納得していて、していない日常。
高校を卒業し、大学進学を機に実家を離れて、隣の県の地方都市に移り住んだ。
就職も、地元へは戻らずに大学がある県、なんなら通っていた大学と同じ市内でした。
東京に本社がある某飲料企業の支店に一般職として入社し、今年で4年目。
入社して半年くらい経った頃、他の支店から異動してきた洋樹と付き合って、もうすぐ3年になる。
3年間の間に、洋樹には浮気をされた。
相手は、私の2年後に入社してきた曽根さんだった。
悔しくて、悲しくて。
別れようかとも思ったけれど、洋樹は必至に謝ってくれたし、私と別れて洋樹が曽根さんと付き合う事になるのも腹立たしいと思い、別れない方を選んだ。
浮気をした洋樹の事は、憎いし許せない。
だけど、浮気されたからと言って、一瞬にしてそれまで洋樹を好きだった気持ちが無くなるわけではなく、裏切られたのに何だかんだ私は洋樹のことが好きだったんだ。
今はもう、ラブラブという程ではないが、普通に仲良くやっていると思う。
CMを見て、1週間くらい前から『観たいね』と洋樹と言っていた映画デート終え、私のアパートでまったりしていた日曜日。
洋樹の隣で、実家から母が送ってくれたはっさくをの皮をせっせと剥いていると、
「そういえば、明日だな。課長の後任が異動してくるの」
洋樹が「いいよなー、日花里は。実家が色々送ってくれてー」と言いながら、私がまだ1口も食べていない、私が剥いたはっさくの果肉を口の中に放り込んだ。
私の実家はド田舎にあり、家の敷地内には畑がある為、実家を出るまでスーパーで季節物以外の野菜を買ったことがなかった。
親戚が田んぼを持っていたので米を買ったこともない。
もっと言えば、従妹の家が果樹園だから、果物だって『買って食べるもの』という感覚がなかった。
まぁ、今でも母が頻繁に野菜や果物を送ってくれる為、ほぼ買わないのだけれども。
「本社から異動してくるんだっけ?」
洋樹から「自分で食べる分は自分で剥いてよ」と、はっさくを遠ざける。
「そうそう。なーんか、良からぬ噂を耳にしたんだよねー」
洋樹「『俺が剥くの下手くそなこと、知ってるだろうが」遠くに置かれたはっさくに手を伸ばした。
「どんな?」
渋々「しょうがないなぁ」と剥いたはっさくを洋樹の傍においてやると、「日花里ちゃん、だーい好き」と洋樹が私に抱き着いた。
「不妊症の妻を追い詰めて自殺に追い込んだらしいよ」
「……え」
前任の課長は、親しみやすいタイプではなかったが、可もなく不可もなく。仕事がやりにくいと感じたこともなく、全く害のない普通に良い人だった。
過る嫌な予感。
明日、とんでもない鬼の様な人間が赴任してきたらどうしよう。
-------翌日。
昨日私の部屋にお泊りした洋樹と一緒に出社。
それぞれのデスクに着き、周りの社員に挨拶をしながらパソコンを立ち上げていると、
「朝会始めまーす」
主任の声がして、パソコンから手を離した。
そんな私の横を、知らない男の人が通り過ぎ、1番前まで行くと私たちと向かい合った。
おそらくあの人が、昨日洋樹が言っていた噂の課長だ。
主任がその人に「一言お願いします」と頭を下げると、
「今日からお世話になります、須藤です。宜しくお願い致します」
須藤という名の課長は、丁寧に腰を折り曲げた。
人を死に追い込む様な、そんな人間にはとても見えない。
洋樹の話、デマなんじゃなかろうか。
何事もなく普段通りに朝会を終え、仕事に取り掛かる。
淡々と仕事をこなしていると、課長印が必要な書類が出てきた。
チラっと課長席に目をやると、課長が眉間に皺寄せながらパソコン画面を見つめていた。
何か困ったことでも起きたのだろうか。忙しいのだろうか。
私の書類は急ぎではない。後回しで全然構わないが、そのまま放置して忘れてしまいそうな気がした為、とりあえず課長に手渡しておこうと課長の席に向かった。
「課長。お忙しい時に申し訳ありません。お手隙の時に印鑑をお願いします」
課長のデスクに書類を置くと、
「今押せますよ。ココに押せば良いですか? 他に押すところはないですか?」
課長はデスクの引き出しから判子を取出し、朱肉に着けながら私を見上げた。
自分よりだいぶ年上の男の人が、敬語で上目使い。
この支店での仕事が初めてだから敬語なのかもしれないが、多分この人はそういうタイプではない。
課長はきっと、上司も部下も関係なく、言葉遣いが丁寧で物腰が柔らかい人なのだと思う。
洋樹の話、デマ確定。
こんな上目使いの課長に、人を死に陥めるどころか、虫1匹殺せないと思う。
年上の男の人に上目使いをされたことがない為、違和感がありすぎて笑いが込み上げてきてしまう。
「印鑑はここに1つ押して頂ければ大丈夫です」
課長の席にティッシュボックスが置かれていない事に気付き、ポケットに入れてあった、前に街頭でもらったポケットティッシュを「朱肉、拭いてください」と、笑いを堪えながら課長に差し出す。
「どうもありがとうございます。滝川さんは細やかな心配りの出来る方ですね」
課長はにっこり微笑むと、ポケットティッシュを1枚引き抜き、判子の先についた朱肉を拭き取った。
……『滝川さんは』って。
「私の名前、もう覚えてくださったんですか?」
ウチの会社は、セキュリティカードがネームカードの役割をしている。が、しかし、社員全員が【会社のドアを開ける為のカード】という認識でしかない為、カードはいつも鞄の中かデスクの上に放置されている。誰一人として首から下げている者はいない。
「赴任が決まった時に、こちらの皆さんの顔と名前は覚えてきました。だから、皆さんのことはバッチリなんですけど……」
課長が困り顔でさっきまで見ていたパソコン画面を見つめた。
「どうかされましたか?」
課長の後ろに回り、自分も課長のパソコンを覗く。
画面には県内の地図が表示されていた。
「これからお得意様に後任の挨拶をしに行こうと思っているのですが……車にナビが付いているから迷いはしないないとは思うのですが、土地勘が無いので道の混雑状況が分からなくて……。効率良く回るにはどの順番で会社訪問した方が良いのかなと……。滝川さん、道詳しいですか?」
クルっと身体を捻り、また私を上目使いで見上げる課長。
そんな、いい年をしたおじさんの仕草が可愛く見えてしまう自分に動揺。
「道、詳しいってほどでもないので……。山下さん、ちょっといいですか?」
何故か課長にきゅんきゅんしてしまった胸を押さえながら、少し離れたデスクにいる洋樹を呼んだ。
事務所で事務仕事をしている私より、外回りの多い営業職の洋樹の方が道に詳しいはずだ。
「ちょっと待ってー。メール1コだけ打たせてー。この前営業に行った会社がさ、34セレのベンダー1台置いてくれそうでさー。内容案送りたいからー」
パソコンの脇から顔を出し、「すぐ行くからー」と返事をする洋樹。
「すみません、山下くん。私の用事はたいしたことないので、構わず仕事を続けてください」
課長は洋樹に申し訳なさそうな顔を向けると、「滝川さんもすみませんでしたね。仕事の手を止めてしまって」と私にデスクに戻る様促した。
「山下さん、別にそんなに忙しくないと思いますよ。メールなんて、2分もあれば送れるじゃないですか。『先にメール送らせて』で済むところをわざわざ『34セレのベンダーが』とか言って、大きい自販機の営業が成功しそうなことを周りにアピールするとか、ちょっといやらしいですよね」
赴任初日で遠慮がちになっている様に見える課長が早く馴染めるといいなと思い、洋樹を弄ってよそよそしさを取っ払おうと試みる。
「たーきーがーわーさん‼ みんなに聞こえる様に俺をディスって辱めるのやめてくれる?」
メールを打ち終わった洋樹が、唇を尖らせながら課長のデスクにやってきた。
「違っていたなら謝ります。すみません。でも、そうとしか見えなかったもので」
洋樹に全く謝意のない謝罪をすると、「いじわるめー」と言いながら、洋樹が私の肩を軽くど突いた。
洋樹と視線が合って『ふふふ』と笑い合うと、
「それで、どういった用件でしたか?」
洋樹が笑顔のまま課長に話し掛けた。
「お得意様にご挨拶に行こうと思っているのですが、どの順番で回れば良いかと……。混雑しやすい道や時間帯があれば教えて頂けますか?」
洋樹にもこっちが恐縮してしまいそうなほどに、下からお伺いを立てる課長。
「それでしたら……」
洋樹が「この道は午前は3車線なんですが、午後から2車線に減少するので、この会社は1番に回った方が良いです。この道はいつでも混んでいるのでこの会社は最後がいいと思います」と言いながら課長のパソコン画面を指差しながら説明した。
課長は「なるほどなるほど」と頷くと、
「ありがとうございます、山下くん。山下くんルートで攻めようと思います」
洋樹に笑顔でお礼を言った。
「お役に立てたなら嬉しいです」
そんな課長に洋樹も笑顔を返す。
「山下さん、ドヤ顔でのアドバイスを本当にありがとうございました」
課長の使う言葉は丁寧で礼儀正しくて素敵だとは思うけれど、やっぱり堅苦しい。だからもう1度洋樹を弄ってこのお堅い空気の懐柔を図る。
「どういたしましてー。ドヤってませんー」
私の意図を知ってか知らずか、しっかり私の弄りに対して返事をする洋樹。
そんな私たちを見て、
「仲が良いんですね。山下くんと滝川さんは」
課長が目を細めて微笑んだ。
課長の言葉に『あはは』と照れながら頭を掻く洋樹。
そんな洋樹の隣で、
「この支店は社員全員仲が良いんですよ」
『私たちだけが特別に仲が良いわけではありません』という風にも取れる言葉を返した。
洋樹が何か言いた気な、何とも言えない目を私に向ける。
その視線に気付きながらも、課長に作り笑顔を見せた私の目は、きっと笑えていなかっただろう。
「そうですか。安心しました。社内の雰囲気の良い支店に赴任出来て嬉しいです」
洋樹と私の微妙な空気には気付いていないだろう課長が、作り物ではないにこやかな笑顔を浮かべた。
「課長も一緒にもっともっと支店を盛り上げていきましょうね。では、私たちは仕事に戻ります」
課長とは反対に、私の笑顔は崩れてしまいそうだったから、そうなる前に自分のデスクに回避する。
課長のデスクから離れる際に、洋樹がもう一度私に視線を送ってきたことは分かっていたけれど、気付いていないフリをした。
洋樹と付き合うことになった時、洋樹に『俺たちが付き合っていることは会社には黙っておこう』と言われた。
それは、洋樹が仕事とプライベートを分けたいと思っているからだろうと思っていた。だから快諾した。
洋樹は隠し事や嘘が下手くそな人間で、洋樹が曽根さんと浮気をした時はすぐに分かった。
洋樹が会社で私に話し掛けられる度に、曽根さんを気にしていたから。
曽根さんは洋樹と私が付き合っていることを知らなかった。
だから、曽根さんは悪くない。
曽根さんに憎しみを持ちつつも、彼女を責めることは出来ない。
だから怒りの全てを洋樹にぶつけた。『だから、会社のみんなに私たちが付き合っていることを隠したかったんだよね⁉』と。『違う。本当にそうじゃない』と洋樹は何度も頭を下げた。
洋樹は嘘が本当に下手だ。だから、洋樹が本心を言っていることも本当は分かっていた。
あの時洋樹が、『会社に黙っておこう』と言ったのはただただ本当に【仕事は仕事。プライベートはプライベート】と切り離したかっただけで、隠れて浮気をしたかった為じゃないことは。
分かっていても、勘違いをしているフリをして洋樹を責めたかった。
辛くて辛くて仕方なかったから。
洋樹は浮気を反省し、私に誠意を見せようと社員たちに私たちの関係を話した。
【日花里が1番大事】と言っていたらしい。
嬉しかった。
でも、洋樹に浮気をされた日から、私の心は何かおかしいんだ。
鬱になるほど病んではいない。
面白いものを見ればお腹を抱えて笑うし、夜もぐっすり眠れるし。
だけど、何となくいつも心が気怠い。
浮気をされたことがいつも頭の中心にあるわけではない。でも、頭の端っこに居座って動かない。
隅っこでおとなしくしていたかと思えば、ふとした時に主張してきて、あの時の苦しさを思い出させる。
浮気をされる前の、洋樹を純粋に大好きだったあの頃の私に、どうしたら戻れるのだろう。
洋樹の浮気を知る前は、洋樹との結婚も真剣に考えていた。
一方の洋樹は、浮気をするくらいだから、私との結婚など考えていなかっただろうし、『俺はまだ遊びたい』といった空気も発していた。
重い女になってはいけないと、『結婚したい』などとは口にしなかった。でも、地元の友達の結婚式に出席した時に『結婚式、素敵だったよ』とか、聞かれてもいない感想を言って匂わせたりはしていた。
私が結婚したがっていたことに、洋樹も感付いていたと思う。だけど、洋樹は『へぇー』としか言わず、『関心がありません』と言った態度を取っていた。
それでもいつか、洋樹と。
そう思っていたけれど、最近はそんな気持ちもなくなった。
結婚をしたくないわけじゃない。だけど、したいわけでもない。結婚を諦めたということとも多分違う。
ただ、洋樹との結婚に、洋樹に、期待をしなくなったんだ。
【結婚】という文字に、何も感じなくなった。
結婚式のCMを見ても、お店に飾られているウエディングドレスを見ても、『あぁ、綺麗だな』としか思わなくなった。自分の結婚式を、結婚を、想像することがなくなった。
時々、洋樹とこのまま付き合っていて良いのかなと考える。
浮気をされたけれど、洋樹を嫌いになれなかった。だから、別れる理由がない。
だけど、浮気をされたことがずっと引っかかったままの私といて、洋樹は楽しいのだろうか。
結婚をしたがらなくなった私は、逆に付き合いやすいのだろうか。
浮気をされる前の様な愛情を注げなくなった私から洋樹の心が離れて、洋樹から別れを告げられたとしたら、私は『別れたくない』と泣くのだろうか。それとも、『分かった』と言って今度こそ別れを選ぶのだろうか。
分からない。