとも、別れ話をするつもりなのだろうか。


【いいよ】


 短い返事を返す。


 洋樹のテンションが分からない為、『何か食べたいものある? 作るよ』的な文章を付け加えることが出来なかった。


 今日、私たちはどんな話をするのだろうか。


 

 本日も何事もなく退社時間になった。


「帰ろっか」


 洋樹が私のデスクに近づいて来た。


「うん」


 1週間ぶりに洋樹と一緒に帰ることに、ちょっとした緊張が走る。


 デスクの周りを片し、パソコンをシャットダウンすると、洋樹と一緒に事務所を出た。


 お久しぶりの2人きりに、何を話せば良いのか分からない。


 洋樹の隣で落ち着きなく歩いていると、


「ねぇ日花里。今日の夕飯はそうめんにしない? 俺が麺を茹でるから、日花里は実家の野菜で天ぷら揚げてよ」


 洋樹が、あのケンカがなかったかの様に、普通に話しかけてきた。


「いいけど、家にそうめんないからスーパー寄ってもいい?」


「うん。デザートのアイスも買って帰ろうぜ」


 洋樹が私の手を握った。


 戸惑いながら洋樹の手を握り返すと、洋樹がきゅうっと握る手を少し強めた。


 洋樹の顔を見上げると、洋樹の頬は少し強張っていて、普段通りを装っているだけで、やっぱり無理をしているんだと分かった。


 アパートの近くのスーパーで、そうめんとアイスを買って帰宅。


 2人でキッチンに立ち、並んで夕食を作る。


 出来上がったものをテーブルに運び、一緒に食べる。


 1週間ぶりの2人での夕食。1週間前と変わらない2人の夕食。


 あのケンカのことは、触れない方が良いのだろうか。このまま流したところで、落としどころには何も落とせていない。結論が出ないまま、私は課長に料理を届け続け、洋樹に嫌な思いをさせるのだろうか。それとも、課長に料理を作るのを辞め、私が我慢をすれば良いのだろうか。


 いつも通りの食卓の不自然さに眉を顰めながらもそうめんを完食し、アイスもしっかり食べた。


 食器を方し、ソファーに凭れながらテレビを見ていた洋樹にお茶を持って行く。


「ありがとう」


 洋樹は私からお茶を受け取ると、テーブルの上に置いてあったリモコンに手を伸ばし、何故かテレビを消した。


 テレビを見ながらお茶でも飲んでまったりしようと思っていたが、やっぱり今日はいつも通りに見せかけた、いつも通りではない日なんだと察し、だからと言って何の日なのかも分からないので、とりあえず洋樹の隣に腰を掛けた。


「日花里。今度の土日、一緒に実家に行こう」


 お茶を一口飲んだ洋樹が、思いもよらぬことを口にした。

 

「え?」


 予想だにしていなかった洋樹のお誘いに、驚き固まる。


 3年付き合っているけれど、私は1度も洋樹の実家に連れて行ってもらったことがない。洋樹が結婚を望んでいないのを知っていたから、自分から『行きたい』とも言ったことがなかった。


「親に紹介したいんだ。日花里のこと」


「……どうしたの? 急に」


 視線が泳ぐ。ドクドクと音が聞こえそうな程に脈が動く。 


 これはきっと、あの頃私が待ち望んでいた展開なのだろう。


「転勤が決まった。日花里に一緒に来て欲しい。結婚しよう、日花里」


 洋樹が、私の手の上に自分の掌を重ねた。


「……」


「……日花里?」


 私の手を握っていたの洋樹の手が、私の顔に移動してきて、何度も頬を撫でる。


 私が、泣いてしまったからだ。


 喉の奥が熱い。


「……どうして」


 やっとの思いで発した言葉は、『はい』でも『いいえ』でもなく『どうして』だった。だって、


「……どうして今なの? ……あ、そうか。転勤が決まったからって言ってたよね。でも、だけど何で今……。洋樹、気付いてたよね? 私が洋樹と結婚したがってたこと。何であの時じゃなくて今なの?」

 

 今の私はもう、洋樹との結婚を願っていたあの頃の私ではない。


 彼氏からのプロポーズに困惑する自分が、悲しくて仕方がない。


「あの頃は、実際歳も若かったし、考え方もガキだったから、誰かの人生を背負う覚悟がなかった。だから、日花里の気持ちに気付かないフリしてた。後悔したよ。物凄く。あの時、プロポーズしておけば良かったって。そしたら日花里、こんな風に迷わなかっただろうなって。俺も自覚を持って、フラフラ浮気なんかしないで、日花里を傷つけることもなかったと思うし」


 洋樹が悲しそうに私の涙を拭う。


 プロポーズって、もっと楽しくて嬉しくて幸せなものだと思っていた。


 なのにどうして私たちは、こんなにもぐちゃぐちゃな顔をしながら苦しんでいるのだろう。


 昔誰かが、『結婚はタイミングだ』と言っていた。


 私は洋樹が大好きで、洋樹も私を好きでいてくれた。


 それなのに、どうして私たちのタイミングはズレてしまったのだろう。


 このプロポーズを断るということは、別れを意味している。


 洋樹が転勤になれば、もう会うこともないだろう。


 だけど……、


「……ごめん、洋樹。一緒に行けない」


 こんな気持ちで洋樹について行くことは出来ない。洋樹と結婚出来ない。


「どうしたら許してくれるの? 俺、あれからずっと日花里を大切にしてきたよ。日花里が嫌な思いをしない様に、危ない目に遭わない様に、大事に大事にしてきたつもりだよ。足りないなら言ってよ。何でもするよ。日花里の為なら何でも出来るよ、俺」


 洋樹が両手で私の肩を揺らした。


 洋樹の言う通り、大切にしてもらっていたと思う。


 重いものを持たせない様にしてくれたり、夜道を歩かせない様にしたり、過保護なまでに心配してくれた。


 足りないどころか、満ち足りていた。


「足りなくない。充分すぎるほど大事にしてもらった。だから辛いの。許せない自分が辛いの。洋樹の浮気くらい、笑い飛ばすことの出来ない自分が辛いの。洋樹の優しさが苦しいの」


「……それ、本当? 課長のことが好きだから、俺と結婚したくないんじゃなくて?」


 洋樹の手が、私の肩の上でピタっと止まった。


「……え?」


「課長のどこがそんなにいいの? 子どもを産めない奥さんを責めて自殺させた男の何がいいの⁉」


 突然課長を引き合いに出す洋樹。


「課長はそんな人じゃない」


「『そんな人じゃない』ならどんな人? 俺、本社の同期に聞いて確認したんだよ。課長の奥さんが不妊症だったことも事実。自殺したことも事実。日花里は、課長の奥さんが自殺したのは何でだと思う⁉」


 私の肩を掴む洋樹の手に力が入って、痛くて苦しい。でも、


「何でそんなこと言うの⁉ 最低だよ、洋樹‼」


 課長を悪く言う洋樹を許せず、言い返す。


「そうだよ‼ 浮気なんかした俺は最低だよ‼ でも、課長に気持ち傾けておいて俺を責める日花里だって最低だよ‼」


 吐き捨てる様に言うと、怒っているのか泣きそうなのか分からない表情をしながら、洋樹は勢いよくアパートを出て行った。


「……私も、最低……だよね」


 一人取り残された部屋で、蹲って泣く。


 洋樹とのズレを、亀裂を大きくしたのは、間違いなく私だ。

 

 洋樹は、私たちの関係を懸命に修復しようとしていた。だけど私は、傷付いた自分の心の回復さえままならなかった。


 傷付けられたから傷付けて、結局また傷付いて。


 私は何をしているのだろう。何がしたいのだろう。


 こんな時なのに、『課長の奥さんが不妊症だったことも、自殺したことも事実』という洋樹の言葉が耳から離れない。


 とても信じられない。


 信じようが信じまいが、嘘だろうが本当だろうが、今後の仕事に支障はない。


 課長のプライベートなこと。デリケートな問題。私に知る権利などない。


 それでも、真実を知りたい。


 上手くいかなかった恋愛に涙を流しながら、課長を気にする私は、やっぱり最低なんだと思う。



 そしてまた、洋樹は私のアパートに来なくなった。


 プロポーズを断ったあの日の会話が、別れ話だったのだと思う。


 今日、洋樹が来月他の支社に異動することが社内報で開示された。


 しかし、引き継ぎや引っ越しの手続きの為に、今月の半ばにはこの支店に来なくなるらしい。


 洋樹は、支店のみんなで計画した送別会の開催を『絶対泣くからやらなくていい』と断った。


『何故滝川を連れて行かないのか』など、探られるのが面倒なのだと思う。わざわざ『別れました』などと発表するのもおかしな話だし。


 私はと言うと、他の社員たちに『滝川さん、山下さんについて行かないってことは、そういう話にならなかったんだよね』と影で可哀想な人扱いされている。


 いちいち詮索されたくないので、噂はそのままに。


 誰も私たちの事情に触れないで。首を突っ込まないで。


 だってあれからずっと、心臓の辺りがヒリヒリするの。


 本日も定時に仕事を終え、帰宅。


 洋樹と一緒に帰る事は、もうない。当然1人だ。


 乾いた喉を潤そうと冷蔵庫を開き、ミネラルウォーターに手を伸ばす。


 ミネラルウォーターのボトルの蓋を捻りながら、冷蔵庫の中身を眺める。


「…夕…食、何を食べよう」


 おいしいと言って食べてくれる洋樹は、もういない。


 自分の為に料理をするのは、何だか億劫だ。


「……課長」


 課長の為に料理を作ろうと思った。


 正確に言うと、料理を持って行くという口実で、課長と話をしたいと思った。課長に話を聞いて欲しいと思った。


 課長に聞きたい話があった。


 課長にとって、触れられたくない、首を突っ込んで欲しくない話かもしれない。


 だけど、知りたい欲求が私を動かす。


 冷蔵庫から、茄子とオクラと豚肉スライスを取出し、夏野菜の肉巻きを作る。


 野菜に豚肉を巻きつけて火を通すと、甘辛のタレに絡める。


 出来上がったものをいつものタッパーに詰め込み、トートバックの中に入れると、アパートを出た。


 チャリの籠にトートを押し込み、サドルに跨ると、会社へと走る。


 会社のビルに辿り着くと、会社の電気が点いているかの確認の為にビルを見上げる。


 明かりは点いていた。


 時刻は20:00ちょっと過ぎ。


 この時間まで残業をしている社員は少ない。


 いるとしたら、課長だ。


 チャリの籠からトートを引き抜き、会社へと急ぐ。


 早く、課長に会いたいと思った。


 エレベーターに乗り込み、会社のある階へ。


 セキュリティカードを翳し、会社のドアを開けると、


「あ、お疲れ様です。滝川さん」


 今や私が就業後に会社にやってくるという行為をすんなり受け入れている課長が、笑顔で近づいて来た。


「お疲れ様です。今日は、茄子とオクラの肉巻きです」


 そんな課長に、トートからタッパーを取出し、渡す。


「流石滝川さん。分かってますね、男の好物が。有り難く頂戴します」


 課長が嬉しそうにタッパーを受け取った。


 目じりを下げる課長につられて、私も笑みが零れる。


 課長に会うと、いつも心がほっこりする。


 だから私は、課長に会いたくなってしまうんだ。

 

 給湯室で2人分のコーヒーを淹れると、それを持って課長のデスクへ。


 コーヒーを飲みながら、いつもの談話モードに入る。


 コーヒーに息を吹きかけて冷ましながらマグカップに口を付けていると、


「込み入った事を聞いてしまいますが、滝川さんはどうして山下くんについて行かないのですか?」


 初っ端から課長が、結構な鋭角から話を振ってきた。


 思わず口の中のコーヒーをリバースしかけたのを、無理矢理喉に押し通す。


「……はい?」


 課長には、洋樹と付き合っていたことを話していなかった。話す必要もないと思っていたから。


「山下くんと付き合っているんでしょう? 2人、異常に仲が良いから普通に気付いていましたし、実は山下くん本人からも聞いていたんです。この前、『日花里に手料理作ってもらってるんですよね?』って詰め寄られていたりもします」


 困った顔をしながらも、あっけらかんと笑いながら話す課長。


「……え」


 知らなかった。洋樹が課長にそんな話をしてたなんて。


「自分の彼女が他の男に手料理を食べさせることに腹が立つのは理解出来るのですが、相手は一回り以上も年上のオジサンじゃないですか。山下くんが嫌がるなら、滝川さんの厚意をお断りしようと思ったんですけどね、それじゃあまるで、私が滝川さんを意識して恋愛感情を持っているみたいじゃないですか。滝川さんだって、独り身のオジサンの恐ろしい食生活を危惧してくれただけで、それ以上の感情なんかあるはずもないのに。まぁ、若い男の子に嫉妬の対象にされたことは、ちょっと嬉しかったですけどね」


 洋樹との会話を思い出して「ふふふ」と笑う課長。だけど、私は笑えない。今日は課長と笑い合えない。


「で、その時に『もうすぐ山下くんに異動の内示が出る』と伝えたんです。心配なら、覚悟があるなら、滝川さんを連れて行ったらどうですか? って。山下くん、言ってましたよ。『日花里を連れて行きたい』って。でも、『自分には覚悟がある。でも、日花里が同じとは限らない』と心配していました。山下くん、1度だけ浮気をしてしまったことがあるそうですね。やっぱり引っかかりますか? でも山下くん、滝川さんを本当に大切に思っていますよ」


 課長が、諭す様に私に話し掛ける。


 課長の話で、洋樹と私のケンカからプロポーズまでの空白の1週間が埋まった。


 洋樹が決意を固めた1週間。私は『どうやって仲直りしようか』などと学生の様に悩んでいた。


 情けなくて、申し訳なくて、胸がぎゅうっと締め付けられる。


 私だって洋樹を大切に思っていた。だけど……。


「……私が課長に料理を作るのは、課長の食生活を心配してだと思いますか? 本当にそう思いますか? 私が課長に料理を届ける目的は、課長と話がしたいからです。課長に会いたいからです。私は課長のことが好きなんです」


 勢い余って自分でも思いも寄らぬ言葉が口を吐き、言ってしまった後に口を手で押さえた。


 何でこんなことを言ってしまったのだろう。


 自分の気持ちに気付いていなかったと言ったら嘘になる。


 だけど、洋樹との別れに気落ちしているのも確かで、課長を好きなのならば、どうしてこんなに辛い思いをしているのか分からない。


 頭の中がごちゃごちゃだ。 


「滝川さんって、お父さんっ子だったでしょう。オジサン好きなのかな」


 課長が私の突拍子もない告白を笑い流した。


 脳内の整理もついていないままの告白だったけれど、そんな風に片づけないで。


 だって、好きな気持ちは本当だ。


「おばあちゃんっ子です。ファザコンじゃないです。笑わないでください。冗談話にしないでください。……迷惑でしたか? それならそう言ってください。私は真剣に言いました。そんな風に流さないで……」


 言いながら涙が出た。


 情緒不安定にヒステリックに泣く自分を、どうして良いのか分からない。


「滝川さんの気持ちは凄く嬉しいです。ありがとうございます。でも、滝川さんとお付き合いすることは出来ません」


 課長が笑うのをやめ、真剣に私の告白を断った。


 課長に振られ、涙の量が増す。いい大人が何てみっともない泣き方をしているのだろう。  


 自分でも驚くほどに、子どもみたいに鼻水を垂らしながら号泣。


 好きな人に好きになってもらえないことは、いくつになっても悲しい。


 なかなか泣き止めずに、何度も手の甲で顔を拭う私の傍に、課長がボックスティッシュを箱ごと置いた。2、3枚では足りないと判断したのだろう。


 箱からティッシュを豪快に何枚か抜き取り、ビショビショの顔に押し当てた。


 振られた自分。涙で化粧の落ちたボロボロの顔。


 思考回路に恥も遠慮もなくなり、脳みその大半をヤケクソが支配した。


「……私も込み入ったことを聞いていいですか?」


 ティッシュで顔を覆いながら、課長が話したがらないだろう事を聞き出そうとする。


 振られたのに。だから課長の過去に何があろうとも、私には関係ないのに。


 でも、どうしても気になる。


「……死んだ妻の話ですか?」


 私が『込み入ったこと』と言った時点で察しがついたのだろう。課長の表情に影が差した。


「……噂が立っていること、知ってたんですね。ずっと、引っかかってたんです。課長が自分のことを『優しくない』と言っていたことが。私は、そうは思わないから。課長といると、心が穏やかになりました。優しくて楽しい人だなって思いました。だから私は、課長を好きになりました。亡くなった奥様の話は、他人にベラベラ話たくはないと思います。だけど、課長に振られて馬鹿みたいに大泣きする私を、【可哀想な人間】と同情して話してもらえませんか? だって私、本当に好きなんですよ。課長のことが。せめて、納得して諦めたいんです。誰にも口外しません。約束します。だから……」


『聞かせてください』まで声が続かず、頭を垂れながらまた泣く。


 私は貪欲な人間だ。


 振られても尚、好きな人の事を知りたがる。


「事が事なので、噂になることは覚悟していました。実際、本社にいる時も暫くは社員たちの話題の的でしだし。私は優しくないけれど、美味しい手料理を届けてくれて、私を好きだと言ってくれた滝川さんのお願いを突っぱねることが出来るほど鬼にもなれません」


「……話してくれるんですか?」


 課長の言葉に顔を振り上げると、泣きそうにも見える苦しそうな表情をした課長と目が合った。


 課長が何かを話し出そうと「ふぅ」と小さく息を吐いた。


「『私が妻を死なせた』という噂は、事実です」


「……」


『嘘でしょう?』『そんなはずないでしょう』など、言いたい言葉はいっぱいあった。でも、それらを全て飲み込み、課長の次の言葉を待つ。


 課長の話の腰を折ったり邪魔をしたくなかったから。


「死んだ妻とは、大学で出会いました。同い年で学部も学科も一緒。すぐに仲良くなって、付き合うようになりました。大学を卒業しても順調に交際を続けて、社会人になって3年が経った頃に結婚しました。結婚までの付き合いも長かったですし、お互いに子ども好きだったこともあり、新婚生活を楽しみたいというよりは、早く子どもが欲しいと2人共が願っていました。でも、なかなか授かることが出来ませんでした。結婚して5年が過ぎた頃、彼女から『病院に行こう』と提案されました。2人で検査を受けて分かったのは、【彼女が妊娠しにくい身体】ということでした。彼女は、それでも私の子どもを産みたいと不妊治療を頑張ってくれました。治療は実を結ばないまま、さらに5年が過ぎました。……辛かった。治療が上手く行かずに苛立ち悲しむ彼女を、自分のせいだと自分を責める彼女を見るのが。私たちより後に結婚した同僚に子どもが出来ると、『おめでとう』という気持ちは確かにあるのに、焦り羨んでしまう自分のことも嫌になりました」


 課長が自分の膝の上で拳をぎゅうっと握った。


 無理矢理そんな話をさせている私に、苦しそうに言葉を発する課長の手を撫でることは出来ない。


 私もまた、自分のスカートを握りしめた。


「私には、【我が子を真ん中にして、奥さんと3人で手を繋いで歩く】という夢がありました。結婚したら叶うものだと思っていました。大そうな夢ではない。ささやかな希望だと思っていました。諦めきれなかったんです。結婚して10年。彼女も私も35歳。『今なら間に合うのではないか』と当時の私は思ってしまったんです。彼女にプレッシャーをかけたことはなかったと思います。しかし、彼女は私が子どもを欲している事を知っていた。だから、私が何も言わずとも、私との生活に何らかの圧力を感じているのではないかと思いました。世の中には子ども嫌いの人もいる。子どもを欲さず2人だけの生活をしたい夫婦だっている。お互いに別のパートナーを探した方が良いのではないかと考える様になりました。その方が、彼女もプレッシャーから解放されて幸せになれるのではないか。自分の夢も叶えられるのではないかと……。本当に馬鹿野郎でした。私からそんなことを言われれば、子どもが出来辛い彼女は『嫌だ』と叫ぶことも出来ない。お互いに別々の道を歩むことが最善策だと思い込んでいたあの時の私は、そのことに気付きもしませんでした。離婚話が纏まって、彼女に離婚届を渡したその日、彼女は自ら命を絶ちました。離婚届には署名はなく、その欄には『ごめんなさい。貴方の妻のまま逝かせてください』と書かれていました」


 課長の声が震えていた。


 自分が納得したいが為に、好きな人に辛い過去を思い出させて苦しめている私の方こそが、本当の馬鹿野郎なんだと思う。


「『子どもはいなくてもいい。2人で楽しく暮らせばいい』『どうしても子どもが欲しければ、養子を貰っても良い』という発想にならなかった私は悪魔でしかない。優しいわけがない。そもそも、人ひとり幸せに出来ずに殺してしまう私に、子どもを育てることなど出来るはずがない。だから、子どもが出来なくて良かったんだと思います。私はきっと、子どもまでも不幸にしていたと思います」


 手までも震えだした課長が、後悔に落涙した。


「彼女は最後まで私の妻でいたいと願っていました。それほどに愛されていたのに私は……」


 肩で呼吸をしながら嗚咽する課長。


 大人の男の人がここまで泣く姿を見たのは、初めてだ。


「殺したんじゃない‼ 課長が殺したわけじゃない‼ 課長だって奥さんを愛していたでしょう⁉ 大切に思っていたんでしょう⁉ 奥さんに幸せになって欲しいと願って離婚を切り出したんでしょう⁉」


 自責の念に駆られる課長を救いたいと思った。でも、何を言えば良いのか分からない。打ち消しの言葉を並べるのが精いっぱいだった。


「確かに直接手を下したわけではありません。彼女に死んで欲しいとも、彼女を殺してやろうと考えた事も1度だってありません。悪気がなければ何をしても良いのですか⁉ 彼女が死んだのは、私が離婚を切り出したことが原因です。悪意の無さは言い訳にならない‼」


 課長の涙が幾粒も床に垂れ落ちて広がった。


「離婚話をせずに結婚生活を続けて、課長は奥さんを幸せに出来ましたか⁉ 課長自身は幸せになれていたと思いますか⁉ 奥さんの苦悩は計り知れません。でも、苦しんでいたのは奥さんだけじゃないでしょう⁉ 課長だって同じくらいに悩み苦しんでいたでしょう⁉ 課長は奥さんをずっと愛していたかったんじゃないですか? 子どもが出来ない奥さんを疎んでしまう日が来ることが怖かったから、離婚したかったんじゃないんですか? 離婚話をしなければ、奥さんが命を落とすこともなかったかもしれません。今も結婚生活が続いていたかもしれません。その中で、課長の考え方も変わって子どもを欲することもなくなったかもしれません。でも、変わらなかったかもしれません。変わらなかったら、課長はずっと自分の気持ちに嘘吐いて蓋をして日々を過ごしていたでしょうね。奥さんも、そんな課長を見ながら毎日を送っていたでしょうね。 それって、幸せって言うのでしょうか?」


 私の目から、さっきとは違う涙が伝う。


 振られて悲しい涙ではなく、課長の話に納得できずに悔しくて苦しくて、涙が出る。


「昔のドラマのセリフみたいなことを言うんですね」


 課長は「フッ」と小さく息を吐いた。


「『自分の気持ちに嘘が吐けなかった』『自分の気持ちに素直に正直に生きるべき』。そんなのただの甘えです。我儘です。自分の気持ちになんか嘘吐けば良いんです。そうでなければ人が死んでしまう。大切な人が死んでしまうんです‼」


 課長が拳を振り上げて、自分の太腿を叩きつけた。


 やりきれない思いが溢れ出ているのが見て取れた。


「滝川さん。知っていましたか? 山下くん、今月最終日にも顔を出すと言っていましたが、実質今日がこの支店で仕事をする最終日だったんです。明日、10時の飛行機で向こうへ行くそうです。滝川さんはまだ間に合いますよ。自分を大切に思ってくれている人の手を離しても良いんですか?」


 課長が私の肩を掴んで揺らす。


「……それは、自分の気持ちに嘘を吐け……ということですか?」


「山下くんを大切に思っていた気持ちを思い出してくださいということです。滝沢さんには後悔して欲しくないということです」


 真剣な眼差しで私を諭す課長。


「……明日、有給にしてください」


「分かりました。申請は後日で大丈夫ですから」


 課長がやっと笑顔を見せてくれた。


 課長の言葉に背中を押され、洋樹に会いに行かなければと思った。


 洋樹に会いたいと思った。

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