番外:織田遼は考察した。
今朝のことだ。
いつもの如く自分の席で小説を熟読しているところに、声がかかる。
俺にこうやって話しかけてくる物好きは、このクラスでもっとも対人会話に長ける安形くらいなものだと思っていた。だから、今回もそうだろうかと一瞬の考えが浮かぶものの、はたと気付く事があった。明らかに話し方が安形のそれではない。おまけに声の高さも違う。そもそも、俺はこんな変声期を受け流したような声質をした奴が知り合いに居ただろうか。
もしかすると、俺に声が掛かったわけでは無いのかもしれない、と多少訝りながら顔を上げたが、果たしてその人物の両眼は俺を捉えていた。
これで俺が話しかけられていることは疑いようのないものになったが、不思議な話だ。その顔に見覚えがないことにすぐ気が付いた。
彼が里中と名乗ったところで、ようやく俺の記憶の湖底から浮上してきたものがあった。
そう、そうだ。こいつは里中信吾。2学期が始まって一週間しないうちに教室から姿を消してしまった生徒だ。聞くところによると、久々に学校に来たために席が分からなかった様子。ここ最近、自分の斜め後ろの席が空いていることは知っていたし、なんなら席替えのすぐ後に安形とその話をちらりとしたところだった。
席の場所を伝えると、彼は俺の名を尋ねてきた。1年では違うクラス、2年の1学期はほぼ会話をしたことがなかった。それゆえに、俺が忘れていたように彼も忘れていたのだろう。おあいこだなと思いつつも自分の名前を告げる。
名前を覚えたと言い、席を教えたことへの礼を口にした彼は、笑顔を浮かべて自分の席へ着いた。
笑顔。そう、笑顔だった。俺は彼に関する数少ない記憶を掘り起こすものの、こんな風に人当たりの良い笑顔を浮かべていたという印象は全く無かった。2年で初めて同じクラスになり、今まで話したこともほとんどなかったため薄弱な関係性ではあるものの、人当たりの良さも加わり前とはまるで別人のような雰囲気。格段に明るくなっている。それも今まで不登校であったにも関わらず、だ。そこの矛盾に、俺はどうしてか興味をそそられた。
そんな風に違和感を覚えつつ、掲示物を真剣に読んでいる里中をぼうっと眺めていると、朝礼前のチャイムが教室や廊下に響いた。
出欠を取る時、担任は当然のように驚いていた。無理もない。これまで来る気配の片鱗すら見せなかった生徒が突然に現れたのだから。
朝礼が終わると、里中は担任と連れ立って廊下に出て行った。
それを横目に見つつ、自分は次の授業、国語の準備をし始める。
国語。……国語だ。月曜が憂鬱になるのは働いてなくても同じなんだな、ということを思い知る時間だ。
はっきり言って、教科担任の井上は面倒すぎる。担当するようになった最初の授業で、教科書に記名していなかった生徒が多かったからと怒鳴り始めた時に、今学期の国語は頑張らないとな、と決意した。もちろん、自主学習をだ。その決意は決して間違っておらず、その後も井上は事あるごとに授業を中断して説教を始め、元からそれほど分かりやすくはない授業が更に分かり辛くなったように思う。
俺に関してだけ言えば、自分で勉強すれば大抵はできるし、分からない点は塾の講師に質問もする。
問題なのは、安形がテスト前に出してくる救難信号に答えるのが面倒そうだというところ。あいつは国語が元々できる方じゃないからな。あの授業じゃあ益々分からない点が増える事だろう。
そんなことを考えているうちに、里中が席に戻ってきていた。俺はこの授業に関しては予習復習を休み時間もしているから…国語が終わったら、少し話しかけてみるか。
と思考を巡らせていると、安形の話す声が聞こえてきた。
あれ?これ里中と話してるんじゃ。いや、普通にそうだよな。しかも割ときちんとコミュニケーションを取り合っているようだ。
胸中で安堵する。
安形とまともに話しているなら、大丈夫だと言っても良いだろう。あいつは顔も広いし、思った以上に気配りのできる奴だ。里中が今後孤立する可能性はぐんと少なくなったはず。
…まさかとは思うが、担任の森久保は里中が来た時の事を考えて安形と近い席に配置してのでは。そういえば前回の席替え前も安形とは近い席にあった。森久保が安形の影響力の高さを判っていれば、あり得ない話ではないな。
それに、俺も話しかける口実が出来そうだからな。全く都合が良い。
結構盛り上がって話しているみたいだが、安形の口調に焦りのようなものが聴いて取れる。どうしたのかという疑問は、国語の授業が始まった直後に解消することとなる。
まさか、井上に真っ向から里中が咬みつくとは思わなかった。とは言っても、語り口調は非常に穏やかで丁寧。授業内容の解説を始めた時は、話し方が井上より教師らしいと感じてしまうほどだった。
…ていうか、この解説ホントに分かりやすいな。問いに対しての根拠付けがしっかりと論理的にされている。国語が苦手な奴でもこれなら簡単に理解できるんじゃないか。
その上記憶力の方も驚異的。『坊ちゃん』を諳んずるだけならまだしも、ページ、行数まで完璧に記憶しているらしい。里中の脳内に教科書が存在しているんじゃないかというレベルだ。
しかも国語だけではない、ということなので、他の教科書も頭に入っているらしい。学校に来ていた頃には勉強が特別できていたという事実は無かったはずだが……。これ、次のテストで勝てる気がしないな。短い時間でそう思わされるほど圧倒的だ。俺も勉強には割と自信があったんだがな。
だって、教科書を全部まるっと覚えてるような奴に勝てるわけないだろ。うん。もうあれだな。安形と一緒になって勉強教わった方が良い気がする。
学校に来てなかったうちに一体何があったのか、というのが非常に気になるところだな。
国語の授業が終わると、安形がすぐに里中へ話しかけていた。少なからず興奮を覚えているのか、その声は大きめのものだ。というか、里中っちとかいう呼び名が響いたが、いつものあだ名か。
こいつはやたらと人にあだ名を付けたがるからな。しかもそのセンスが謎だ。例えば、鈴木という苗字なだけでニッチローというあだ名を付けたことがあった。そこはイチローにしてやれと指摘したものだ。
2人が話しているところに割って入る。
安形の話を聞いていると、里中のあだ名も案の定、変な付け方をしていることが分かった。今回は結果がまともになったが、過程が本当に謎だ。あと、1年序盤で付けられた俺のあだ名が(なぜ今まで疑問を持たなかったのか)また妙な発想から来たものだと発覚した。意外なタイミングで分かるもんだ。
3人で話していると、まだ時間はあるものの田後先生が教室に入ってきた。そういえば、安形は田後先生には自分であだ名を付けずにヨシちゃん、と皆が呼ぶあだ名で呼んでいる。なぜだろうな。
そう疑問を頭に浮かべていると、里中が安形へとある提案をした。安形が教科書を借りに行く機会を作る。というものだ。これに安形は超速で反応し、教科書を里中に渡して教壇へ向かった。里中……この策士め。
英語が終わった後の休み時間。先ほどのように3人で話していたのだが、妙なことを里中が聞いてきた。それは2か月学校に来なかったからと言って忘れるような事だろうか、というような内容。
例えば、昼の休み時間は何分間だったか、とか。田後先生の受け持ったクラスは成績が上がるという話を聞いて、初耳だと言った風に聞き入っていたところだとか。
教科書を丸ごと暗記するような記憶力の持ち主が、それを何故忘れるのかという疑問が生まれる。
勉強に関しては問題なさそうで安心したが、それ以外、学校生活に関しては一抹の不安を覚えるような。…まさかではあるが、記憶が部分的に欠落しているということは無いだろうか。学校が嫌すぎて、という理由から。
そんな予測に至った根拠が無いというわけでは無い。
記憶を遡る。
4月ごろ、里中が唯一喋っていたのは…もうこの学校には居ない生徒だった。俺の記憶が正しければ、斉藤という名だったはず。斉藤は里中とは1年から同じクラスで友人だったようだが、6月頃に家庭の事情から転校してしまい、急に仲の良い友人が居なくなった里中はクラスで孤立してしまった。
そしてそれから程なくして、里中は宮脇達に目を付けられてしまった。宮脇といえば、1年の頃から他の生徒に暴力を振るって面白がるような、いわゆる問題児だ。それも隠すのがそれなりに巧く、教師陣も証拠がはっきり掴めずに手を出しがたいのだとか。
斉藤が転校してやや孤立した里中に、獲物を見つけたとでも言わんかのようにあいつらはちょっかいをかけていた。現場をしっかり見た奴は居なかったみたいだが。
それとなく安形やその他数人がフォローして悪化を防いではいたようだが、事態が動く前に里中は学校に来なくなった。このままだと本格的に虐めに発展してしまうだろうと、里中自身が早々に察してのことだったのだろう。
そんなことがあって、精神的に追い詰められた結果学校生活のことを記憶から消している、という可能性が無いことはないと思う。
たとえそうでなくても、俺たちは里中を独りにしてはいけないと。そんなことを考えていた。
だからこそ、昼休みに里中が宮脇らに呼び出されたときは気が気でなかった。
こっそりと後ろからついていき、様子を窺うことにした。当然、何か起きたらすぐに出て行けるように腹積もりはしておく。
ちょっと待て。なんでお前は煽ってるんだ……!
どう考えても自分が危ない状況に居るのは分かってるだろうに。
あ、胸倉を掴まれた。これはもう、出ていくしかない。偶然を装い、ただ単に一生徒が通りかかったようなふりをして……おっと。
丁度、井上が上ってくるらしい。たとえ井上でも、奴らの抑止力にはなるのか。そこが意外だ。
宮脇達もすぐにここを通るだろうし、何より里中をつけていたのがばれるのは拙い。俺は一旦教室に戻るとしよう。
少し時間が経ってから教室に戻ってきた里中に、どこに行っていたのかと白々しくも質問する。が、里中は野暮用だと言って曖昧にはぐらかした。
…当然ではあるが、話してはくれないか。俺は今日初めてまともに里中と話しただけの関係だし、そんなにすぐ信頼してもらえるはずもない。
そもそも、俺達は里中を孤立させてしまった側の人間。里中が学校に来ないという手段を選択せざるを得なくなった原因と言ってもいい。
そんな背景もあり、自分の考えていることが単なる偽善的な思いなのではないかという疑念すら生まれてくる。
俺はどうするべきなのか。
……分からない。
そんな感情を胸に抱いたまま、午後の授業が終わり、とうとう放課後になる。
里中は終礼が終わるや否や席を立った。すぐに体育館倉庫裏へ向かうつもりなんだろう。俺はとうとうモヤモヤした気持ちを押さえきれずに、そんなに急いでどこに行くんだ、と声をかけた。
しかし案の定、里中の返事は俺が望むようなものでは無かった。
当たり前だ。
でも、俺は。
たとえ自己満足であろうと、力になりたい。
今まで知らなかった一面を見て、もっと知りたいと思ったから。
一緒に帰ろうとまで言ってくれたことが何故か、たまらなく嬉しくて。
そんなことを考えていたら、ぽろっと、俺が昼休みのあの場面を見ていたと明確に分かる言葉を零した。
軽蔑されるだろうか、なんて狡い考えを持った俺に対して、里中は驚いた表情を一瞬浮かべたものの。すぐに朗らかな顔つきになり、ひらりと手を振って教室を後にしたのだった。
……なんというか、あいつなら大丈夫な気がしてきた。
とはいえ、心配なものは心配だ。安形には3人で帰ろうという旨を伝えて快諾をもらい、無駄話をしながら時を過ごしていく。
が、ずっと俺の視線はチラチラと時計の針ばかりを気にしていた。こんなに時計の進みが遅いと感じたことがあっただろうか。
5分を過ぎた頃、もうすでに俺の不安は限界に達していた。
安形との会話にも脳の処理が割けなくなってきた時分に、ちょっとトイレ、と告げて教室を飛び出す。1分もかからずに下駄箱に着いただろう。
里中の靴箱には未だに上履きが残っている。まだ戻ってきていない。
何分経った。もう15分は過ぎているんじゃないか。そう思うほどに、はやる気持ちは抑えられなくなっていった。大丈夫な気が、などと思ったことはもう忘れた。
15分なんぞ知るか。そんなことを考えて自分の靴を取ろうとした俺の眼に、人影が映った。
ああ。間違いなく、里中だ。
あまりに自然体で歩いてくるあいつを見て、俺の心は震えた。
湧き上がった感情に名前を付けるとするなら、それは畏怖だろう。
里中なら、なんでも軽くこなしてしまうんじゃないか。何も恐れるものが無いんじゃないだろうか。
……まったく、興味が尽きない。
きっとこいつの近くに居れば、もっと面白いものが見れる。
俺はそんな、確信に近いような思いを抱いていたのだった。
高揚した気分ではいたが、里中に対しては平静を装って、俺がいつもするような話し方で帰ることを促した。
さっさと教室に戻らないと、なんだか安形がぐずりそうな気がするからな。




